第10回
廊下を右へ折れたところで、庭に向かって倒れたガラス戸が目に入った。粉々に砕けたガラスの破片が庭に散り、赤黒いシミが、廊下から庭に向かって広がっている。それはまるでどす黒い血のようで、他にも嘔吐したのであろう汚物らしきものも縁の下に見える。
なんだ、いったい何があったんだ?
響紀は焦りながら、庭の方に目を向ける。
「――なっ」
その光景を目にした時、響紀は大きく目を見開き、立ち竦んだ。
そこには地に尻をつけて怯える奈央の姿があって、そんな奈央の目の前には、およそ人とは思えない醜い顔をした喪服の女が、今まさに奈央に襲い掛かろうと、その手を奈央の顔に向かって伸ばしていたのである。
女の身体からは赤黒い蛭のような何かがボトボトと地に落ち、あの白かった肌は見る影もなかった。目は大きく見開かれ、ギョロリとした目玉が奈央の身体を見据えている。耳まで裂けているかのようなその口からは長い舌が伸び、うねうねと蠢きながら奈央の顔に向かって近づいていた。生臭いにおいが響紀のところまで漂ってきて、あまりの穢れに響紀は眉間にしわを寄せる。
このままでは奈央が危ない、そう思った時には、すでに響紀の身体は動いていた。
「……奈央!」
叫び、瞬く間に響紀の身体は奈央と喪服の女の間に割って入る。そのドロドロに半壊した喪服の女を見据えながら、響紀はがっと女の身体を掴み、力いっぱい押しやった。その背後には、響紀が突き落とされたあの井戸があって、その下には井戸の蓋らしきトタン板が転がっている。このままこいつをあの井戸まで押しやって、俺の身体もろとも井戸の中へ――
「……あっ」
その時、後ろから奈央の驚く声が聞こえてきた。ちらりと視線を後ろにやれば、奈央がこちらを見て目を丸くしている。恐らくこちらの姿が見えているのだろう。
けれど、響紀は再び喪服の女に視線を戻すと、それに構わずじりじりとその身体を井戸に向かって押しやり続けた。
「は……な、せ……わた……しの………から……だあぁっ!」
女が叫び、響紀はそんな女の身体を抱きしめるようにしながらさらにまた数歩分、女の身体を井戸へ押す。女の身体はだらだらと崩れ続けており、もはや人としての原形を留めておくのもやっとなのだろう、響紀は今一度奈央の方に顔を向け、そして叫んだ。
「奈央! 俺がこいつを井戸の中に引きずり下ろす! お前はすぐに蓋を閉じろ!」
「――えっ」
奈央は戸惑いの表情を隠さず、辺りをきょろきょろと見回している。
その姿に、響紀は苛立ちを覚えながら、
「井戸の下だ! そこに見えるだろうが!」
顎で井戸の下を指し示せば、奈央はようやくそれに気づいたらしく、コクコクと何度か頷いた。
それを確かめてから、響紀は一つ頷いて、再び喪服の女に顔を戻した。そしてなおも必死の形相で抗う女に、響紀は小さくため息交じりに、
「――帰ろう、一緒に」
その瞬間、女の視線が響紀に向いた。女は一瞬、きょとんとした表情で抵抗する力をわずかに緩める。その隙を響紀は逃さなかった。一気に腕に力を込めて、ずるずると女の身体を井戸へと押しやる。
その瞬間、女ははっと我に返ったように目を見張った。
「あぁぁ――あぁあ! ああああぁぁぁぁああぁぁああぁぁ――――――――!」
耳をつんざくような叫び声をあげて暴れだしたが、けれどその時にはすでに女のすぐ後ろに井戸は迫っていた。
「俺の家族に、手を出すなぁああぁ―――!」
響紀はこれが最後とばかりに大きく叫んだ。
ぐらり、と女の身体が井戸へと落ち、響紀はそんな女の身体をぎゅっと抱きしめながら、自身も井戸の中へと飛び込んだ。
女は叫んでいた。響紀はその叫びを耳にしながら、絶対に離すまいと女の身体を抱きしめ続けた。
ふたりの身体は見えない底へ向かって落下し続ける。
「放せ放せはなせハナセ離せ放せ離せ放せえぇぇぇ――――――――! ああああぁぁぁぁああぁぁああぁぁ――――――――」
その瞬間、女の身体からばっと何か黒い影が抜け出していった。響紀の頭をわずかに掠めて、その黒い影は遥か上空、ぽっかり開いた井戸の口へと昇っていく。
しまった、と響紀は一瞬、女の身体を放してしまったのだとばかり思ったが、確かに腕の中にはまだ女の身体の感触があって、
「――あっ」
ドロドロに溶けてしまっていたはずの喪服の女の身体は、あの白く美しい姿に戻っていた。その瞼は力なく閉じられ、小さく開いた口も可愛らしくそこにはあった。長い髪を暴れさせながら、響紀と共に、井戸の底へと落下し続ける。
落下するごとに、女の姿は徐々に徐々に小さくなっていった。いつの間にかあの黒い喪服も消え去って、ボロボロに汚れたトレーナー一枚を羽織っただけの、小さな少女へと姿を変えていた。
やがてふわり、と身体が浮くような感覚があって、響紀は驚きの声を上げた。
何が起きたんだろう、底へ達したのだろうか、と思っていると、いつの間にか響紀と少女の身体は、もとの庭に佇んでいた。
「――えっ」
響紀は目を見張り、辺りを見回す。けれど、そこにはどこにも奈央の姿は見当たらなくて、例の廃屋の方に目を向けてみれば、どこにも蔦は這っておらず、薄汚くはあるけれども、生活感のある、ごく普通の家があるだけだった。ふと脇を見てみれば、枯れていたはずの池にも水が張っている。
「ここは、いったい……」
その時、「んっ」と抱きしめていた少女が目を覚ました。
少女はうっすらと瞼を開くと、響紀の方へと顔を見上げる。とろんとした眼はやがて大きく見開かれ、驚いたような表情を浮かべながら、
「……誰?」
と訝しむように響紀に訊ねた。
その表情に響紀は一瞬面食らったが、けれどなるべく怯えさせないように、
「俺は、響紀だ」
「ひび、き……?」
「あぁ」
と響紀は頷き、
「君は?」
すると少女は少しだけ考えるような仕草を見せてから、
「……たぶん、ユキ」
自分自身で確かめるように、小首を傾げながらそう答えた。
どういうわけか、ユキは響紀のことなど覚えていなかった。まるで今まであったことを全て忘れてしまったかのように、不思議そうに響紀を見ている。或いは本当に、過去に戻ってきたのかも知れなかった。この家の様を見ていると、なんとなくそんな気がしてならなかった。ここはたぶん、俺の知っている時間や場所じゃない。だから、もしかしたら――
その時だった。
「おらぁ! クソガキ! どこ行ったぁ!」
家の中から、男の野太い声が聞こえてきた。瞬間、ユキの身体がピクリと震え、怯えたように目の色が変わった。
そんなユキに、響紀は手を差し伸べる。
「――行こう、ユキ」
「……行く? どこへ?」
「どこでもいい」
響紀はユキに視線を合わせ、その頭を優しく撫でる。
そのどことなく幼い頃の奈央と重なる不安そうな表情に、響紀は言った。
「俺がお前を守ってやる」
「……あなたが? 私を?」
本当は奈央にそうしてやるべきだった。あんなつっけんどんな態度を取って、喧嘩ばかりして、そんな関係であるべきではなかった。奈央のことを守りたかった。あのどうしようもない奈央の母親や、父親と離れて暮らし、独りぼっちだというその思いから奈央を解放してやるべきだった。頼れる兄として振舞ってやるべきだったのだ。死んでしまった俺にはもう、それはできない。けど、今の奈央には俺の母がいる。父がいる。恋人である木村だっているのだ。
なら、俺は俺ができることをやればいい。奈央にしてやれなかったことを、代わりにユキにしてやるのだ。自己満足かも知れない。今までできなかったことへの未練やその埋め合わせを、ユキに求めるのも変な話かもしれない。けれど、俺はユキの過去を覗いている。この子が今どんな状況にあるのか、これからどんなことが彼女の身に訪れるのか、全部俺は知っている。だからこそ、俺がそんな悲劇から守ってやるのだ。
「クソガキが! どこへ行きやがった! またお仕置きされたいのか!」
家の中を探し回るその音に、ユキは怯える。
「大丈夫。俺を信じろ」
「……」
ユキはじっと響紀の眼を見つめてきた。
響紀も、じっとユキの眼を強く見つめる。
やがてユキは小さく頷くと、
「――行く」
その一言に、響紀はユキの手を取ると、足音を立てないように庭を抜けて、ふたり並んで白く輝く外の世界へと駆けて行った。
第二部・了
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