11. The Past - ex -

 「大丈夫。やっと見つけた淳の生き甲斐なんだから、淳は迷わずそれを追って。私は、大丈夫だから」

 6帖の狭い部屋の中に、優希の、芯の通った声が響いた。

 夏の夜の湿った空気の中でそれは、思いのほか反響して、永遠に余韻を残し続けるのではないかと僕に錯覚させた。

 らしくなかった。

 でも、だからこそ、優希の覆せない決意を、覚悟を、感じた。

 島を出て2年が過ぎ、僕が二十歳になった頃だ。

 ようやく、自分が目指すべき先が見え隠れし始めた、アメリカへ渡る二ヶ月ほど前の時期だった。


 高校を卒業してすぐに、僕は島を出た。

 別に何か目的があった訳じゃない。ただ、自分の居場所がなくなることを恐れて、知らない世界へと逃げ出しただけだ。

 自分の、居場所。

 高校生の頃は、啓太や拓郎の存在自体が、唯一気を休められる僕の居場所だった。そしてそれはいつまでもずっと、僕の側にあるものなのだと、根拠も無く信じて疑わなかった。

 でも、違った。

 卒業の日が近づくにつれ、僕らが学校の外で会う時間は、徐々に減っていった。

 親の後を継いで漁師になると決心した啓太は、学校の無い日は前日の夜から、彼の父と一緒に海に出るようになった。拓郎も拓郎で、家業の民宿を手伝うからと出歩かなくなり、二人ともそれまでのような、自由に浪費できる放課後の贅沢な午後を失くしてしまった。

 僕は、取り残された。

 僕と同じだと思っていたその頃の二人には、きっかけや理由はともかくとして、もう既にしっかりとした将来のビジョンがあって、僕には、無かった。

 それが悔しくもあり、寂しくもあり、身勝手だけれど、ほんの少し、裏切られた気分にもなったりした。

 だから卒業後、僕は島を出た。

 目的も無く、ただ、逃げるように。

 取り残された自分を、うやむやのままに消し去りたくて。


 僕と同じ時期に島を出たのが、優希だった。

 僕らの高校では、年に一人いるかいないかの、大学進学者として。

 「淳にだから言うけど、私、役者になりたいの」

 別に示し合わせたつもりは無かったけれど、島を出るフェリーは優希と一緒だった。甲板の上で、優希は初めて、上京の本当の目的を僕に語った。

 「ちっちゃい劇団でいいんだ。ちっちゃくても、仲間と自分達だけの劇団を、持ちたい。別に誰でも知ってるほど、有名になんかならなくてもいいの。自分のやりたい芝居をやりたいようにやって、それなりのお客さんが入って、芝居だけで食べてさえいければもう、それでいいんだ」

 物静かだった優希からは想像できないほど、熱く、彼女はそう語った。僕に、というより、自分に言いきかせるような口ぶりだった。

 そして、東京の桟橋で別れた。

 それきり、3ヶ月は会わなかった。会ってしまうと、負けた気分になるような気がした。

 負ける?誰に?

 判らない。

 とにかくその時は、そう思った。

 僕は僕で張り通さなければならない意地があったし、優希には、親にすら告白できていない本当の意味での上京の理由があった。そんな同郷の二人が寄り添ってしまうのは、何故か、負け、としか思えなかった。

 でも、東京と言う街が若い来訪者に強いる孤独は、想像以上に過酷で、きっとそれは優希にとっても一緒で、だからなのか、島を出て3ヶ月後には、僕たちはどちらともなく呼び出しあい、会うようになり、そして、付き合い始めた。

 昔から優希が好きだったのか、優希も昔から、僕を好いていてくれたのか、それは判らないし、判ったところで現実はきっと変わらなかっただろうと、今でも思う。

 とにかく、独りで立っていることが、東京と言う街ではとてつもなく苦痛だった。だから、寄り添った。同郷の出身というだけで、新しい誰かを見つけるよりも、寄り添うことが容易かった。

 そう。

 他の若い来訪者たちが、苦労して、もがいて、その孤独を紛らわす手段を見つけるというプロセスを、僕たちはお互いの存在を利用して、省いたのだ。

 動機が不純だったからなのかどうかは、判らない。けれど結末は、まるでその安易さを否定するように、僕らの意志の決定的なズレから生まれて、胸を深く抉えぐった。

 傷。

 思いのほか深く突き刺さって、染みる、傷。

 人と人とが寄り添うことを、僕ら、いや、少なくとも僕は、軽んじていたように思う。

 きっかけが安易で、自分の本当の気持ちの置き所もわからずに優希と付き合った、その軽薄さに対する報いが、罰のような形で、僕の目の前に舞い降りてきたような感じだった。


 アメリカ行きを決意した時、僕は同時に、優希と別れることを決めた。

 曖昧に、そして未練がましく、縮めるこのできない距離を間に挟んで今の関係を続けることが、僕にとっても優希にとっても、良いことではないと、言い訳がましい建前を胸の中でいくつも、羅列して。

 そして当時僕の借りていたアパートに優希を呼び出して、その思いを告げた夜、優希も僕に、継げた。

 妊娠した、と。

 僕としか関係を持ったことが無いから、僕の子で、間違いない、と。

 そして、産む、と。

 一瞬思考が止まり、最低な僕は次に、それは、僕を引き止めるための嘘だ、と勘ぐった。すぐに、優希がそんな性分じゃないことに思い至って、でも僕は、返す言葉を見つけられずに、黙り込んだ。

 「別にね、一緒になってほしいとか、認知して欲しいとかは、思ってないの。淳を引き止めるつもりもないし、養育費とかそういうのも、淳に求めてない。ただね、産みたいの。産んで、育てたいの」

 どこか淡々とした口調だった。でも、胸の中に溢れそうな感情を必死に抑えながら言っているのだと、僅かに震える語尾で判った。覆すことのできない覚悟があると、判ってしまった。

 「芝居はどうすんだよ。子供がいたら、無理だろ」

 あえて、自分の思いとか、動揺とかににフォーカスされないような質問を選んで、口にした。

 卑怯だと思ったが、それを卑怯と正面から受け止められないほどに、僕は若かった。

 そんな胸中をまるで見透かしたような、僕を鋭く射抜く優希の目線に、僕はたじろぐ。

 「芝居は続ける。それはもう、死ぬまで、ずっと、絶対。でも、子供も育てる」

 優希の声は、熱く湿っていて、らしくなかった。「無理だよ」と呟いた僕の声を、沈黙で撥ね退けるくらい強固な決意が、その後ろにあった。

 不意に、窮屈さを感じた。

 目に見えない何かに縛り付けられて、身動きが取れないような錯覚。その錯覚が妙に生々しくて、そこから開放されたくて、僕は、絞り出すような声で、言った。

 「俺は何も、できない。寄り添うことも、助けることも、一緒にいてやることも、何も」

 言ってしまった後で、後悔と、開放感とが同時に僕の胸に満ちてきて、本来は交わることの無い二つの感情に振り回されて、混乱した。その混乱すらわずらわしくて、僕はあえて開放感を選び取り、後悔を、無理やり胸の中から払いのけた。

 優希は笑った。

 決して、投げやりになるとか、嘲るとか、そういう類の笑みではなかった。

 最初から僕のその言葉を受け止める準備ができていたような、覚悟を感じさせる、とはいえ柔らかい笑みだった、

 「大丈夫。やっと見つけた淳の生き甲斐なんだから、淳は迷わずそれを追って。私は、大丈夫だから」

 ぐっと笑みを深くして、優希は言った。

 ぐっと笑みを深くする事が、歯を食いしばっているようにも見えて、それが、ことさらに、僕の胸に刺さる。

 優希はそれから黙り込み、暫く、ヤニで茶ばんだ僕の部屋の天井を見つめていた。そして気配も無く立ち上がると、僕の部屋を出て行った。

 出て行って二度と、戻らなかった。

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