エレメント・フォース

雨花そら

プロローグ

第1話 喪失の記憶

 

プロローグ《喪失の記憶》


 陽は半分ほどが沈み、夕暮れが街や海を染めていた。

 日本・横浜。金沢区に作られた人工海浜区画、横浜海浜公園の一角、舗装された道と海を柵で遮ったその一角に、四人の家族は訪れていた。

 少し頼りない細身の父親、誰でも構わず和ませてしまうような柔和な笑みを浮かべる母親の両手には、それぞれ幼い兄妹が固く手を繋いでいる。

 父は息子へ、広がる海を示しながら、


詠真えいま、お前は父さんと違って、この海のようにデカい男になるんだぞ」

「お父さんはデカくないの? 小さいの? リョウシさんなの?」

「……小さいな……もっと大きな身体だったら漁師できたかもな……頼りなくてごめん」

「ふふ、今でも頼りになりますよ、英敏ひでとしさん」

「だってお父さん。良かったね」

「うう……詠真……真奈まなさん……」


 息子の詠真と妻の真奈から励まされ、英敏は瞳に涙を滲ませた。

 その涙を拭こうと、娘が「うんしょうんしょ」と背伸びをして腕を伸ばす。


「はは、ありがとう英奈えいな。父さんは大丈夫だよ」

「だいじょーぶ? ほんと?」

「ああ本当さ。英奈のおかげで、ほら、涙止まったよ」


 と言う英敏の瞳からはより一層涙が溢れていた。

 うそだめ! と騒ぐ英奈を真奈があやしていると、母の手を離した詠真が柵によじ登って、眼前に広がる海の大きさに感嘆の声を上げた。


「すげえ」

「だろう?」

「俺、こんなデカい男になれるかな?」

「なれるさ、詠真なら」

「どうすればなれる?」

「そうだなあ、まずは……『許せる心』を持て。もし英奈がお前のおやつを食べてしまったとしても、お前は寛容な心で許せる男になれ」

「俺、そんなんじゃ怒らないよ」

「ははは、詠真はもうその心を持ってるんだな。だけどな、許して良いこととダメなことを見極める目も必要だ。許すか許さないかを判断する時、詠真は『自分だけの視点』で判断しちゃいけない。『他人の視点』にも心を傾け、それから結論を出すんだ」

「???」

「まだ六歳の詠真には難しかったな。すまんすまん」


 英敏は息子の頭を撫で、その目を海の向こうを移した。

 その隣に、真奈が寄り添うように立つ。


「父さんな、デカい男じゃないんだ。きっと、許せそうにない」


 その言葉の意味を理解できていたのは妻だけ。理解できずとも、子供たちは聞いておかなくちゃという気持ちになり、英奈は母の、詠真は父の手を握った。


「親ってのはそんな生き物なんだろう。でもな、父さんは『そんな感情』を抱きたくないんだ。母さんだって同じさ。これから何十年先もずっと、お前達の顔を見ていたい」

「孫の顔だって見たいものね。その為にもね……詠真くん、英奈ちゃん。私たちは、少しでも早く『この国』から出なくちゃいけないの」

「くに?」

「そう、国。日本。二人が安心して、安全に生きていくには、この国じゃダメなの」


 真奈は海の向こうを指さして、


「このずっと向こうにある『島』が、私たちの楽園。貴方たち──『超能力者』が何にも怯えず暮らしていける本当の楽園なのよ」


 母の微笑みに英奈は首を傾げたが、詠真は自信ありげな表情を浮かべ、父と手を繋いでいない方の掌を空に掲げる。

 すると詠真の黒い双眸が左右で赤と青に変色。小さな掌に小さな火が発生した。小さくも爛々と燃える火なのに本人は温度を感じていないようで、にへらと笑うと次いで発生した水によって火は掻き消える。

 濡れた掌を服で拭く詠真は、頭を母に軽く小突かれ、瞳が黒色に戻った。


「こぉら、お外で使っちゃダメって約束したでしょう?」

「ご、ごめんなさい……」


 超能力。それは超常的な現象を意のままに起こす力。世界中ありとあらゆる地域で、稀にその力を持って生まれる人間がいる。彼らは俗に『超能力者』と呼ばれている。

 詠真と英奈も、その一人だった。

 両親は当初驚愕したが、超能力者は人権が剥奪されている訳ではないし、社会的な待遇が特別悪いわけでもない。ましてや力を隠して生きていけば、何も不自由は無いのだ。

 だが、社会的な迫害よりも恐ろしい事が超能力者には付き纏う。

 ──『超能力者無差別殺戮事件』。

 その名の通りの事件が世界中で多発しているのだ。いや多発なんてものじゃない。これはおよそ一世紀近く前から発生し続けている怪異──『現象』とさえ呼ばれている。

 いつ殺されるか分からない。超常的な力を持っているにも関わらず、一方的に殺戮され続けている現実こそが、超能力者にとって最大の恐怖なのだ。

 そしてそれは超能力者を持つ家族とて同じこと。

 英敏も真奈も、日々その恐怖に怯えていた。子供たちに『現実』はまだ教えていない。

 どう教えろというのだ、彼らはまだ六歳と四歳の子供だ。あまりにも酷すぎる。

 だから、一刻も早い楽園への移住が必要なのだ。

 太平洋北西に浮かぶ人工島、超能力者保護機関『天宮島てんぐうじま』。

 現在この家族は、島からの移住許可申請の返答待ちだった。

 きっと通る。『天宮島』は先一◯年は埋まらないだろう受け入れ枠を持っていると言われているのだ。何も心配することはない。

 英敏は、詠真と英奈、真奈の三人をまとめて抱きしめた。


「もう少しだ。僕ら『木葉家』が本当に安心して暮らせるまで、あと少しなんだ。それまで、そしてそれからも、一緒に頑張っていこうな」


 それぞれが愛する家族を抱きしめ、陽は、その顔を完全に沈ませようとしていた。

 夕暮れが赤い。とても綺麗だ。明日もまた。この夕暮れを家族で見よう。

 この願いは、誰にも引き裂────



「──もう茶番は良いでしょう。殺しなさい」



 突如降りかかった物騒極まりない言葉の直後、夕暮れの赤は血濡れの紅に変貌した。

 詠真の目には、はっきりと映っていた。

 自分を抱きしめてくれている父の首から上が宙を舞い、噴き出した血が視界を染める。

 母の首から下、右肩口から真下に向けて生じた細い線が太い線に変わり、粘つく血が糸を引きながら身体が二つに裂け、中からナニかがたくさん零れ落ちた。


「──────ッ……」


 上手く声が出せない。呼吸すら儘ならなくなっている事にも気付けない。

 隣にいる妹は、父母の血の海に沈んでいた。英奈が生きているのか死んでいるのか、詠真には分からない。だが、父母はもう、生きている訳がないと感じてしまった。


「超能力者が『二人とも』生きていますが、誰が遊んでも良いと?」

「す、すみませんマドギール様! でもまずは抵抗させるのがセオリーなのでは……」

「黙りなさい。お前の不手際で使徒の怒りを買えば被害を受けるのは私なのです。それに欧州以外の地で不用意に名を口にするのもやめなさい。私に此処で殺されたくなかったら、早く生温い超能力者を殺せ。早々に帰還せねばなりませんからね」


 詠真は声のする方へ、自然と顔を向けていた。

 そこにいたのは二つの影。そのどちらもが黒いマントを纏い深く被ったフードで顔を隠している、怪しいという言葉が実体化したような存在だった。

 声色からして二人は男か。立場が上なのだろう丁寧な言葉遣いをする男がもう一人の男の後ろ腰を蹴り飛ばすと、蹴られた男が詠真の方へ顔を向け、明確な殺意を放った。

 本能的に『死』を感じた詠真は、倒れている英奈を背に抱える。

 詠真の脳内で繰り返されるのは『超能力者が二人とも生きていますが』という言葉だ。

 この場に、正体不明の黒マントの二人を除けば超能力者は詠真と英奈の二人のみ。

 ならば、英奈は生きていると思って間違いない。

 幼い少年は頭ではなく本能で理解し、色濃く感じ取った『死』を受け入れるのではなく、生きることを無意識に望むことで、恐怖による精神支配を振り払っていた。

 詠真は英奈を抱えて、涙が溜まった眼は両親を振り返らず、走り出す。

 ──お父さんが、お母さんが、死んだ。でも、このままじゃ自分達も死ぬ。

 生きるために、詠真は妹を連れて無我夢中で逃げ出したのだ。

 だが、それは許されるはずもなかった。


「対した精神力です。逃がしてはなりませんよ」

「ッあ──!」


 詠真の背中に強烈な追い風が襲う。六歳の少年の筋力は、四歳の妹を背負いながら台風並みの瞬間風速を持つ追い風に耐えられるほど発達していない。

 小さな二つの身体は吹き飛ばされ、全身を襲う激痛に地を舐める詠真は、自分より遠くに飛ばされ倒れて動かない英奈に手を伸ばす。

 無情にもその手は踏みつけられ、英奈の元に丁寧な言葉遣いをする男が近寄る。


「英奈ッ!!」

「黙れガキ。おとなしく殺されてろ」

「ぐううう……!」


 詠真の手を踏みつける男が吐き捨てながら脚に更に強い力を込める。

 歯を食い縛って痛みに耐える詠真は、それでもなお英奈に手を伸ばそうとするが、タバコを揉み消すように手の甲を躙られ、骨が折れるような音がはっきりと響いた。

 激痛に喘ぐ。その時、苦悶に歪めた眼は信じられない光景を目の当たりにした。

 英奈の側に薄く青い模様が光り始め、瞬きの内に現れたのは、三メートルを超える人間と牛が合体したような姿をした怪物。それは氷から削り出された氷彫刻にも見えるが、有り得ないことに四肢がしなやかに稼働したのだ。

 氷の怪物は巨大な拳を振りかぶり、英奈に向けて叩きつけようとしている。


「やめろ……」


 その拳が振り下ろされれば、四歳の少女など呆気なく死んでしまうだろう。


「やめろ……もう……英奈しかいないんだ……」


 その後に自分も殺される──などどうでも良かった。仮に一人助かったところで、人生は後悔と悲しみだけに満ちた生きながらに死んでいるようなものにしかならない。


「やめてくれ…………」


 氷の怪物が拳を、そして詠真の手を踏みつける男がいつの間にか手に握っていた鋭利なナイフを同時に振り下ろした。


「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 その瞬間、詠真の咆哮は突風となって吹き荒れた。先刻詠真が吹き飛ばされた追い風を凌駕するそれはもはや暴風レベル。

 手を踏みつける男が身体を大きくよろめかせ、ぐらりとバランスを崩した氷の怪物は英奈の一メートル隣の地面を叩き砕いた。

 即座に立ち上がった詠真の両目は緑色。真っ直ぐに英奈を見つめるその眼は、背後からナイフを突き出す男を捉えていなかった。

 だが、ナイフを持つ男は詠真の意思によって引き起こされた竜巻に飲み込まれ、剥がれて巻き上げられた地面のコンクリート片と内部で発生している無数の鎌鼬によって全身をズタズタに引き裂かれていく。

 ふっと竜巻が掻き消え、ナイフの男が地に落下する。男は既に息をしていなかった。


「返せよ……」


 詠真の瞳が右は緑のまま、左が青に染まる。

 氷の怪物と怪物を生み出した黒マントの男は、仲間だろう男がやられるのを眺めこそしていたが、余裕とは言い難い僅かな焦りを覗かせていた。


「雑魚とは言えど、一撃とは……随分な才能をお持ちで」

「英奈を返せ!」


 海面が揺れ、ドバンッ! と大量の海水が間欠泉の如く噴き上がる。それは巨大な蛇のようにうねって男に襲い掛かるが、怪物が構えた拳と接触した瞬間、恐るべきことに水の蛇は完全に凍結して破砕した。

 しかし詠真の意識は英奈にのみ向けられている。詠真が発生させた風が英奈の身体を空高く打ち上げると、そのまま海の中へ少女を投げ入れた。


「おや? 大切な家族をそんな──」

「──英奈はぜったいに、ころさせない!」


 そして詠真も、英奈の後を追うように大きく息を吸って海へ飛び込んだ。

 直後、海面が凍りつき、氷結は潜水する詠真を追いかけてくる。が、それは海面から深さ二メートル程の地点で止まり、たちまちに砕けて氷の破片となった。

 塩水が染みる目で、海底へ沈み行く英奈の姿を捉え、なんとか彼女の手を掴み取った詠真は、海水の流れに身を任せて水中を揺蕩った。息が続かなくなる。体温が下がる。

 意識が朦朧としてくる中、ほぼ無意識に海流を操作していた詠真は、固く掴んだ英奈の手を離すことはなかった。

 ……アイツは、許したくないよ……お父さん。

 英奈を抱きかかえて、詠真は意識を手放した。


 ──次に目を覚ましたのは、夜の帳が落ちた砂浜の上だった。


「ゴホッ……ゲホッ……えい、な!」


 飲み込んだ海水を吐きだして酸素を取り込んだ詠真は、テレビで見たことがある人工呼吸を見様見真似で英奈に施すと、拙い処置ながら彼女は息を吹き返した。

 近くにあの男、黒マントの姿はない。

 詠真は、無事に逃げ果せたのだ。

 奇跡。詠真は英奈の身体を抱き寄せ、感涙に咽び泣く。


「お、にぃ……ちゃ……」

「ごめん……ごめんな……お父さんとお母さん助けれなくて……ごめんな……」


 それなのに、詠真は「ごめん」と謝り続けるしか出来なかった。


 それから一◯年。

 あの事件から程なくして『天宮島』へ居を移した木葉詠真と木葉英奈の二人は、楽園の地で穏やかな日々を送っていた。


 


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