第3部 第1章 黒髪の少女
第1回
1
梅雨に入って、四六時中ジメジメしているように感じる時期がやってきた。湿気を含んだ髪がウネウネとうねり、その髪を整えるだけで毎朝数十分の時間を取られるようになって、玲奈は正直、辟易していた。どうにも綺麗にまとまらなくて、ただ頭の左右で軽くまとめるだけに諦めるようになったのは、比較的すぐのことだった。
もう、このまま梅雨の間はこの髪型にしておこう。お姉ちゃんたちみたいにお小遣いがたくさんあるわけでもないし、そんなに頻繁に美容院には行っていられない。お姉ちゃんたちみたいにバイトをしてお金を稼ぐという選択肢もあるのだけれど、お父さんがそれを許してくれるとは思えなかった。麻奈が独り暮らしを始めた時にも酷く心配していたし、結奈がバイトをしたいと言い出した時は何故か酷く狼狽え、反対して結奈と揉めた末に、おばあちゃんの伝手を使って知り合いの神社でバイト巫女として働くことで話は落ち着いた。このうえ私までバイトがしたいと言い出したら、果たしてお父さんはなんて言ってくるのだろうか。たぶん、お姉ちゃんたちの時みたいにやっぱり動揺してしまうのだろう。
すっかり手の離れてしまった麻奈と結奈の姿に、父はその寂しさを玲奈に求めるようになっていた。いずれは玲奈もまた父の手から離れていくというのに、父はことあるごとに、「玲奈はいつまでも家にいてくれるよな? よな?」と泣きそうな目で訴えてくるのが正直ウザい。
こっそり結奈の働いている神社で自分も働かせてもらおうかと思ったこともあったのだけれど、そんなことをしたってすぐにバレてしまうのは目に見えている。かと言って、それを理由にお小遣いの値上げを交渉するのも何となく気が引けて、結局玲奈は美容院に行くお金すら工面できずにいたのだった。
……まぁ、この時期さえ抜ければまた元に戻るんだし。
思いながら、玲奈はがちゃりと家のドアを開いた。
「いってきまぁす」
リビングに向かって声をかけると、「いってらっしゃい」と声をかけてくれたお母さんの後ろから、
「おう、いってらー」
結奈が軽く手を振っていた。
玲奈もそんな姉に手を振り返し、ぱたんとドアを閉じてマンションの廊下をエレベーターに向かって歩いていった。
空を見上げれば空一面を覆い尽くす鈍色の雲。しとしとと降り続けている雨は、天気予報によればどんどん酷くなっていくらしい。一応、あえて紳士用の大きめの傘を持って出はしたけれど、足元が濡れてしまうことからして玲奈は嫌で嫌で仕方がなかった。
できることなら、雨を理由に学校を休んでしまいたいほどに。
エレベーターホールに辿り着いて、玲奈は足を止めて大きなため息を一つ吐いた。
「――やっぱり」
そこには、ぶつぶつと何かを呟いているお爺さんの姿があって、こちらに背を向けて立っていた。そのお爺さんはエレベーターが玲奈の住む階に到着しても乗り込むことなく、ただそこに突っ立ったまま、何か訳のわからないことを呟き続けるばかりだった。玲奈がどんなに聞き耳を立ててみても、その言葉はまったく解らない。たぶん、誰にも解らないだろう。それはもう、言葉ではなかった。何かを呪うように呟き続ける、呪詛の言葉。このお爺さんがいったい何を、誰を呪っているのか判らないけれど、雨の降るたびに現れるこのお爺さんがあまりに不気味で、気味悪くて、玲奈はエレベーターホールを離れると、階段で下まで降りることを選んだのだった。
たぶん、あのお爺さんは人じゃない。生きてはいない。結奈にもあのお爺さんのことを聞いてみたが、結奈も玲奈と同じ結論で、「構わなければ害はないのだから、放っておけばいいんじゃない?」と答えただけだった。
あのお爺さんの霊も、最初からあそこに居たわけではない。玲奈の記憶だと、確か二、三年くらい前だったはずだ。玲奈も結奈も例のごとく、最初そのお爺さんが霊だとは気づかなかった。ただボケたお爺さんがそこに突っ立っているだけなんだと思っていた。それはそれで心配なので、しばらくして父親と母親に相談してみたのだが、ふたりの答えはどちらも同じだった。
「そんなお爺さん、知らないなぁ」
「ボケて迷い込んできたんじゃないの? お母さんも見たことないわ」
両親ともに玲奈や結奈、そして祖母である香澄のように霊を視るような力はまるでなく、至って普通の人であるため、すぐにあのお爺さんは生者ではないことが判明したわけなのだが、そうなってくると、どこか怖ろしく思えてくるのが玲奈だった。結奈の方はまるで気にするふうでもなく普通にエレベーターを使って下まで降りるのだけれど、玲奈はそのお爺さんがいつ一緒のエレベーターに乗り込んでくるともしれない、そのことが気がかりでどうしてもエレベーターを使う気になれなかったのである。
「悩むねぇ、玲奈は。悩んだって仕方ないんだから、割り切っちゃえばいいのにさ」
「お姉ちゃんは気合で何とかしちゃうから良いけど、私には無理なの!」
玲奈がそう返すと、結奈は小馬鹿にするように、玲奈の頭を撫でて笑ったのだった。
自分が悩みすぎる人間であることは間違いなかった。考えて考えて、なかなか結論に至らなくて、決断ができなくて。その代わり、結論が出た時の行動の早さは桜の言う通りだった。
いずれはあのお爺さんの霊の件も、どうにかしなければならない日が来るのだろうか?
そういえば、梅雨前に対峙したあの変態霊も、あのあとは一切出てこなくなったな、と玲奈はふと階段を駆け下りながら思い出した。或いは自分たちのクラスの時に出てこなくなっただけで、他のクラスが体育の授業であの更衣室を使用している際には、やっぱりあの時のように現れているのかもしれないのだけれども。
さすがに玲奈もそこまでは確かめる気もなくて、とりあえず自分の着替えているところを覗かれなくなったのだから良しとしよう、そう思った時だった。
「――うおっと!」
「きゃっ!」
二階まで降りたところで、丁度廊下の角を曲がってきた若いサラリーマンとぶつかってしまい、玲奈は変な声を漏らして一瞬躓きそうになりながらも立ち止まった。
「ごめんごめん、大丈夫?」
声をかけてきたサラリーマンに、玲奈は慌てたように顔を向けて、
「あ、こ、こちらこそすみませんでし……た?」
その男の顔に、思わず目を見張りぽかんと口を開けてしまう。
「――え、あぁっ!」
男も驚いたように目を見開き、次いでしどろもどろになりながら「え、あ、いや、そんな、ウソ」と口にしたあと、
「じゃ、じゃぁ、気を付けて!」
そんなことを口にして、ドタドタ慌てたように、階段を駆け下りていったのだった。
玲奈は男の背中を見送りながら、小さく呟く。
「へ、変態の霊の人……?」
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