君と本棚を一緒にしたい

在原正太朗

第一話 秘密基地

1-1 秘密基地

「……たん」

  

 あの子がぼくを何と呼んでいたのか、上手く思い出せない。まだ声変わり前のはずなのに、冬のりんとして張り詰めた空気のように美しい声だけがぼくの耳に残っている。言葉に成る前の声。ほぼ毎日聞いていたはずなのに、思い出せないことが腹立たしい。


 あの子との出会いはあの子の両親が営んでいる生花店に行ったときだ。幼いときのぼくは花を愛でることよりも、決して広くはないけれど、色の刺激に満ちた生花店という特別な空間を冒険したいという好奇心が勝っていた。十年来の我が家の愛車、白のワゴンが駐車場にざざっという摩擦音まさつおんを残して止まると、僕はいち早く駆けていった。親の制止する声は僕の耳を守るように吹く風がかき消していた。

 店先にはチューリップやラナンキュラスなどの春の花たちがお客さんを迎えていた。その中に隠れていた唯一無二の花。パステルカラーに彩いろどられ、はにかんでいたあの子を見つけたときぼくは、瞳も心も奪われていたのだ。

 とにかく知りたかった。目の前に現れたあの子が何者で、何故色とりどりの春の花の中に隠れていて、何故ぼくにはにかんで見せたのか。

 そう思ったときぼくの口は自然に動いていた。あの子と友だちになることは、ぼくたちの運命の中で何よりも先に神様は決めていたのだ。


 この頃のぼくにはまだ部屋があてがわれていなかった。小学生にも満たないぼくに大人の目の届かない場所へ行かせるのは怖かったのだろう。だけど、あの子がうちに来るようになると、二人だけの空間が欲しくなる。大好きなおもちゃを誰にも渡したくないと思うように、あの子と過ごす時間をぼくだけのものにしたかったのだ。

 それはあの子も同じ思いだったのだろうか、それともただあの子のやさしさからぼくに合わせてくれていたのだろうか、ぼくたちは裏庭の使われていない物置を秘密基地と呼んで共に過ごした。初めは汚ないだの物が置けなくなるだの言っていたぼくの親であるが、根負けしたのだろう掃除を手伝うことを条件に、二人の部屋にすることを許してくれた。

 ぼくたちはその小さな秘密基地をネバーランドと呼んだ。物語の中の世界に比べてあまりにも小さな世界だったけれど、そう呼ぶには理由があった。

 ネバーランドの住人たちは時を持たないように、ぼくたちの秘密基地には時計が持ち込まれなかった。だから、ぼくたちの秘密基地にも時間は刻まれない。例え外の世界が時間を刻み夕暮れを迎えあの子が外の世界へ出ていってしまったとしても、学校が終わり三時のおやつや出された宿題を片付けることよりも早く、あの子は秘密基地へと戻ってくる。だから、ぼくたちの秘密基地に時間はなくて、この小さな世界が、あの子と一緒に居ることが、永遠のものだとあの頃のぼくは信じて疑わなかった。

 だけど、その幼すぎたぼくの想いはたった一つのものによって、はかなくも崩れ去る。


 、だ。


 時間の持たないぼくたちの秘密基地の中で、本棚だけは確かに時間を刻んでいたのだ。


 ぼくたちは互いに外から持ってきた本を読み合い、物置の天井すれすれの高さの本棚にしまっていく。その過程な中で、本棚の隙間は少しずつ埋まっていった。初めは隙間が埋まっていくごとに心が満たされる思いで、ただただ埋まっていくことが喜びだったのだけれど、その行為が時間を刻んでいるのだとあの子だけは気づいていたのだろう。


 その日ことだけはよく覚えている。小学六年生の三月。桜はまだ蕾を付け始めた頃、あの子がもってきた本が、ぼくたちの本棚の最後の隙間を埋めた。その瞬間にぼくたちのネバーランドは終わりを告げた。

 ぼくたちは中学校への進学がすぐそこへと迫っていたのだ。

 いや、それだけでは何も変わらないはずだった。進学する中学校さえ同じだったなら。

 ぼくたちの住む街は隣り合っていて、今すぐに駆けだしていけば辿り着けるほど近くに住んでいるのに、ノートに鉛筆で引かれた線のような学区という見えない柵が、ぼくの住む家とあの子の住む花屋さんを隔てていたのだ。

 気付いてさえいれば、同じ学校を選ぶこともできただろう。だけど、ぼくは物語の世界がそうであるように、ネバーランドが永遠のものだと思い込んでいた。例え外の世界で何度季節が移ろいでも、お互いの背格好が変わり学校に着ていく服が変わっても、何も変わらず続いてくものだと。

 何も気づけないまま秘密基地の中に取り残されたぼくは、君がぼくの前から姿を消したあの日、君の本が無くなりぽっかりと空いた本棚の隙間を見て静かな怒りと、激しい憎しみを内包した暗い感情を覚えた。


 そんな苦い記憶だから? 君がぼくのことを何て呼んでいたのか思い出せないのは。

 夢の中の幼い君にぼくは問いかける。

 君はぼくに答えをくれない。

 いつものようにはにかんで、思い出せないぼくの名前を呼ぶだけだ。

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