第13話 新しい世界

 目が覚めると、一人だった。

 サシェナはどうしたのか、と部屋を見回すと、外套《マント》が無くなっている。鞄はある。

 外套がないということは、宿を出たのだろう。鞄があるということは、戻って来るということだ。

 部屋の後に、つい、左手を見た。一日間手を繋がれていた。気儘に動くことの出来ない不自由さも味わったが、一人ではない心強さがあった。置いて行かれて、強く思う。こういう時には大きな寝台《ベッド》は非常によくない。心許無さが増幅される。

 何をして良いのか、何をして良くないのか、一人では判断出来ない私は結局何も出来なくて、取り敢えず、小卓子《サイドテーブル》に置かれた水差しの水を、少し頂いた。

(早く戻って下さらないかな)

 窓から外を見ると、空の色が午後の遅い時刻であることを示していた。

 昨日なら、遺跡を発ったくらいの時刻だろうか。一昨日なら、塔だ――翌々日には町の宿の一室で茫と往来を見下ろすことになるなど、想像もしていなかった。

 窓下に見える通りには、日常を送る人々の姿があった。

 往来を行く、商人も通行人も、庶民ではあるが何処となく品がある。

 通りに並ぶ建物の多くは古く、寂れた雰囲気がある。ここは古い大通りなのかも知れない。商業の中心地は他に変わっても住民には愛されている、そういうおっとりとした活気がある。

 見るともなしに通りの様子を眺めていると、視界の端に、旅装の長身を見付けた。白茶色の髪だからといって、サシェナだ、と思うのは早計だろうか。

 青年らしい歩き姿の旅人から目を離せないでいると、宿の手前で顔を上げた。真直ぐにこちらを見上げる。サシェナだ。

 部屋を見上げたサシェナもこちらに気が付いた。のんびりしていた歩調を早めて、宿の影に隠れてしまう。

 間もなく、扉の鍵の回される音がして、サシェナが戻って来た。

「オツカレサマ!」

 扉を開けるなり、何を言い出すのか、と思った。

 戸惑う私の前で、サシェナが意味あり気に笑う。今朝の遣り取りを思い出す。

 「オツカレサマ」は「お待たせしました」だ――。

 理解したことが顔に出たのだろう、サシェナが笑顔で頷いた。


「ちょっと買い物をして来ました」

 外套を脱いだサシェナに手招きされて、寝台を降りて、卓子《テーブル》に着く。

 寝ていた姿――肌着と下着だけだったので、身形を整えようとしたら、今日はもう出掛けないからいい、と言われたので、下服《ズボン》だけを身に着けた。

「この中に名前の分かるものはありますか?」

 サシェナは言って、卓子に随分と膨らんだ麻の巾着袋の中身を開けた。

 巴旦杏《アーモンド》、銀杏、胡桃、松の実、落花生、南瓜の種、向日葵の種、干し無花果《いちじく》、干し葡萄……全て知っているが、サシェナの言っていることは、そういうことではないだろう。「アーモンド、イチジク、ギンナン、クルミ、ヒマワリ」

「結構知っていますね」

「巴旦杏と向日葵の種は隊で運んでいたんです。南瓜の種と干し葡萄も知っている筈なのですが、思い出せません」

「他は好きなものですか?」

「銀杏は。干し無花果は母が好きでした。胡桃は、東地域の方が安く手に入るので、砂漠越えをする時には頼まれるんです」

 「成程」とサシェナは頷き、それから、南瓜の種を左掌に乗せた。

「****、ヒトツ、クダサイ」

 そう言うと、掌の上の南瓜の種を指差して「****」と続ける。

「カボチャ、ヒトツ、クダサイ」

 私が言うと、サシェナが頷く。

「ものの名前さえ分かっていれば、これは言えるのですよね?」

「はい。知っているものは少ないですが……市場でなら、アレ、コレ、ソレ、で大抵は済みますし」

 もう一度言って下さい、と言うので繰り返すと、南瓜の種を口に入れられた。

「ヒマワリ、ヒトツ、クダサイ」

 サシェナが彼を指差して言うので、向日葵の種を一粒取って、手渡そうとしたら、手首を捕まえられた。私の指から直接、食べる。

 掌を返されて、上を向いた掌に今度は干し葡萄が乗せられた。

「*****、****」

 かなりゆっくりと話してくれたが、聞き取れなかった。短い言葉だから、音としては聞き取れている筈なのに、意味が分からないから、脳内に再生し難い。

 自由になる方の手で、サシェナの前に指を一本立てて見せる。サシェナがまたゆっくりと言葉を繰り返してくれた。それから、掌の上の干し葡萄を指差す。

「ホシブドウ」

 殊更ゆっくりと言われた言葉を繰り返す。

「タ、ベ、タ、イ」

 私の言った「ホシブドウ」に、続けてサシェナが続きの言葉を口にした。私はまたそれを続けた。サシェナは頷いて、彼の口唇を指差す。

 掌の干し葡萄を摘まんで、サシェナの口唇の前に持って行くと、また指から直接食べられた。

「タベタイ……食べたい、ですか?」

 頷きながら、サシェナは今度は銀杏を一粒摘まみ上げる。

「コレ」

「ギンナン、タベタイ」

 言うと、銀杏を口に入れられた。

「タベタイ、は「タベル」と「シタイ」です「シタイ」はよく使う言葉ですから。取り敢えずこれを覚えましょう」

 行きたい、帰りたい、知りたい、眠りたい……。

 同時に、行きたくない、帰りたくない、知りたくない、眠りたくない……も覚える。

 合間に「ドウシマシタカ」「ダイジョウブデス」などの短い定型文も教えられる。全部は無理だけど、幾つかは覚えられたと思う。

 間違いなく覚えたのは「オシエル」と「ホシイ」で「オシエテホシイ」だ。


 「したい」「したくない」をあれこれ場面を想像しながら言い合っていると、部屋の扉が叩かれた。扉越しに何かが告げられる。サシェナが立って、扉を開いた。

「シツレイシマス」

 給仕が、手押し車《ワゴン》を押して入って来る。

「アリガトウ。**********」

 サシェナが手押し車を引き取り、給仕を帰す。

 私はその様子を唖然としながら眺めていた。

「夕食が届きました」

 銀色の蓋の乗った手押し車を卓子脇に着ける。

「食べに行けばいいのに。勿体無い」

 部屋まで運んでもらえば、別料金が掛かる。

「食事をしながら言葉の勉強などしていたら、目立ちます」

 思わず口を噤み――この散財は私の為か、と落ち込み掛けた。気持ちが、言われた内容を正しく理解して、霧散した。

「未だっ……食べながらやるのですかっ?」

「実地で回数をこなせば、言葉なんて嫌でも覚えます」

 「アレ、下さい」「コレ、食べたい」「口を拭いて欲しい」……食事というのは同じことの繰り返しが多く、特に一口一口食べさせてもらう際には本当に繰り返しが多く、食事が終わる頃には、口から自然に出るくらいになっていた。

「ご馳走様でした」

 朝同様に、私にとっては些か量の多かった食事を何とか終えた。

 食べた気がしない割に食べ過ぎて辛い、と息を吐き、習慣で食事への感謝の言葉を口にする。

「ゴチソウサマデシタ」

 サシェナが笑いながら言った。

 咄嗟には出て来なくとも、朝にも教えられた言葉である。言われれば分かる。

「ゴチソウサマデシタ」

 消化不良を起こしそう――。


「何か、聞きたいことはありますか?」

 食事を終えて、手持無沙汰になった。

 手押し車はサシェナが片付けてくれ、席を立つ切っ掛けもなく、どうしよう、と思っていると、サシェナが口を開いた。

「今日は、僕が一方的に話してしまったでしょう? 何か話したいことはありませんか」

 急にそんなことを言われても、困る。

「え……ぇ、と」

 何かあっただろうか、と考える為に少し俯く――気になっていること、聞きたいことなら、実は、ある。聞いて良いかどうか、悩む内容だ。

 躊躇う私を、サシェナが卓子に肘を突き、身を乗り出すようにして促した。

「聞きたいこともでも構いませんよ。何でもどうぞ」

 確かに――サシェナなら何を尋ねた所で、事情のよく分かっていない私に対して、怒ったり、気分を害したり、ということはしないだろう。

 私は、一つ小さく呼吸して、覚悟を決めて口を開いた。

「あの」

「何でしょう」

「サッシェナ様は、ご自身を、学者で探検家だと仰られていましたが。日常的な収入はどのように得ておられるのですか?」

 サシェナは、元々大きな目を更に大きくして、息を呑んで、ばたり、と卓子に伏した。肩を振わせ始める。

 サシェナなら、怒るより笑う、と思った。

「町に入ってから、無駄遣いが過ぎているのではないのですか?」

 今の私はサシェナの保護なしには何をすることも出来ない。全てを用意してもらっている。その私が、サシェナの財布の心配をするのは、幼けない子供が親の懐具合の心配をしているようなものだ。笑いを誘うのも分かる。だが、気になるのだから仕方がない。

「私のことなら本当に、奴隷と同じ扱いで構いませんよ」

 くつくつ、と笑っていたサシェナが笑うことを止めて、顔を上げた。

「そんなことは出来ません。あなたは僕の大切な人です」

 胸が引き攣るように痛んだ――。

「先ず、質問に答えましょう。収入ですが……確かに僕には定期的な収入はありません。大きな収入は依頼を受けて遺跡などの調査をすることです。ただ、多くの収入は採集の方だと思います」

 何の、と明言しないことに首を傾げる。私にサシェナが悪戯っぽく笑った。

「採集の多くは薬種です。でも金額の多くは恐らくは“ガラクタ”です」

 益々意味が分からなくなり、眉を顰める。

「遺跡などで希少価値の低そうな物のことです。学術的な価値は低くても、好事家などに売ると意外と良い値段が付くのです」

「それは……泥棒ではないのですか?」

「持ち主のない物を、誰から盗むのです?」

 そう言われると、返す言葉に悩む。

「それから、無駄遣いでしたか……その心配は無用です。僕の求めていた塔の守人はただ人なのです。数百年振りに人間の世界に戻って来ても、寄る辺もないことは分かっていましたから。暫くあなたに付き切りになれるように、準備はしてあります」

 サシェナは楽し気に言うが、私は口唇を噛んだ。

「すみません」

 何かもう、色々、だ――。

「謝る必要などどこにもありません」

 サシェナは立ち上がって、私の傍らに来た。

「何をするのですかっ!」

 跪くサシェナに、伸ばした両腕を、取られる。

「あなたは僕の妻になるのですから。僕があなたを支えるのは当然です」

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