秋の空気

雨弓いな

1.金木犀

 秋の夜長とはよく言ったもので、秋も深まってくると私の夜も遅くなっていく。私は、今の仕事についてからというもの、夜遅く帰ることが習慣化していた。最寄り駅で電車を降りた後、疲れた体を引きずりながら、十五分の道程を小さく一歩一歩歩いて帰る。夜中に差し掛かった街は、すでに電気が消されている住宅もちらほらと見受けられる時間帯である。街灯に小さく照らされて、一つ一つ歩みを進めていく。街灯と街灯の間には、少しだけ闇に染まった個所があり、それが私の心を黒く染めていった。

「今日も疲れたなあ」

 ひとり声に出して呟くと、私の気持ちはまた一つ深い闇の底へ沈んでいくように感じる。今日感じた疲労のすべてが、全身を覆うように、体中ありとあらゆるパーツにまとわりついてくる。私は、一歩踏み出す足が、どんどんと重くなっていくような心持がして、今の仕事にも、駅から十五分も離れている自宅にも、嫌気がさしていた。

 大体、この道は街路樹のイチョウが茂りすぎているのである。そのせいで、街灯の光が遮られ、道全体を暗く、重く、沼の底に沈めていく。吹きすさぶ風は、イチョウの葉をさわさわと揺らし、怪しげな雰囲気を過剰に演出している。足元には、多くの足に押しつぶされた銀杏の実がへばりついている。紅葉した葉に先んじて道を黄色く染める彼らは、不快なにおいを発し、私の鼻腔をここまでかという具合に突いてくる。

 また一つ、小さな風が駆け抜けていった。甘い香りが私の五感をくすぐっていく。

「金木犀か」

 また次の秋を身近に感じさせるにおいのもとを探し、私は周囲の暗闇を見渡す。街灯に照らされた道端に、大きく茂った金木犀の木があった。見ると、山吹色をした小さな花がたくさん入り乱れている。金木犀の木は、そこだけ切り取られたように真っ白な光の中にたたずんでいる。その周りには、目に見えるかのように優しい芳香が渦巻いていた。

 私は、思わずその異質な空間に足を踏み入れた。得も言われぬ、金木犀特有の香りに身を包まれる。その瞬間、私の体は金木犀の木と一体化したように感じた。するとどうだろう、これまでの一年間で積もり積もった疲労が、体中から遊離し、あたりに離散していくではないか。あれほどしつこく私の体にしがみついていた者たちが、金木犀の香りにいざなわれて、次々と姿を消していく。

 私は、往きよりも幾分か軽くなった体で、軽くステップを踏みながら、家路についた。


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秋の空気 雨弓いな @ina1230

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