13. Ocean Front

 シーズン前の、ひと気のない夜のビーチに響く波の音は、想像よりもはるかに大きかった。

 耳のすぐ側で紙を擦り合わせているような感触が、鼓膜にまとわりつく。けれど不思議と、不快ではなかった。

 砂浜に転がっていた流木に腰掛け、月明かりに淡く、微かに反射する波の白い泡粒を、焦点の合わない目線で見つめる。すぐ隣に腰掛ける優希の気配の温かさが、ひりひりと腕に染みてくる。

 誘ったのは、優希だった。

 拓郎と、酔いつぶれた啓太と美咲とを乗せたタクシーのテールランプを眺めながら、「海、見てかない?ひさしぶりに見たくない?故郷の海」と言って誘ったのは、優希だ。

 どうやって話を切り出そうかと思っていた矢先だった。まるで僕の心の中を見透かされたようなタイミングに驚きながら、僕は曖昧に頷き、二人で、ここへ来て、あつらえたように転がっていた流木を見つけて、並んで腰掛けた。

 横目で盗み見るように、ほんの僅かに優希に顔を向けると、ちょうど優希も、僕に向き直る瞬間だった。一瞬だけ、視線がぶつかる。僕は慌てて、波打ち際の白い泡粒に目を戻す。刹那、優希の小さく笑う声が、耳のすぐ側で響いた。

 「飲んでる間、ずっと、気になってたでしょう?」

 優希が言う。

 「何が?」

 僕は視線を海辺に投げたまま、優希が何を聞いているか判っていて、とぼけた。動揺で裏返りそうな声を、必死に抑えながら。それに気付いたのか、また、優希が小さく、笑う。

 「私が島にいること。と、子供のこと」

 ストレートに、回り道もごまかしも前置きも無く、優希は言った。声色に躊躇も無かった。だからなのか僕も、思わず反射的に頷いた。

 「流れちゃった、子供」

 注意深く聞いていないと、波音と一緒に流されてしまうくらい、あっさりとした口調だった。だから、「え?」と間の抜けた声で、聞き返してしまった。

 「流れちゃったの」

 優希が答えた。その言葉の意味することに矛盾した、澄んでいて、柔らかい優希の声が、夜の海辺の闇の中に響き、波の音に溶けていく。

 「私たちの子供、流れちゃったんだ」

 笑みの隙間から微かに零れる溜息と一緒に、もう一度、さっきよりも言葉をかみ締めるように、優希が言った。今度はしっかりと僕に届いた。「私たちの」という言葉に、胸が締め付けられた。

 そうなんだ。優希に宿ったのは、僕の、僕らの子だった。それが、世界に受け入れられることなく、逝った。優希はそう、僕に告げている。

 鈍く、重く、沈みながら、胸が疼いた。

 今、僕の胸を満たしているのは、悲しみ、なのか。判らない。そもそも僕に、悲しむ権利はあるのだろうか。重苦しさが嫌で、息苦しさを拒絶して、僕の子を宿した優希の元から逃げ出した僕に果たして、生まれてくるはずだったその命の為に悲しむ権利など、あるのか。

 「ごめんね」と付け足すように言った優希の声のトーンは、急に落ちた。その声は、波の音にかき消されてしまいそうなほどにか細く、弱かった。弱かったから余計に、僕の胸を大きく揺さぶった。

 「なんで謝るんだよ」

 ようやくそれだけ、返せた。

 「だって、産むって言ったでしょう?私。でも駄目だった。だから、ごめんね」

 「そんなの・・・」

 言葉が継げなかった。そのまま、押し黙った。波の音だけが、沈黙を埋めるように響いた。

 薄い雲に覆われていた月が、姿を現す。

 ゆっくりと、暗闇からフェイドインしていくように、ぼやけた海辺の輪郭がほんの少しだけ、浮き上がる。

 同時に、優希が再び、口を開いた。

 「芝居も結局、駄目だった。劇団の代表をやってた人が、ハコ代用にみんなから集めたお金を持ち逃げして、いろいろと揉めて、結局潰れちゃってね。仲間だったみんなは、他の劇団に移ったり、自分で新しい団体を立ち上げたり、私もあちこちから誘われたけど、流産のこととかもあってさ。なんていうんだろう、嫌なことって重なるなって、転げ落ちるってこういうことなんだろうなって、結局何もする気が起きなくて。周りにも、ずっと断ってたら声をかけるのもあきらめられちゃって、気がついた時には、もうなんにも無いの。独りだし、何も無かったの」

 そこで、言葉が止まる。僕が優希を振り向くと、その気配に気付いて、優希も僕を見た。

 優希は、笑っていた。強がって、と言うわけではなく、かといって嬉しさも感じさせず、諦めみたいな投げやりな思いも、逃げ出した僕を責め立てるようなあてつけも、その笑みからは感じ取れなかった。

 空っぽ、の笑みだった。その笑みを、優希は夜の空に向けた。

 「何も無くなって、居場所も無くて、孤独で、孤独が怖いから、怖さをごまかすみたいにひとしきり泣いて、疲れ果てて、そうしたらやっと浮かんできたの。サキちゃんの顔とか、声とか。啓太君や拓郎君の顔とか、声とかも」

 そこまで言ってから、優希はまた僕を見る。

 「淳のも、だよ」

 優希の笑みが深くなる。今度は、懐かしさを憂うような目の色を携えていた。空っぽが少しだけ、埋まっていた。

 「そっか、私には故郷があったなって。帰れる場所が、あるんだなって。凄く嬉しかった。救われた気分になった。だから、大学を卒業したら、すぐに帰ってきちゃった」

 優希はいたずらっぽく笑い、「かっこ悪いけどね、トンボ帰り」と付け加えた。

 僕は、何も返せない。

 ただうつろな視線を、波打ち際へ投げることしか、できない。

 いっそ、優希に責め立てられたほうが、楽だったのかもしれない、と思い、すぐに安易さに逃げる自分のそんな思考の傾向に、自分で失望して、自分で憤った。

 優希を捉えた絶望感を、思う。

 流れた子。

 諦めざるを得なかった夢。

 そして、僕に立ち去られるという事。

 雪崩れ込んでくるような不運に晒されてもなお、例え空っぽとはいえ、優希は、それでも笑んでいる。生きている。今こうして、目の前にいる。

 その強さが、眩しかった。

 愛おしかった。

 今すぐ優希を、抱きしめたい衝動に駆られた。

 でも、できなかった。

 僕の弱さが、臆病さが、その衝動を押さえつけた。

 「そろそろ行こっか」

 優希が立ち上がる。遅れて僕も、のそのそと腰を上げた。

 「もし私が子供を生んでたら、パパになってくれた?」

 歩き出すのと同時に、不意に、優希が言った。僕は思わず、立ち止まった。

 「え?」

 先を行く優希の背中に向けて聞き返す声が、少し震えた。

 「なんてね。ちょっと意地悪すぎるかな、今のは。冗談だよ」

 振り向かないまま、優希は言って、歩調を速める。

 強く脈打つ胸の動悸を優希に悟られぬよう、距離を置いて、その後を追った。

 踏み出す一歩一歩が、足の裏を痺れさせた。

 痛いな、と胸の内側で呟いた。

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