遺髪いだきて旅ゆけば
佐倉島こみかん
第1話
観光名所の一つである歴史的な時計塔が、正午を告げる鐘を鳴らした。
全ての鐘が鳴り終わると、建設当時の技術の粋を尽くして作られたという機械仕掛けの大きな人形達が時計の下から続々と現れ、陽気なオルガンの音色と共に踊り出す。
時計越しに見上げた海辺の町の空は青く、海鳥が悠々と飛んでいた。
ベタつく潮風は、海のない故郷の乾いた風とは全く異質なものだ。
人形達が再び時計の下に入りきるまでの約3分、じっと時計台の様子を眺めていた俺は、ハッとして振り返った。
「静かだと思ったら、フェルの奴どこに……!」
胆を冷やしながら言いかけて、我に返る。
――ああ、あいつはもういないのだった、と。
鞄に入れた黒くて長い、美しい遺髪を思い出し、不意に、腑に落ちた。
俺が幼少の頃から仕えていた同い年の主人であるところのフェルディナント・アルテンブルク――フェルは癌で亡くなった。
「ああ、トラウ、僕はもってあと三ヶ月の命らしい。やることが多いから、色々、協力してくれるかい?」
「は?」
四ヶ月前に、出張の予定を伝える程度の気軽さでフェルがあっさりと言った時は思わず耳を疑った。
アルテンブルク家は世界的に有名な貿易商であるが、癌が遺伝しやすい短命な一族でもある。
とはいえ、医学の発達した現代において、28歳での余命宣告というのはここ数代で稀にみる若さだ。
フェルは、その奇想天外と言えるほどの発想力と商才で、アルテンブルク商会を更に大きくした天才だが、合理的過ぎて人と少しズレたところがある男で、子供の頃から常に傍に居る俺からしても予想できず、頭の痛くなる言動が多かった。
「ベラとクリスを最大限、守りたいんだ。まあ、ベラなら俺が何もしなくても大丈夫だと思うんだけど、出来るだけのことはしておきたいからね」
長く艶のある黒髪を一つに結わえたフェルは、辞書より重いものは持てないと言われる細腕で中性的な容姿の優男だが、名門大学卒業後にすぐに許嫁と結婚していた。
ベラとは、イザベラ・アルテンブルク――フェルの妻であり、クリスはイザベラとフェルの息子、クリストフのことである。
フェルと会社の運営のことで渡り合えるだけの商才と胆力を備えたベラは、俺とフェルの幼馴染でもある。
商会の有利になる取引先の娘であったイザベラを許嫁に、という政略的な引き合わせではあったが、幼い頃から頭の回転が速くて大人でさえ舌を巻く神童だったフェルと同等に話ができて、フェルに変に遜らない胆の据わった二つ年上のベラに、フェルはとても懐いたのだった。
結婚してからも、ビジネスパートナーとして、人生のパートナーとして、二人は上手くやっていた。
そういう訳で、しっかりした妻と後継ぎがいるため、アルテンブルク商会にとって彼の死は大きな痛手だったが、倒産やら内部分裂やらの危機には陥らなかった。
まあ、フェルが闘病しながら各方面に根回しし、遺産の分配について信頼できる弁護士に気が遠くなるほどの枚数の書類を託し、死後の経営方針について重役達を説得して、フェルらしい抜かりのなさで、死後起こり得る諸々の面倒事にできる限りの対処をしていたのも大きな理由ではあるが。
俺もその手続きのアレコレに奔走させられて、死ぬまでの三ヶ月間、非常に忙しい日々を送る羽目になった。
そうして医者の宣告通り、フェルは三ヶ月後に家族に見守られ、静かに息を引き取った。
葬儀の参列者は、関係者だけでも広大なアルテンブルク家の庭を埋め尽くすほどで、参列できない立場の者は、庭より更に広大な屋敷の周りを三重に囲むほど集まって、彼の死を悼んだ。
慈善事業にも手を出していたフェルは、身分から年齢から職種まで様々な人間から慕われていたが、ここまでの数が集まるとは予想だにしなかった。
人望の厚さは葬儀に出るとよく言われるが、屋敷をここまで囲むほど人が集まったのは、歴代のアルテンブルク家でも彼以外にいないらしい。
俺と言えば、盛大な葬儀の手配に当日の参列者の対応、アルテンブルク家の人間の護衛の采配などでフェルが死ぬ前以上の忙しさだった。
そうして、葬儀やら相続の手続きやら、あらゆる彼の死に纏わる仕事が一段落した頃、喪主であるところのベラから、フェルの書斎へ呼び出されたのだ。
「トラウゴット・バルテル、葬儀のこと、色々と尽力してくれて本当にありがとう。これはフェルから預かった貴方への手紙よ。どうぞ受け取って」
まだ喪服に身を包んだベラは、一通の手紙を俺に手渡して、毅然として俺に言った。
「ありがたく頂戴します、奥様」
幼馴染三人で居る時は気軽にあだ名で呼び合っていたが、俺をこうしてフルネームで呼ぶ時は、公的なことや仕事に関わることなので、恭しく奥様呼びで受け取った。
「葬儀のことで、本当に忙しかったでしょう。『落ち着いたらトラウに一ヶ月の休暇を』と、フェルから言付かっているの。来週にはもう一ヶ月経って、喪が明けるでしょう。そしたら休暇を取りなさい」
ベラは柔らかく微笑みつつも有無を言わせない口調で言う。
「は、いえ、まだやることも多く、休暇など頂くわけには……」
死んで一ヶ月とは言え、フェルの身辺整理のことや新体制の商会のフォローなどやるべきことはまだ山ほどある。
「あのねえ、トラウがいくら人より頑丈だからって、フェルの余命宣告があってからこっち、ずっと働き詰めじゃない! 献身的なのは結構だけど、いい加減、身体を壊すわよ。それにどうせここから1年は色々と慌ただしいんだから、そんなこと言っていたらいつまでも休めないでしょう。いいから取りなさい、休暇。それ、豪華旅客鉄道のチケットですってよ」
幼馴染みの時の気安さで、腰に手を当てたベラは言った。
昔から面倒見のいい人なのである。
「はあ、しかし、仕事の方は」
フェルが結婚後すぐ家督を継いで以来、俺がアルテンブルク家の使用人の長である。
「誰かが一ヶ月の休暇を取ったくらいで回らなくなるような、柔な人材雇ってないわよ。それに、トラウは小さい頃からずっとフェルと一緒にいたでしょう。急な死だったから、皆、貴方のことを心配してるの。ここまで忙しく働いてきたんだもの、一段落したところで休暇を取っても、貴方を悪く言う人なんていないわ。ゆっくり心身を癒してちょうだい」
ベラは夫を亡くした憔悴を微塵も見せない笑顔で言った。
「それを言うなら、奥様の方がよほど心身ともに疲労が溜まっておいででは」
「私は忌引きで結構休んでるし、会社のこともフェルが色々と根回ししてくれてたから、実はそんなに慌ただしくもないのよね。ほんと、私だけでもなんとかなったのに、最期にいい格好してくれちゃって」
愛おしむように目を細めて、ベラは悪態をつく。
「それにね、私にはクリスがいるもの――彼の遺した、大きな繋がりが。だから、精神的には結構、落ち着いているのよ」
俺を真っ直ぐに見据えて、ベラは言った。
その眼差しに、息を飲む。
「手紙、よく読んで。フェルは最期まで、貴方のことを想っていたわ」
身じろぎすらできない俺に、ベラは寂しそうに微笑んだ。
そして俺は言われるがまま、翌週から一ヶ月の休暇を取った。
「トラウゴットさんもお気の毒に……」
「小さい時から旦那様と兄弟のように育ってきたんですもの、気丈に振る舞ってらっしゃるけど、誰より悲しいはずよ」
使用人たちが立ち話をしているのを小耳に挟んだこともあった。
「病気や葬儀でここしばらく、ずっと働きづめだもんな。ゆっくり休んでこいよ」
「屋敷のことは我々に任せて、どうぞゆっくりなさってください」
長い屋敷勤めで、屋敷の人間にもそれなりに慕われていた俺は、休暇中の指示を同僚や部下に出しに行ったときに労われもした。
ベラの言う通り、概して屋敷の者は俺に同情的だった。
フェルからの手紙に同封されていたのは、大陸の北部から南部まで縦に長い形のフラウデル国の広大な領土を二週間かけて北東から南西に横断する有名な豪華旅客鉄道のチケットだった。
どうやら二週間は旅行に、二週間はその準備や、旅行から帰ってきてからの骨休めに、ということで一ヶ月の設定らしい。
フェルの護衛も兼ねていた俺は、フェルの商談について行くため各国を回ってきたが、一人旅は初めてだった。
異国の地は真夏だというのに涼しく、外でも柔らかな風が心地いい気温だった。
駅に着いて、時間まで駅の中の土産物屋を物色する。
名産物を使った菓子、観光名所のマグネット、どこの土産物屋にもありそうなストラップにキーホルダー。
中でも、大小さまざまな遠吠えをする狼の木彫りの置き物は、この国でもメジャーな土産物だ。
それを見て、ああ、この一抱えもありそうなやつなんか、フェルが謎のセンスで買うと言いだしそうな――と考えて、はたとそれを欲しがるフェルがもう、いないことを思い出す。
正直なところ、これまでずっと忙殺されていて、まだフェルがいなくなった実感が持てないでいた。
俺は、従者であって遺族ではないので、病院で亡くなる時、傍に居られなかった。
亡くなった翌日、棺桶の中に鎮座した眠っているようなフェルの青白い顔を見て、おちおち感傷に浸る間もないまま、葬儀のあれこれに追われていたのだ。
鞄の中には、フェルが俺に最期に残した一通の封筒が入っている。
チケットと、フェル直筆の手紙、そして、フェルの美しい遺髪が入った、封筒。
俺はまだ、気持ちの整理がつかなくて、手紙の中身を読めていない。
この二週間の間に、どうにか読めたらいいと思っていた。
駅に滑り込んできた旅客車の外装は歴史を感じさせる重厚な装飾だが、中身は最新の技術によって快適な旅を提供してくれる代物らしい。
用意されたチケットの一等車の個室は寝台付きで、出発してみれば、確かに列車の中とは思えないほど揺れも騒音も少ない。
停車予定の次の駅までは一日半かかる。
この旅程で停車する駅は七つ。各駅に丸一日停車して、各自好きなように観光地を回れる行先の自由なツアーのようなものだ。宿泊するのは停車した駅の町にある宿でもいいし、停車している列車でもいい。俺はせっかくなので宿を取るつもりで予約していた。
出発から二時間もすれば、線路の周辺に建物はなくなり、広原にひたすらリンドウの紫がかった青い花が広がっていた。
この時期見どころの名所なのだと、控えめな音量の車内アナウンスが告げる。
海と見紛うほどの一面の青は、確かに目を見張るものがあった。
リンドウの根は胃に効く薬効がある。生来、身体の弱かったフェルに、リンドウの根を煎じた漢方を飲ませたこともあるな、と思い出した。
他国に出かける時は大抵が商談なので、知識として知ってはいても、観光地を巡ることは意外と少ない。
だからこそ、フェルは移動中の景色に子供のように目を輝かせることが多かった。
フェルがここにいれば、車窓に張りついて目を輝かせていたであろう。
『トラウ! これ一面リンドウだって、信じられるか? あの苦い胃薬が海ほど作れそうだ。そうだ、写真、写真を撮ろう! ほら、トラウも入って』
目の前ではしゃぐ姿をありありと思い浮かべられる。
そして俺は、フェルを中心にした額縁の絵のようなリンドウの野原を車窓から離れて見ていたことだろう。
そう考えると、フェルがいない視野は驚くほど広く、青空と青い花の色が目に沁みた。
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