第16回

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 放課後になっても雨は強く降り続けていた。教室の窓から外を眺めて、辟易した気持ちで大樹は昇降口へと向かう。生温く湿った空気が気持ち悪い。なんとなく気持ちまで重くなっていくようだ。そうでなくとも小林の件で気が気でないのに、心が落ち着かなくてしかたがなかった。大樹はそんな自分を奮い立たせるようにこぶしを握り締め、大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。


 よし、と気合いを込めたところで、昇降口を出たすぐの所で佇む相原の姿に気が付いた。その途端、再び全身が熱を帯びてくる。顔が紅潮して、朝のあの恥ずかしさが戻ってきたようだった。


「相原さん」


 大樹が声をかけると、相原は「ひゃっ」と驚いたような声で振り向いた。


 視線が交わり、けれど恥ずかしさのあまり、思わず大樹はすぐに視線を逸らす。


「ど、どうしたの? 帰らないの?」

 それから数歩、相原に歩み寄った所で、ん、と異臭に気付く。

「……何か臭わない?」


 これは、なんだろう。生臭いような、獣臭いような……?


 眉を潜める大樹に、相原は耳の先まで顔を赤く染めながら、一歩後ずさる。


「ご、ごめん……! 昨日、お風呂に入ってないから……!」


 その言葉に、大樹は「え」と眼を見張った。そんなつもりで言ったわけではなかったのに、変な勘違いをさせてしまったようだ。大樹は慌てて手を振り、


「あぁ、違うよ! なんかこう、犬か何かの臭いだよ。何だろう、さっきまで何かいたのかなぁ……?」


 何となく、身に覚えのあるような臭いな気がするのだけれど、思い出せない。


 相原はふっと校門の方へ顔を向け首を傾げると、再びこちらに顔を戻す。


 大樹と視線が交わり、真正面から相原の顔を見られなくて、大樹はまたも視線を逸らせてしまった。


「あ……えっと……一緒に……帰らない?」恥ずかしさをこらえながら、大樹は言った。「ほら、僕もバスで帰らなきゃならないし、バスターミナルまで、さ……」


「あ、うん……」


 相原も頬を染めたまま小さく頷き、ふたりは傘を差すと並んで歩きだした。


 不思議なことに、先ほどと打って変わって足も気持ちも軽くなっていた。


 降りしきる雨は容赦なく傘を叩きつけ、肩を並べて歩むふたりはただ前を見て、ひたすらに足を前に進めるだけだった。大樹は何か話さなきゃ、と話題を探してみたけれど、何も思い浮かばなかった。相原と並んで歩いているだけで、頭がそれどころではないという感じだ。


 しばらくの間ふたりは無言で歩いていたが、やがて大樹は意を決して、「あ、あのさ」と口を開いた。


「……なに?」


 優し気な口調の相原に、大樹は「えっと……」と少しばかり考えて、


「ど、どうせなら、このまま図書館に行って、一緒にテスト勉強とか……どうかな?」


 その方が安心だし、安全だろう。小林が何をしてくるのか判らないけれど、まさか大勢の人たちの眼の前で、堂々と何かをしてくることはないはずだ。そう信じたい。


「……図書館で?」


 首を傾げる相原に、大樹はうんと頷き、数百メートル先に見える大きな屋根を指差しながら、

「ほら、あそこ、中央図書館。あそこには自習室があるでしょ? 良かったら、一緒に――」


 しかし相原は、大樹が最後まで言い終わらないうちからそれに答えた。


「ごめん、今日はちょっと……」


「え、あぁ…… そ、そうだよね」と大樹はぐさりと心臓を刺されたような思いで、「急に言われても迷惑だよね。なんか、ごめん。相原さんの都合も聞かなくて……」


 そんな大樹に、相原は慌てたように首を横に振った。


「ち、違うの! 迷惑だなんて思ってない。初めて誰かにそんなの誘われたから、嬉しいよ、凄く!」けれど、と相原は溜息を吐き、「小母が昨日、骨折して入院しちゃって…… これから、そのお見舞いに行くところなの」


 大樹はその言葉に、昨年自分の身に起きたことを思い出す。


「え、大丈夫なの?」


 相原は再び頷いた。


「そんなに酷くはないみたいなんだけど、私にとってお母さんみたいな人だから、心配で……」


「そっか、そうだね。心配だね……」大樹は肩を落とし、「あ、じゃあさ…… 僕も、それに着いて行ったらダメ……かな?」


 今はとにかく、なるべく相原のそばにいるべきだ。ひとりで病院に行かせることがとても不安で、大樹はじっと相原を見る。


「え?」


 眼を見張る相原に、大樹は慌てた。やはり変に思われてしまっただろうか。それも当たり前のことかもしれない。まだ、そこまで相原の家庭に入っていけるほどの関係を築けているわけではない。さすがに図々しすぎただろうか。


「あぁ、ほら……相原さん、風邪引いててまだ調子が悪いでしょ? 何かあったらだから、その……それに……」


 そこで大樹は大きくため息を吐き、胸に手を当てた。


 それだけじゃない。小母さんのことだけじゃない。小林のことも関係ない。何より、自分は――


「それに、僕はもう少し、相原さんと一緒に居たいんだ……」


 顔を真っ赤にしながら、大樹は言った。


 その途端、相原は大きく目を見張った。一瞬にして相原の顔も真っ赤に染まる。


 やがて相原は吐息と共に、小さく、


「……私も、もう少し、一緒に居たい」


 それが全ての答えだった。


 他に言葉など必要なかった。


 ふたりは見つめ合い、気恥ずかしそうに笑った。


「……手、繋いでいい?」


 それは自然と口から出てきた言葉だった。


 大樹の差し出した左手に、相原はそっと右手を差し出す。その手は暖かくて、柔らかくて。けれど、ぎゅっと握りしめられたその感触は、とても力強く大樹は感じた。


 ふたりは寄り添おうとして、ガッと互いの傘がぶつかり、思わず眼を見合わせて小さく笑う。


 相原は自分の傘を閉じると、大樹の傘にその身を寄せてきた。


 互いに手を握り締めて肩を寄せ合い、歩き始める。


 今この時だけでも、大樹は全ての不安が拭い去られたような気がした。

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