18. The Past - Brother -

 「結婚するんだ、俺」

 9年前、最後に兄に会った時、呼び出された西新宿の居酒屋で兄が唐突に僕にぶつけた言葉が、それだった。

 その日は、僕が東京へ出て1年が経とうとしていた頃で、初めて僕が東京で兄と会った日でもあった。

 それまでの1年間、僕も兄も、お互いにほんの少し電車を乗り継げば会える距離に住んでいることを知っていて、会うことが無かった。別に意識して避けていたわけではない。が、密に連絡を取り合うことには歯がゆさがあった。その歯がゆさはどこからくるのか、と聞かれても判らないけれど。

 「結婚、するんだよ」

 もう一度、僕に向けてと言うより、自分自身に向けた篭るような口調で、兄が言った。僕は黙って頷き返し、あまりにも唐突な兄の言葉に、返答に迷って、その当時はまだ飲みなれていなかったビールを、無理に煽った。

 高校を卒業した後、兄は現役で、世間では一流と呼ばれる大学への進学を決めた。高校のときは、盆と暮れには東京の学生寮から島へと戻っていた兄だが、大学へ進んでからは一度も、帰郷することはなかった。

 兄のその時の心境は判っていたつもりだ。僕だってもし兄と同じ立場だったら、戻らなかっただろう。あの家から開放された生活を、僕だって、兄と同じように遠く故郷から離れた東京という街で、かみ締めていたはずだ。現に高校を卒業した後の、その頃の僕がそうだったように。

 その年の、もうすぐ迎えようとする春に、兄は大学を卒業する予定だった。

 誰でも耳にしたことのある、外資系のIT企業に就職を決めて、卒業と同時に、大学時代の同級生と結婚する、兄は淡々とした口調で、そう僕に説明した。

 「母さんは知ってるの?」と尋ねた僕に、「就職の事は知ってる」と、どこか後ろめたそうに、兄は答えた。

 「結婚の事も、いずれ教えるよ。式を挙げるつもりはないし、落ち着いたら、母さんには伝える」

 ―――母さんには。

 父に伝えるつもりは無い、と言う意味だ。その兄の思いを、僕は否定しない。かといってはっきりと、肯定もできない。腹の底に溜まったアルコールの熱を、もう一度流し込んだビールで煽り立てて、覗き出ようとするもう一つの思いを、僕の思いを、もみ消すだけだった。

 それからしばらくは言葉数の少なかった兄も、酔いがまわるにつれ、饒舌になった。ろれつの怪しくなった口から漏れるのは、父への愚痴ばかりだった。

 最初は同感して頷いていた僕も、兄の口調が熱くなるのに反して、どんどん気持ちが冷めていくのが判った。何かにとり憑かれたように父を卑下する兄の姿に、何故か、父と同じ匂いを感じたからなのかもしれない。

 「夏が終わる頃には子供が生まれるんだ。俺は絶対にその子に、俺みたいな思いはさせない。絶対に、だ」

 吐き捨てるような告白だった。今の時勢ではずいぶん早い結婚だとは思ったが、その、子供、が原因なんだろう。

 熱が最高潮に達して、酔いのせいなのか、興奮したせいか、それともその両方なのか、頬を赤く染め、小さくひくひくと震わせながらそんな告白をする兄を見て、思った。

 負のイメージだ。

 兄は父を否定することで、自分の存在価値を何とか象ろうとしている。兄の中に浮かぶ父の姿を否定して、嫌悪して、打ち崩すことで、打ち崩した向こう側に自分のあるべき姿があると、信じて、疑っていない。

 卒業、就職、結婚、そして、出産。

 本当なら何かを築き上げていく為の、いくつかの道筋。兄の場合、その道筋を辿るためのエナジーが、父を否定する、という負のイメージから生まれている。

 だから結局、兄は父に縛られ、結果、父をいくら否定しようと、拒絶しようと、その背後には、父の影が見え隠れする。

 それじゃきっと、だめなんだよ、兄貴。

 胸に沸いた言葉を、ビールと一緒に飲み込んだ。果たしてそれを兄に言えるだけ、僕自身、父という呪縛から解放されているのだろうか。判らない。

 ひとしきり飲んで、終電も間近になった頃に、僕らは店を出た。

 酔い、というより徒労感で、僕の足取りは重かった。人と話して、ここまで疲れを感じたのは初めてだった。その相手が兄だったという事実が、少し虚しくて、それでいて、なんとなく納得もできた。

 「俺、間違ってないよな?あんな親父、誰だって恨むよな?」

 別れ際、唐突に兄に聞かれた。振り向くと、すがるような目で、兄は僕を見ていた。酔いで白く濁った目の奥が、鈍く光っていた。

 「うん。多分」

 擦れた声で僕が返すと、そうか、と更に擦れた、吐息だけの声を漏らし、兄は弱々しく笑った。そしてすぐに目を逸らすと、じゃあ、と軽く手を振り、新宿西口の改札前の人ごみに向けて、歩き出した。

 人ごみの中に埋もれていく兄の背中は、そこだけ空間が淀んでしまったかのように、どこか煤けて見えて、行きかう人々から浮いて、いつまでも僕の視界の中を漂っていた。

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