アンナとレオン永遠の旋律

織辺 優歌

第1話 古びたライブハウス

 干からびた古いレンガ造りの小さなビル。アンナはここを月に一度訪れる。

階段は狭く、天井は体を曲げる必要も無いのに、自然と体を縮めようとするほど低い。その店は捻じ曲がったような建物の二階にある。

 店のドアを開けると、カウンターが狭い通路となんとか同居しているように店の奥に伸び、そのカウンターもグラスやウイスキーのボトルが所狭しと置かれているため、客は2~3人も座れば一杯になる。カウンターにひっつくようにして幾つかのソファーが置かれ、店の一番奥にグランドピアノが置かれている。どうやってこの店にピアノを入れることが出来たのか、いつも不思議に思う。

 そこは、シャンソニエでも有名な店で、その歴史はもうかれこれ30年にはなるだろうか。多くの歌手がこの店の片隅に作られたステージで歌ってきたのだ。

壁には、古いモノクロのシャンソン歌手の写真が飾られている。エディット・ピアフ、レオ・フェレ、バルバラ、ジュリエット・グレコ・・・。ランプの明かりもこの店に相応しく、霞んだ光を滲ませる。ほの暗い穴倉のようなこの店に座っていると、とても落ち着くことが出来るのだった。

 アンナは、月に一度、この店に歌いに来る。今日はいつもより少し早めに店に入った。マスターがしきりに譜面を見て、歌詞を覚えている。マスターは思い出したように気に入ったピアニストが出演する時だけ客の前で歌う。いつも原色に近い独特な模様が描かれているネクタイをしていて、その奇妙なネクタイをどこで手に入れるのか興味深いことでもあった。しかし、ピアノのことも、ネクタイのこともマスターに尋ねたことはない。

「アンナ、何か飲む?コーヒーでいい?」

「ええ。頂きます。」

「アンナ、最近歌いだしたアルディーの歌。あれ、いいね。」

「そう。私アルディー大好きなのよ。曲も声も。」

「うん、わかるわ。詩は自分で書いたの?」

「ええ。」

「偉いわねー。やっぱり自分で書かなくちゃだめかしらね。」

「マスターはいいじゃないの。書いてくれる人がいるんだから。」

「まあね・・・。あなたのその細かい黒のレース。素敵なドレスね。」

「ありがとう。これはお気に入りよ。」

「ホント、アンナ、黒が似合うわね。」

 マスターはコーヒーを私の前に出してくれると、また譜面をにらみ始めた。

今日のピアニストは顔なじみだった。今まで何度も共演している。まだ若いのだが、才能豊かで、おまけに人懐っこい性格だから皆に好かれていた。マスターは女性のピアニストより男性のピアニストの方が好みなようだ。それは、ピアニストに限ったことではなさそうだが・・・。でも、マスターが一番夢中で好きだったのはレオンだったわね・・・。私の愛したレオン。あれからもう何年経つのだろう。アンナはコーヒーを飲みながら、いつものようにレオンのことを想った。

 

 アンナは、シャンソンを歌ってもうかれこれ20年になる。

何箇所かのシャンソニエで歌っていたが、一緒に演奏するピアニストはその日によって変わる。顔なじみのピアニストもいれば、初めて顔を合わすピアニストもいる。

 レオンと初めて会った店は、客も疎らな小さなシャンソニエだった。もうすぐ開店時間なのだが、店の中は街のざわめきから隔離されたようにどこかひっそりとしていた。

「始めまして。アンナです。よろしくお願いします。」

「レオンです。よろしく。」

笑顔で答えてくれたが、彼はそれきり楽屋に入り、一言も言葉を交わそうとしなかった。優しそうだけど、繊細で少し気難しそうな人だわ。少しでもきれいに書いてある譜面を出そう・・・。そんな頼りなげな気持ちになったのを覚えている。

「音合わせをお願いしてもいいですか?」

「はい。」

 アンナは、数曲の譜面をレオンに渡した。彼はメトロノームでテンポを確認し、丹念に譜面を見ていった。アンナは、マイクを持ちながら、ピアノが鳴るまでの間、どうか声がちゃんと出ます様にと少し体が固くなるのを感じた。

 

 レオンは、少しピアノに覆い被さる様に体を丸め、それから右手で幾つかの音をポロンポロンとたたいた。そして前奏を弾きだした。その途端、芳醇なシャンパンの香りを放つような豊かな音色が流れ出した。ああ、なんて優しくて綺麗な音色だろう。アンナは自分が歌いだすことを一瞬忘れて聴き惚れていた。こんなピアノの演奏で歌えるなんて、今日は何て幸せかしら・・・。

 その日は最後までお客は少なかったが、4回のステージを歌った。歌い終わった後も、しばらくは高揚した気持ちが収まらなかった。

アンナは一曲でも多くレオンのピアノで歌いたいと思った。レオンの奏でる優しい調べに乗って歌うことを欲しただけでなく、一緒に演奏しているときは彼の傍に寄り添っていられるような気がしたからだった。始めて会ったばかりなのに、一緒にいられることが嬉しかった。そしてアンナはその優しい音色に乗って夢中で歌ったのだった。

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