第20回

 その身体からは複数の頭が至る所から飛び出し、手足が伸び、それらが思い思いに蠢きながら耐え難い臭気を放っていた。


 巨大な肉塊のようだと大樹は眼を見張り戦慄し、後悔と共に涙を浮かべ、必死に抵抗する相原の姿に歯を食いしばった。


「嫌、やめて、やめて……!」


 何本もの手が相原の股の内側へと伸び、大樹はたまらず腹の底から叫び、駆け出した。


 相原の体にしがみつき、大樹は肉塊から伸びる腕や手を引き剥がそうと試みたが、そのうちの一本の腕が大樹の首を掴み、ギリギリと締め上げていく。


 大樹はその腕を振り払おうと手足をばたつかせて暴れたが、徐々に徐々に身体が持ち上げられ、床からつま先が浮いていった。


 駄目だ、このままじゃ、このままじゃ僕も相原さんも――!


 歯を食いしばる大樹に、いくつもの口がケラケラと嘲り嗤った。


 やがて大樹の意識が、次第に遠のき始めた。白目を剥き、涎を垂らし、手にも足にも力が入らなくなり、だらりと両手両足が力なく揺れた。


 ゴキゴキと骨が擦れる音が大樹の身体の中で響く。


「やめて…… やめて…… 死んじゃう、木村くんが死んじゃう…… やめて、やめて……!」


 相原の絶叫が聞こえたような気がした、そのときだった。


 まるで地震のように、家全体がグラグラと激しく揺れ始めたのである。


 巨大な肉塊も動揺し、その動きをぴたりと止め、ギョロギョロしたたくさんの眼が辺りの様子を窺う。


 ぱしんっ、ぱしんっと何かが爆ぜる音が連続して聞こえたかと思うと、次の瞬間、獣のような咆哮が響き渡り、何かに吹き飛ばされたように、肉塊がバラバラに弾け飛んだ。


 解放された大樹と奈央の身体が、どさりと床の上に力無く崩れ落ちる。


 やがて地震が収まり、爆ぜるような音も咆哮も聞こえなくなったころ、大樹はぼんやりとした視界の中で、バラバラになったいくつもの黒い影が、這うようにして階下へと逃げ去っていく姿を目にした。


 何がなんだかまるでわからないけれど、助かった、と大樹は安堵する。


「木村くん、木村くん!」


 涙目の相原に身体を揺すられて、えずきながら大樹は自力で上半身を起こした。


「……だ、大丈夫……奈央は?」


「大丈夫、大丈夫だよ……!」


 相原は大樹の身体をぎゅっと抱き締めると、大粒の涙を流した。


 大樹は首をさすりながら眉間に皺をよせ、

「今のは、何……?」


「わからない、わからないの……!」

 咽び泣きながら、相原は首を横に振った。


 大樹はそんな相原の身体を抱きしめ、背中をさすってやりながら、小林の顔を思い浮かべた。


 たぶん、アレが小林のいう『他のみんな』だったに違いない。


 何も根拠はありはしないのだけれど、これまでの経験から、小林がすでにこの世に存在すべきものでないだろうことは何となく感じていた。


 この一年の間に、小林に何があったのか、なんて知る由もない。


 けれど、それは間違いないと大樹は思った。


 臭気は今だふたりの周囲に立ちこめていたが、次第にそれも薄くなり、遂には先ほどまでと同じ家の匂いに戻っていく。


 それでも相原は大樹の身体に抱き付いたまま、しばらく大樹の胸に顔を埋めていた。


 大樹もそんな相原を抱きしめたまま、それ以上は何も言わなかった。ただ安寧を求めるように、ふたりはお互いの心臓の音に耳を傾けていた。


 やがて大樹はほぅっと小さく溜息を吐くと、すっと相原の両肩に手をやり、改めて向き合う。


 憔悴しきった相原は、静かにうつむいた。その髪は激しく乱れ、ボサボサになっていた。涙で真っ赤に晴れた目の周りが痛々しい。


 大樹は『あんまり見ない方がいいかな』とそんな相原から視線を逸らし、

「……もう、大丈夫かな」

 独り言ちるように口にすると、そっと相原から手を離し、立ち上がった。


 けれどそんな大樹の腕を、相原はがっしと強く掴み、大きく眼を見張った。ぱくぱくと口が空を吐き、やっとの思いというふうに喉の奥から音を発する。


「嫌……離れないで……」


 大樹は小さく頷くと、「掴まって」と相原の腕を首に巻いた。その細い腰に手を回し、ふらつく足取りの相原を何とか立ち上がらせ、階段へと向かう。


「い、嫌……! 下に居たらどうするの?」


 目を見張り恐怖を口にする相原に、しかし大樹はなるべく安心させるように、冷静に口を開いた。


「でも、このままここに居るわけにはいかないよ。もし何かあったとして、逃げようと思ったら窓から飛び降りるしかないじゃないか。それより、下に降りるべきだよ。少なくとも、二階よりは簡単に外に逃げ出せるかもしれないだろう?」


 相原は怯えたような瞳で、大樹の眼を見つめ返してきた。


 大樹は優しく微笑むと、「大丈夫だよ」と声をかける。


「ちゃんと様子を見ながら降りよう。多分、もうあいつはこの家には居ないと思うけど……」


「……どういうこと?」と相原は眉間に皺を寄せた。


「あの時、家鳴りとラップ音がしたでしょ? そのあと何かが吼えるような声がして、あいつは散り散りに吹き飛ばされた。あれが何によるものなのかは知らないけど、たぶん、そいつがあいつを追っ払ってくれたんだと僕は思うんだ」


 それが何なのかまでは大樹にも解らなかったが、恐らく宮野首の連れているコトラか、或いはその主人であるタマモ、さもなければそれに近しい誰か――が自分たちを助けてくれたとしか思えなかった。


 そうでなければ、今頃自分はあの肉塊のような化け物に殺され、相原は凌辱されてしまっていたことだろう。


 けれど首を傾げる相原に、それをどう説明すればいいのか大樹には全くわからなかった。


 宮野首たちのことをあまり知らないであろう相原に、大樹は説明する言葉をみつけることができないまま、相原と共に階段へと足を向けた。


 覗き込むようにして階下を見下ろし、そこに異形の影のないことを確認しながら、ふたりは慎重に階段を下りていく。


 一歩、また一歩、ゆっくりと段を踏みしめながら。


 やがて階段を降り切り周囲を見回せば、そこには先程までとまるで変わらない風景が広がっていた。


 玄関、廊下、居間、台所は電気がつけっぱなしで全体的に明るく、どこを見ても深い闇は落ちていなかった。


 廊下の最奥に見える洗面所は僅かに影を落としていたが、それでも不安になるほど暗いわけではない。


 ふたりはほっと胸を撫でおろし、けれど決して離れたりはしなかった。


 何とか自力で立てるようになった相原は、ゆっくりと大樹の首から腕を戻し、代わりにその手を強く握り締め、ぴったりと肩を寄せた。


 それからふたりは玄関扉に向かい、ふと足元に目を向ける。


「……これ」


 相原が指差したそこには小さな水溜りが出来ていて、チロチロと玄関扉下の細い隙間から外へ向かって流れていく。


 ふたりは強く手を握り合い、その様子をじっと見つめていたが、しばらくするとその水溜りは家の外へと完全に姿を消した。


 あとにはやはり、先ほどと変わらぬ玄関の様子がそこにはあった。


「――もう、大丈夫だよ」


 そう言う大樹に、相原も静かに「うん」と頷いた。


 自分で『大丈夫』と言っておきながら、大樹の中にはそれでもやはり不安があった。


 あの場に小林の姿がなかったからだ。


 もしかしたら、今もどこかで僕らの様子を窺っているんじゃないのか。


 隙を見せれば、また襲われてしまうのではないのか。


 そう思うと、完全に緊張を解くことなんてできそうもない。



 ――ガチャリ



 次の瞬間、玄関の鍵が開く音がして、大樹と相原は驚きのあまり、思わずびくりと身体を震わせ、眼を見張った。


「ひっ」と息を吸うような悲鳴を相原は漏らし、大樹の身体に強く抱き着いてきた。瞼を閉じて、玄関に背を向けるように体を縮こまらせながら、大樹の服を千切れんばかりにぎゅっと握り締める。


「……うぉっ!」


 開かれた扉の向こう側から、見知らぬ男がぬっと現れて、大樹は再び目を見張った。


 相原は全体重をかけるように、大樹の身体に委ねてくる。


 慌てながら、大樹は相原の背を何度も軽く叩いた。


「――な、奈央! 奈央……!」


 それでも相原は、大樹の身体から決して離れようとも、放そうともしなかった。


「イヤ! 離さないで!」


 あまりにも必死にしがみついてくる相原の腕や爪が痛い。


 大樹も見知らぬ男も困惑し、互いに気まずく思いながら視線を合わせる。


「――あぁ、いや」と男は困ったように頭を掻いて、「ちょっと早く帰り過ぎたかな?」


 その言葉に、相原は恐る恐るといったふうに顔を振り向かせた。


「た、ただいま……」


 居心地悪そうに笑う男に、相原は呟くように口にした。


「――小父おじさん」

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