幕間 秋

落葉のイド

 汚かった。

 うるさかった。

 消えたかった。


 全てのことから逃げたかった。


 わたしは誰からも愛されなかった。

 お父さんからも、お母さんからも、そして、知らない男の人たちからも。

 けれど、誰からもわたしの身体は愛された。

 みんながわたしを求めていた。

 わたしはただの人形だった。

 人形でなければならなかった。

 そうでなければ、お父さんからもお母さんからも怒鳴られて、殴られて、蹴られて、押し倒されて、そして──されてしまうから。

「汚いお前が廊下を歩くな。ごみクズの分際で、生かされてるだけ感謝しな」

 お母さんはそう叫んでわたしを殴った。

 お父さんはそれを見てただ笑っていた。

 誰もわたしを助けてはくれなかった。

 わたしはひとりだった。

 たくさんの男の人に囲まれながら、そこにあるのはただわたしだけだった。



 わたしは井戸の底をじっと見ていた。

 井戸の底には真っ黒い水がたまっていて、落ち葉がぷかぷか浮いていた。

 うっすらと見える枝のようなものは、たぶん、お父さんとお母さんが燃やした男の人たち。

 庭の隅の焼却炉で、長い時間をかけて燃やした、殺した男の人の残りカス。

 何があったか、わたしは知らない。

 わたしは何も見ていない。聞いていない。

 わたしはただ、バラバラになった男の人の腕や足を焼却炉に投げただけ。

 じっとそれが燃えていくのを見ていただけ。

 その燃えカスを、井戸の底へと投げ入れただけ。

 お父さんやお母さんに命令されて、ただそうしただけだった。

 あそこには、わたしを抱きしめた男の人たちが、たくさんいる。

 けれど、そこにいるのが誰なのかは覚えてなかった。

 男の人がわたしを抱くとき、わたしはそこには居なかったから。

 ただわたしは、そこにあるだけだった。

 わたしはどこにも居なかった。

 どこにも居ないわたしは、どこにも行くことはできなかった。

 ここから逃げることもできなかった。

 わたしはぼんやりと井戸の底を眺めていた。

 ただ、それだけだった。


 それなのに。


『可哀そうな娘だ――』

 どこからともなく、聞いたこともない、女の人の声が聞こえてきた。

 その声は井戸の中に響いていて、もしかしたらこの中からだろうかと、わたしは井戸の底をじっと見つめる。

「……かわいそう?」

 わたしが口にすると、女の人のその声は、

『そうだ。お前は可哀そうな娘だ。己の心をその身の奥底にひた隠しにして、実の父母に辱められて、虐げられて。剰え、知らぬ男共に身を委ねる日々。ろくに学も修められず、世の事も一切知らされず……これを可哀そうと言わず何と言えばいい?』

 わたしはその女の人を探したけれど、やっぱりどこにも見当たらなくて。

「……あなたは、だれ?」

 訊ねると、

『お前の味方だ』

 井戸の底から白い綺麗な手が伸びて、わたしの頬をすっと撫でた。

 とても暖かい、優しい手だった。

 わたしはその女の人の白い手に、そっとわたしの手をあてる。

 瞼を閉じると、そこには優しく笑う、白い服を着た綺麗な女の人が立っていた。

『わたしは、ずっとお前をここから見ていた。お前の初めてが父に奪われたところも、母がお前の身体を痛めつけたところも、男共が寄って集ってお前の身体を貪っていたところも、全部全部わたしは見ていた。だから、お前が如何に可哀そうな娘か、わたしは知っている。お前は本当に、健気で美しい、哀れな娘だ。だから――お前のことを、わたしは助ける』

「たすける?」

『そうだ』

 もう一度瞼を開くと、そこには瞼の裏にいた女の人の姿があって、わたしは思わず泣きだしそうになるのをこらえながら、

「私を、たすけてくれるの?」

 確かめるように、もう一度訊ねた。

『あぁ、そうだとも。全てをわたしにゆだねるが良い。そうすれば、お前はもう苦しむことはない。悲しむこともない。痛いことも、ひもじい思いもしなくなるのだ。安心するが良い。お前がわたしを受け入れさえすれば、お前の父も、母も、男共も、誰も彼もがお前の傀儡となって動くだろう。お前が全てを支配するのだ。これまでその身に溜めこんできた痛みを、悲しみを、恨みを、お前を弄んできた奴らに返してやればいい。その手段が、今、お前の手の中にあるのだ』

「わたしの、手の中に……」

『そうだ』

 女の人は頷くと、わたしの手を取りながら。

『さぁ行こう、わたしと共に』

 わたしは女の人に引っ張られながら、その優しい微笑みに救いを求めた。

 

 汚かった。

 うるさかった。

 消えたかった。


 全てのことから逃げたかった。


 わたしは彼女に連れられて、まるで枯れ落ちた葉っぱのように、井戸の底へと落ちていった。

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