第8話「忘れちゃう前に」
空に月と星が浮かぶ頃。
あの海岸から離れた小島で、シュネーとスタッグはたき火を囲んでいた。
海に飛び込んだだめ濡れた服は、脱いで焚火のそばで乾かしている。下着姿では、さすがに向かい合ってはどうかと思ったようで、スタッグは背を向けていた。
シュネーは膝を抱え、ぱちぱちと弾ける火を見つめながら、少しぼうっとしている。
先ほどのコールマンの事が頭から離れないのだ。
魔法が使えないでしょう、とスタッグはコールマンに指摘した。
だが、コールマンは魔法使いだ。シュネーもコールマンが魔法を使う所を何度も見た事がある。
魔法は使えていたのだ。
だが、スタッグのその指摘にコールマンは動揺していた。
その姿は言葉よりもはっきりと、それを肯定しているようにシュネーには見えた。
ならば、それが示すのは恐らく、コールマンが『魔法を使えなくなった』という事だろう。
魔法使いが魔法を使えなくなる、そんな事があるかどうか。
――――ある。
事実として、それはある。どういう理由かは分からないが、ある日突然、魔法が使えなくなった魔法使いの噂話は、魔法使いたちの間で流れている。
そして皆口を揃えて『使おうと思ったら使えなかった』と言うのだ。
実際に、シュネーはそれを見た事があった。
師匠であるマルコだ。
≪見通しの≫マルコと二つ名で呼ばれているシュネーの師匠は、コールマンと同じく城仕えの魔法使いだった。
多くの人を助け、攻めてくる敵国を退け、数多の悪党を捕え――――時には事情次第では悪党にすら手を差し伸べる。そういうお人好しだった。
その名は他国まで響き、マルコがいるからあの国とは敵対してはならない、とまで囁かれるほどであった。
だが、そんなマルコは、ある日突然、何の前触れもなく魔法が使えなくなった。
ようやく取れた休日、シュネーとコールマンを連れて、遊びに出かけていた時の事だ。
悪漢に襲われていた知人を助けようと、マルコは魔法を使おうとして――――使えなかった。
シュネーが見た事もないような愕然とした顔だった。だが、それでもマルコは直ぐに気を取り直し、素手で必死に悪漢を追い払ったのだ。
殴られ怪我をしたマルコであったが、何とか全員無事であった。
家に帰り、マルコの手当をしている時に、マルコはぽつりと「魔法、使えなくなっちゃったみたい」と二人に話した。
コールマンはショックを受けた顔をしていたが、マルコは逆にホッとした顔になっていた事をシュネーはよく覚えている。
それからマルコは城仕えを辞めた。魔法が使えない魔法使いがいても、という理由でだ。
国からは強く引き止められたが「役割を果たせない」と頑なであったため、国が折れたのだ。もっとも、依頼としてで良いから知恵を借りたい、という国からの妥協案を飲んだのではあるが。
仕事を辞めたマルコは、専ら薬師として生活するようになった。魔法が使えなくとも、出来る事はあるのだ。シュネーの薬の知識も、マルコから教わったものである。その頃からシュネーも、自主的に販売する分としての薬を作るようになった。
そんな二人を他所に、コールマンはマルコの代わりに魔法の依頼を受けることが増えていた。これは仕方なしにという事ではなく、コールマンが積極的に受けたのだ。
だが、その事でマルコとコールマンが揉める事が増えた。マルコとしては心配だったのだろうし、コールマンにも考えがあったのだろう。言い合う二人を止めるのは、シュネーの役目だった。
そんなある日。
マルコはいつものように、薬師としての仕事に出かけていた。
その時、マルコは魔獣に襲われる子供を見つけたのだ。
マルコは躊躇わず、魔獣に向かっていき大怪我をし―――家に搬送された時には酷い有様であった。
シュネーとコールマンが泣きながら魔法を遣おうとすると、マルコはそれを止めた。
「お前たちを、忘れたくない」
ただ、ひと言。それだけでシュネーとコールマンは動けなくなった。
マルコは二人に微笑み、その一時間後――――帰らぬ人となった。
あの時、マルコに断られても魔法を使えば良かったのではないかと、シュネーは今も後悔する。
師匠の望みであっても、忘れられても、生きていてくれればそれが一番ではないか。マルコの事を思い出すたびに、シュネーはそう思うのだ。
「――――大丈夫ですか?」
そんな事を考えていると、スタッグに声を掛けられた。
シュネーはハッと我に返ると顔を上げる。そしてスタッグの方を見た。
「え? あ、ああ! あははは、平気です。いえ、その、ちょっとびっくりしちゃって」
シュネーは慌ててそう答えた。
どのくらの時間、考えに耽っていたのだろうか。
スタッグの背中に向けて、シュネーは困ったように笑うと、指で頬をかいた。
「……何か、あれですね」
「?」
「私、ずっと、魔法が使えなくなったらいいのにって思っていたんです」
ぽつり、と胸の内を漏らす。
スタッグは「はい」と静かに聞いてくれた。
「いざ使えなくなったらって思うと……あれですね」
魔法からも、忘れられてしまうようで。
そう言いかけてシュネーは口を噤んだ。
それよりも言うべき事があると気が付いたからだ。
「……兄さんがすみません」
シュネーはスタッグに謝った。色々と、酷い事を言われていたからだ。
だがスタッグは気にした風でもなく、
「いえ。何だかんだで僕も酷い事言っちゃって」
と笑って言った。
「まぁ僕、海賊ですからね。お兄さんの仰る通り、褒められた事はしていないです。もっと凄い事言われる事がありますから、優しい方ですよ」
「凄い事、ですか」
「ええ。お嬢さんに聞かせるには憚られるようなくらいの」
どんな言葉なのだろうか、とシュネーは目を瞬く。
シュネーのこれまでの生活が、汚い言葉とはほぼ無縁のものであったので、思いつかないのだ。
スタッグが『凄い』と言うのならば、きっと『凄い』言葉なのだろう。
シュネーがそんな事を思っていると、スタッグが「でも」と言葉を続ける。
「でも、心配しているのは、本当だと思いますよ」
そしてそう言った。
コールマンがシュネーの事を心配しているのだ、と気遣ってくれたのだ。
だからコールマンは怒っていたのだと。
それはシュネーにも良く分かっている。何といっても、シュネーのたった一人の家族なのだ。
コールマンはどんな時も優しい。師匠やシュネーの事を想ってくれている。
『それがどれだけ。――――どれだけ嬉しかったか、兄さんには分からない!』
シュネーの頭の中に、先ほど自分が言った言葉が蘇る。
それはシュネーがずっと貯め込んでいた感情だった。それがうっかり飛び出してしまったのだ。
あの時に見た、月のようなコールマンの目が動揺したのが忘れられない。
怒鳴ってしまった。傷つけてしまった。じわり、とシュネーの胸の内に、後悔が苦く広がる。
「……酷い事を、言ってしまいました」
シュネーは俯き、呟くような小さな声で言う。
スタッグは肯定も否定もしなかった。だが優しい声で、
「大事な家族なら、言葉を尽くせばきっと伝わります」
と言ってくれた。シュネーはぎゅっと手を握る。
そして、
「……はい」
と少しだけ震える声で頷いた。
◇ ◇ ◇
それから少しして、ようやく服が乾いたので、シュネーとスタッグは着替えた。
ようやく向かい合った二人は、遅めの夕食を取る事にした。
とは言え、手持ちの食料はない。
それに今から海に入って魚等を捕まえのは暗すぎるので、二人はその辺りにあったものを適当に済ませる事にした。
具体的には、その辺りを歩いていた小さな蟹や、小島に生えていた木の実や植物を、である。
「この蟹ね、僕らはたまに食べるんですよ。小さいんで腹の足しにはあんまりならないですけどね」
そんな事をスタッグが言っていた。そうなのか、と思いながらシュネーも手伝って蟹を取った。
そうして集めた蟹は確かに小さいが、拾ってきた貝殻の上で焼かれた蟹は、意外と美味しかった。これは鍋にしても良さそうだ、なんてシュネーは思った。
食事を終えると、あとは寝る事だ。
とは言え、魔獣やらが出て来ても困るので、見張りがいる。なので交代で休もうとシュネーが話をしたところ、
「いや、僕がやりますよ。慣れてますし。ほら、僕、用心棒ですし」
とスタッグに断られてしまった。そう言えば、最初の頃にそんなやり取りをした気がする。
でも、とシュネーは思ったが、スタッグに有無を言わさず「はいはい、寝た寝た」と背中を押されてしまったので、お言葉に甘える事にした。
寝る、と言っても布団代わりのものはない。
大き目の葉を幾つか敷いて、その上に横になるだけだ。それでもただ地面に寝転がるよりは幾分マシである。
シュネーがその準備をしていると、スタッグは「こっちも乾いたかな」と、焚火の近くに置いてあった手帳を持ち上げた。
スタッグの日記だ。スタッグは日記を書くのが趣味だと言っていた。その時の事を思いだして、シュネーははにかんだ。
日記に書いていれば忘れないのではないか、とスタッグは言った。それはシュネーにとって、とても嬉しい言葉であったのだ。
そうしているとスタッグと目が合った。見ていた事がバレて、シュネーはわたわたと話題を探す。
「そ、そう言えば! スタッグさん、船長さんだったんですね」
「ええ。自分で言っても何ですが、そうは見えないですよねぇ」
スタッグはそう言って笑う。確かに普段通りのスタッグならば、船長、という雰囲気には見えない。
だがコールマンと対峙した時の余裕のある様子などを見れば、確かに見えなくもない、というのがシュネーの感想だった。
「いえ。……でも、手配されていらっしゃるんですよね。何をしたんですか?」
「うーん、そうですねぇ……海賊やってるから、まぁ良い事はしていないですけど」
そう言って、スタッグは考えるように空を見上げた。
良い事、の基準はそれぞれだ。だが、ただ悪い事をしてきただけのようにもシュネーには思えない。
考えている最中に口を挟むのもどうかと思ったのでシュネーが黙っていると、スタッグが「あ」と声を上げて視線を戻す。
「ああ、一番は……その、情けない話なんですが、僕、顔が怖いんですよ」
そう言って、苦笑した。
顔が怖い事が、何か関係があるのだろうか。シュネーが首を傾げると、
「とくにね、目がね、怖いんですって。普通にしていても、怯えられちゃって、それでこう……人を食うだとか、悪魔の生まれ変わりだとか、尾ひれがついて」
「そうなんですか」
「ええ。まぁ人なんて食やしませんし、悪魔みたいな力も持っていませんし。いや、馬鹿力とは言われますけどね。まぁ、でも、そんな感じで。気が付いたらそういう事になっていました」
スタッグは肩をすくめてみせた。
顔だけでそこまで言われるのだろうか、とシュネーは驚く。
目を丸くしているシュネーに、スタッグは小さく笑った。
「まぁ、それでね。見えないように前髪下ろしているんですよ」
「ああ、だから切るって言った時に……」
「そういう事です」
前髪が長いままならば、ひとまず目は見えない。目が見えなければ怖がらせる事は無い。
スタッグにとっては自分の目が、コンプレックスなのだろう。だからそうして隠しているのだ。
シュネーはじっと見つめたあと、スタッグに近づいた。目の前まで来ると、
「上げてみても、いいですか?」
と頼んだ。さすがにスタッグも困ったらしく、
「ええー?」
と、声を出したが、シュネーは真っ直ぐに見つめたまま、
「忘れちゃう前に」
と言った。スタッグは言葉を詰まらせる。
目を逸らさなシュネーに、スタッグは少し思案したあと「やれやれ」と大きな手で前髪を上げた。
「眠れなくなっても知りませんよ?」
現れたのは茶色の三白眼だ。
確かに、話通り目つきは悪い。コールマンの目つきも悪いが、それ以上だ。
顔だけではなく、その大柄な体格と合わせて見下ろされれば、怖がられるかもしれない。
だがシュネーは特に怖いとは思わなかった。コールマンで見慣れていたせいもあるが、それ以上に、スタッグが『良い人だ』と思っているからだろう。
怖い、というかむしろ、シュネーに別のように感じられた。
「ね、怖いでしょう」
スタッグは、自分の顔を覗き込むシュネーに自虐気味に言って手を下ろそうとした。
それを、シュネーがそっと手で抑える。
「いえ。格好良いと思いますよ。前髪を下ろしているともったいない」
「え」
スタッグが再度言葉に詰まった。言われた言葉が理解出来なかったのだろう。
固まってしまったスタッグを見て、シュネーは自分の言葉に少し恥ずかしくなってきて、
「あ、えっと。それでは、えっと。すみません、先に失礼しますね」
と、慌てて手を放し、寝転がった。
「あ、え、ええ!」
スタッグも我に返って、何度も頷く。
それからは無言の時間だ。
それから少しして、シュネーの寝息が聞こえてくる。コールマンの事や、海を泳いだ事で疲れていたのだろう。
スタッグはその背中を見つめながら、
「…………は」
と息を吐き、手で口を押える。やっとしっかり呼吸が出来た、という様子だ。
そんなスタッグの顔は、いつの間にやら赤く染まっていた。
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