第11回

「い、嫌っ!」


 玲奈は叫び、その場から逃げようと駆け出した。学ランの男子に背を向け、二、三歩駆けたところで、がっしとその腕を強く掴まれた。


『逃がさないよ』彼はそう口にすると、ぐいっと玲奈を力強く引っ張り、その身体を後ろから抱きしめながら、『――さぁ、おいで。怖がらなくていい。みんな一緒さ。お前ほどの煌きなら、きっとあの子は喜んでくれるよ』


 あ、あの子? いったい、誰のこと?


 玲奈は思いながら、大きく身をよじって彼の腕を振りほどこうと試みた。


「やめてっ! はなしてっ!」


 そんな玲奈の非力な抵抗など、彼には何の意味もなさなかった。じりじりと玲奈の身体はお化け桜の幹まで引っ張られて、その腕を、脚を、頭を、胸を、お腹を、至る所から伸びてきた腕や手に捕まれて、あっという間に身動きが取れなくなっていった。


「――いやっ! イヤあぁっ! おねがい! 離してよぉっ!」


 玲奈の叫びも虚しく、ずるずると玲奈の身体は木の幹へと飲み込まれていった。


『大丈夫だよ、そんなに怖がらないで。言っただろう? みんな一緒だって』


 すぐ目の前で、学ランの男子が嬉しそうに大きく笑った、その時だった。


「ふざけるな! 玲奈を放せ!」


 どこからともなくタマモの叫ぶ声が聞こえてきたかと思うと、一瞬にして学ランの男子の身体は切り刻まれ、散り去った残骸の向こう側からタマモの腕が伸びてきた。


 その姿は金色に光っており、玲奈のよく知る人の形を成していた。タマモはその両手で玲奈の肩を鷲掴むと、一気に木の幹から玲奈を引き剥がした。そして玲奈を強く抱きしめると、宙を軽く飛んで幹から離れて着地した。


 玲奈を惜しむように木の幹から伸びる腕が空を掴み、顔は呻き声を漏らしていた。そんな中、散らばった学ランの男子の残骸がひとりでに動き出し、結合し、再びその姿をふたりの前に現した。彼は大きなため息を吐きながら、

『……邪魔しないでもらえる? 時間がないんだよ』


「時間だと? どういう意味だ」


 タマモの言葉に、学ランの男子はお化け桜を指さして、

『ほら、見てよ。残された寿命はあとわずかなんだ。だから、どうしても新しい生贄が必要なんだよ。彼女には、その生贄になってもらわなきゃならないんだ。この子を生きながらえる為に。僕たちが、いつまでも一緒に居られる為に』


「――知ったことか!」


 タマモは彼の言葉を一蹴し、再び彼に向かって襲い掛かった。掴みかかり、殴り飛ばし、そしてその身体を何度も何度も切り刻んだ。いくつもの肉塊になった彼の身体は、けれど何度でも集結し元の姿に戻るのを繰り返した。その間、幹から伸びてくる腕や手を、タマモは幾度もその爪で斬り落としていった。ぼとり、ぼとり、と闇に落ちる腕に合わせて、幹に浮かんだ顔が悲痛の叫び声をあげていた。


 黒い血しぶきがタマモの金色の身体を穢していった。何度も何度も切り刻まれながらも、それでもなお学ランの男子は笑いながらタマモから逃げ続けていた。


 玲奈はその光景を目にしながら、何が何だかわからなかった。どうすれば良いのかもわからなかった。このまま戦い続けても、同じことの繰り返しのように思えてならなかった。学ランの男子は何度も何度も切り刻まれながらも再生を繰り返し、その度にタマモは諦めることなく男子のみならず、それを妨害しようとする幹への攻撃を続けていた。しかし、その表情にもだんだんと疲労の色が見えてきていた。激しい息づかい、上下する肩、緩慢になっていくその動きに、玲奈はタマモを心配した。


 何とかしないと、このままではタマモも危ないんじゃないか、そう思った時、玲奈はふとお化け桜の向こう側に佇む、小さな人影に気が付いた。何だろうと目を凝らして見てみれば、木の幹に隠れるようにしてこちらの様子を窺っている、小さな女の子の姿がそこにはあった。恐らく四、五歳くらいだろうか。薄汚れた茶色い着物を着ており、雑に切られた髪が肩のあたりで揺れている。


 どうしてあの子だけ、あんなところに。


 玲奈は思い、タマモと学ランの男子に視線を戻した。ふたりは今もなお激しく争っており、玲奈のことなど忘れ去ってしまったのか眼中にないように見えた。


 ……もしかしたら、今なら。


 玲奈はゆっくりと、ゆっくりと、もう一度お化け桜の方へと遠巻きに移動した。彼らに気づかれないように、細心の注意を払いながら。


 やがて何とか幹の裏に辿り着いた玲奈は、いまだ玲奈に気づいていないその女の子の後ろから、勇気を振り絞って声をかけた。


「ね、ねぇ、あなた、誰?」


 すると女の子はびくりと身体を震わせて、目を見張りながら玲奈に振り向いた。動揺しているのか激しく身体を震わせながら、ぺたんとその場に尻もちをついた。恐ろしいものを見るような眼で玲奈を見上げて、「あ、あぁ、あああぁ」と声にならない声を漏らした。


「だ、大丈夫。私、何もしないから」


「え、あ、うぅ……」


 けれど、女の子は呻くばかりで、まともに会話が成り立たなかった。或いは、そもそも言葉を喋れないのではないかと玲奈は考えた。よくよく見ればその茶色く薄汚れた着物には桜の花びらがいくつも描かれており、もともとはそれなりに綺麗なものだったに違いなかった。髪もぼさぼさだが、取れかかって引っかかった簪に玲奈は気付き、それにそっと手を伸ばそうとしたところで、

「あ、あああぁぁ!」

 女の子が激しく首を横に振って、その簪を両手で覆った。


 どうやらよほど大切なものらしい。


 玲奈は慌てたように手を放して、

「あ、ごめんね、取ろうとしたわけじゃないの」

 私はただ、と言いかけた時だった。


『――何をしている!』


 突如学ランの男子が叫び声をあげ、こちらに向かって来るのが見えた。


 その眼は大きく見開かれ血走り、血みどろの姿は鬼気迫るものがあった。あまりの恐ろしさに、玲奈は咄嗟に女の子を守らなければとその身体を強く抱きしめていた。瞼をぎゅっと固く瞑り、身体に力を入れて身構える。


 その瞬間、玲奈の瞼の裏に、鮮明な光景が流れていった。


 それはいつともどことも知れない小さな町並みの姿だった。


 そこにはひとりの小さな女の子がいて、両親や兄弟に可愛がられていた。


 やがて女の子は病に罹った。


 縁側の布団に寝かされて、庭で咲く桜をひとり寂しく見続けていた。


 病は一向に良くならなかった。


 寝たきりの女の子は動けなくなった。


 動かなくなった。


 桜の木を眺めることしかできなかった。


 ひとりっきりの女の子の、唯一の話し相手が桜の木だった。


 桜の木は返事こそしなかったが、確かに女の子と共にあった。


 しばらくして、女の子は静かに命を引き取った。


 女の子は、ひとりだった。


 親や兄弟に看取られることもなく、桜の木に見守られながら、静かに、そっと。


 女の子が亡くなったあと、両親は女の子の遺体を桜の木の下に埋葬することにした。


 女の子が、この桜の木をずっと好いていたからだった。


 そののち、激しい戦争が起きた。


 女の子の家も無事ではなかった。


 一家は離散し、女の子の家は焼失した。


 誰も帰っては来なかった。


 女の子は、桜の木の下で、独りぼっちだった。


 寂しくて、寂しくて、仕方がなかった。


 それからしばらくして、女の子の家があった場所に、大きな建物が建った。


 三つ葉中学校だ。


 桜の木は残され、そこにたくさんの生徒が通うようになった。


 だから、女の子は――


「玲奈!」


 タマモに頬を叩かれて、玲奈ははっと我に返った。


 タマモに守られるようにして、玲奈は女の子をぎゅっと抱きしめていた。


『その子を放せ! その子は、その子は――!』


 距離を置くように、学ランの男子が玲奈たちを睨みながら叫んでいた。


 玲奈は自分の胸に顔をうずめている女の子に、そっと語り掛けた。


「大丈夫だよ。安心して。もう、こんなことは辞めようよ」


 女の子は玲奈のその言葉に、ゆっくりと顔を上げた。


 その眼には涙が浮かんでいた。


 玲奈はもう一度、女の子の頭をその胸に抱きしめた。


 女の子は、大きな声で泣いていた。


 これ以上、玲奈は何かを語るつもりはなかった。


 その必要も感じなかった。


 そう。寂しかったのだ。だから、この女の子は――彼は――


『……なんで邪魔をするんだ。僕らは、ずっと一緒に――』


 学ランの男子は膝をつき、絶望するように顔を歪ませた。


 それを見て、タマモは狼狽するような表情を浮かべながら、

「な、なんだ? 何が起こったんだ? おい、玲奈。お前なにをしたんだ? その幼子はいったい誰なんだ? どういうことなんだ、これは……?」


 玲奈と学ランの男子を交互に見やって、困ったように首を傾げた。

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