第4話 リトル半沢直樹 一刺しで散る その1

 ドラマ「半沢直樹」はスリルがあり勧善懲悪の痛快さがあって目が離せなかった。その一方でそのドラマはヤスオに胸の痛みを蘇えらせた。金融業界の縦社会の底辺で過ごした10数年間の傷はいつまでも癒えることはない。

 E社で勝ち目のない新規開拓のミッションを背負い、パワハラで自尊心を叩かれ、やっと成し遂げた新規顧客獲得もあっけなく消滅し、挙げ句に大幅な収入ダウンで経済的にも痛手を負ったヤスオは、新天地を求めてEサービス社が新たに開始するクレジットカードF社の事務運用の仕事に就いた。

 事務センターはマンション群とオフィスビルが混在する都心はずれの10階建てビルにあった。朝9時前、ビルのエントランスホールはエレベータを待つ行列ができていた。まず、違和感を感じたのはほとんどが女性であったこと。数百人が勤務するその事務センターは8割方が女性であった。男子校を出て以来、女性に囲まれる経験のないヤスオにとっては初めて見る景色であった。


 ヤスオの配属は、クレジットカードの決済ができなかった会員への個別対応を行う決済班とよばれる20人ほどのチームであった。その半数は事務作業者、残りが会員と電話折衝する担当で、男子社員はヤスオを含め3名で、女子社員が数名、それ以外は派遣の女子社員で構成されていた。着任すると早々に、女子社員が男子社員に声を掛け、社員のみのミーティングが始まった。そこで、チームを率いる係長のヨシザワ氏に対して、女子社員からの苦情の声が容赦なく浴びせられた。派遣社員の態度が悪い、会員からのクレームを私達が処理しなくてよいように業務範囲を会社を調整してくれ、マニュアルが曖昧で判断に困る・・・脈絡なく不平不満が飛び出した。ヤスオはとんでもない職場に来たものだと嫌な感触を持ちながらも、この場をどう治めたらいいか思案にくれた。ヨシザワ係長は、ただ「うぅー」と唸りながら、何も言葉を返せないでいた。

 クレジットカードでは手続きの不備で銀行引き落としができなくなり、その後処理を決済班は担っていた。例えば口座振替の手続の際、金融機関届け印が押されていないと決済されない。それが判明するとクレジットカード会社は会員に手続きのやり直しの書面を送付し、引き落としできなかったカード利用代金を振り込むように会員に案内する必要がある。会員からするとカードが発行されたので手続き完了と思ってカードを利用した後に、振込手数料を負担して支払いを要求されるので、不満と不信感を抱く。そういう会員に朝から晩まで電話を掛け続けて振込をお願いすることは相当にストレスの溜まる仕事であった。

 さらにF社決済班はもっと深刻な事態に悩まされていた。クレジットカードF社は中堅クレジットカード会社の事務運用を複数受託している。中堅クレジットカード会社は自前でシステムを構築し要員を揃えるよりF社に委託した方がはるかに効率的なのである。その中に、最近クレジットカードを立ち上げた携帯電話会社があった。その携帯電話会社は一気にカード会員を獲得するために携帯電話ショップに過大なノルマを課したのであろう。誤った案内による会員勧誘が横行していた。例えば、電話代金はカード決済が必須になる、印鑑はなんでもよい、家族の銀行口座でよい・・・等々。それがカード会員獲得のための意図的な嘘なのか、未熟なショップ店員の勘違いかはわからない。しかし、いざカードが発行されてみると引き落とし日に決済できない会員が続出し、決済班からも振込の案内を掛ける必要があった。


 時給で働く派遣社員は、そのストレスの多い業務に不満を持ち、待遇改善を迫ってきたし、その派遣社員を管理する一般職の女子社員も大きな苛立ちを抱えていた。決済班以外のチームは電話業務がなく、純粋に事務作業に集中できていた。同じ賃金で働く身としては納得できなくて当然であった。しかし会社としては、コスト増になる待遇改善も教育に時間がかかる職務ローテーションも導入しなかった。人事面談でローテーションを訴えた一般職女子に対して、ある部長は「他班のひとは決済班に行きたがらないから無理だよ」と神経を逆なでするよう発言をする始末であった。幹部社員たちは決済班との関わりを避けていた。解決できない問題である以上見てみぬふりを決め込んでいたのだろう。そんな状況で、わざわざ親会社から自ら手を挙げて出向してきたヤスオは格好の人材であった。決済班に着任し、1ヶ月後には係長として運営責任を負うことになった。

 電話は鳴りっぱなしで、ヤスオが休憩する余裕は全くなかった。そして、会員対応がクレームに発展すると責任者としてヤスオが出ざるを得なかった。朝から夕方までほぼクレーム対応を続け、夜21時頃まで事務処理をするという生活となった。

 クレーム対応の連続はボディーブローのようにヤスオの精神を蝕んだ。怒り狂って暴言を吐きまくる顧客はまだよい、人間は20分以上は怒りを持続させるエネルギーは続かないので、じっと耐えていればやがておさまる。難儀なのは確信犯のクレーマーである。あらゆる角度からこちらを攻め続け、対応にボロが出てくれば、そこを突いて有利な条件を引き出そうとする意図が見えた。そこも罠にかからないように慎重に対応しなければならない。また、終わり無いクレーマーにも手を焼いた。こちらが説明しても、一言「納得できない」を繰り返し、言葉がなくなると、それを責められた。かつて、水回りの製品のD社に勤務していたときは、顧客クレームに対して、交換するとか、返品するとか、モノで解決するすべがあった。しかし、金融業のF社には金品で解決する方法を認めておらず、また一切の決済ルールの変更も認めておらず、ヤスオたちは何の武器も持たない丸腰で、ただ叩かれ続けるしかなかった。

 会員の中には同情するべき悲惨な話も数多くあった。クレジットカードは決済できなくなった途端に利用できなくなる。新幹線に乗れなかった、接待でカードを使用できなかった、人生初の海外旅行中にカードが使用できなくなり孫にお土産も買えなかったと訴える老女など・・・。その怒りや悲しみ、辛さをただ受け留めることは、やりきれない気持ちであった。

 また、会員には一切落ち度はなく、F社のシステムの不備による事故もあった。システムと運用ルールの不備により他人のカード利用代金が引落されてしまったという致命的な事故も発生した。そのような現場に責任のない問題への処理も業務請負のEサービス社が矢面に立たされた。F社は汚れ役をEサービス社に負わせた。Eサービス社幹部は現場担当に押し付けて、現場の苦境は見てみぬふりであった。


 こうした状況下で決済班のヨシザワ係長は業務中に倒れて救急車で搬出され、一ヶ月復帰することはなかった。ヨシザワ係長が復帰した後、もはや歩く意欲もなくなるまで心身が疲弊しきったヤスオは、係長の返上を願い出た。


 

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