ペインティング

王生らてぃ

本文

「ろーちゃん、入るよ~」



 扉を開くと、どれだけ換気をしても拭い去れない、塗料の揮発臭が鼻を衝く。最初はマスクをしてもつらいほどだったのに、今では何の用意をしなくても平気になってしまった。慣れとは恐ろしいものだ。

 ろーちゃんはペンキと塗料まみれのツナギを着て、部屋の中を歩き回っていた。



 アトリエの床には、巨大なイラストレーションが広げられている。

 赤、青、緑。

 それから黄色。

 白と黒。

 大きさはアトリエの床と同じくらいで、だいたい六メートル四方程度もある。巨大なキャンバス地にペンキやスプレー缶などで乱雑に色を重ねているだけにしか見えないけれど、一度見たら目が離せなくなるような、不思議なパワーがある。

 ろーちゃんは裸足でぺたぺたと絵の上を歩き回り、色とりどりの足跡がそこかしこについているが、彼女はお構いなしと言った風だ。



「ろーちゃん!」



 大きな声でもう一度声をかけると、ろーちゃんはペンキを手に取りながら、わたしのほうを見ずに言った。



「その辺に置いといて」



 その辺、と言われた場所には、たくさんのビニール袋が乱雑に置かれている。



「あ……ろーちゃん、これ……」



 わたしが何度か持ってきた差し入れ。

 放っておくとろーちゃんは、飲まず食わずで創作に没頭してぶっ倒れてしまう、実際なんどかそういうことがあったので、わたしが定期的にアトリエに食事や飲み物を運んでくる。

 だけど、ビニール袋の中身は雑に荒らされていて、箱入りのバランス栄養食や、ペットボトルのお茶だけがなくなっている。

 わたしが家で作ったお弁当やサンドイッチは、そのままほったらかしになっていて、すでに腐り始めて異臭を放っている。



「ゴミ、捨てておくね?」



 ろーちゃんは答えずに、キャンバスに向かう。ベニヤの板を置き、その上に赤のペンキの缶を並べた。そして大きなハケを乱雑にそれにつけると、あちこちに描き始める。

 たちまち赤い線が、キャンバスの上に現れる。

 規則性も法則も何もない、ただただ、怒りに任せて描いているようにしか見えないが、ろーちゃんの顔は輝いていた。うきうきと楽しそうに、裸足の爪先立ちでキャンバスの上を歩いていく。やがてペンキが少なくなると、水打ちでもするかのように残った少ないペンキを缶ごと振り回してぶちまけた。

 勢い余ってろーちゃんはずっこける。

 体がペンキまみれになり、描いたばかりの赤が滲む。だけど、あははっ、と声を上げて笑った。

 すごく楽しそうだった。

 そして、きれいだ。

 絵を描いているときのろーちゃん、とってもかわいい。



 わたしは古くなったサンドイッチやおにぎり、お弁当を回収して袋にまとめ、新しい差し入れをアトリエの隅にそっと置いておいた。



「ろーちゃん、あのね、サンドイッチ、また作ったの。野菜がいっぱい入った奴、よかったら……」

「いらない」

「よかったら食べてね。ろーちゃん、お菓子とか、インスタントなものしか食べてないから、心配で……」

「用はそれだけ?」



 ろーちゃんはのろのろと立ち上がり、わたしに見向きもせず、足元のペンキの缶を思い切り蹴り飛ばした。壁にぶつかって、わずかな赤い色彩とともに、からん、と缶がキャンバスのうえに転がる。



「はぁ……、」

「じゃあ、また来るね」

「もう来ないで」

「また来るね。ちゃんと、食べて、寝ないとダメだよ。その絵、完成したら……」

「帰れ! うっとーしい、気が散る、邪魔!」

「ばいばーい」



 わたしは扉を閉めた。

 ああなったらろーちゃんからは離れるのが吉だ。だけど、放っておくとゴミまみれで栄養失調で倒れているろーちゃんが発見される。わたしはそれを防ぐのが自分の使命だと思っている。



 ろーちゃんはもう半年近くもアトリエから出ずに、あの絵を描き続けている。

 いったい、なんのために描くのか、わたしにはもはや分からない。

 だけど、絵を描いているときのろーちゃんの後ろ姿、横顔は、とてもきれいで……わたしは、それを見るのが好きなのだ。



 右手から下げたビニール袋には、腐りかけのサンドイッチやお弁当が入っている。ろーちゃんはわたしがいないと駄目なのだ。ゴミもまともに捨てられないのだから。そう、わたしはろーちゃんにとって必要。わたしがあの子を生かしている。わたしがあの子にとって必要なのだ。

 だから何を言われても、どんな態度を取られても平気だ。わたしはろーちゃんのことを支えるって、決めたんだから。



 わたしは手にさげた袋を駅のゴミ箱にぶち込み、大きく深呼吸をして、ため息をついた。

 いつか、わたしの作ったお弁当も、ろーちゃんに食べて欲しいなぁ。

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