第8回

 響紀はその赤黒い水たまりと化したモノを忌々しい思いで見つめ、ふと我に返って結奈の方に身体を戻した。


 結奈は飛びかかる異形――餓鬼を蹴り、殴り、或いは踏み潰しながら、その衣服を赤黒いシミに濡らしていた。その手足に至っては潰れた異形の体液に塗れ、まるでどす黒い血のように滴っている。


 周囲の者はその様子が見えていないのか、それとも吹き出す水や陥没した道路、大渋滞した車やバス、タクシーのクラクション、そしてサイレンやどよめく声に隠れて認識されていないのか判らなかった。


 響紀は結奈のところまで駆け寄ると、際限なく襲い掛かってくる餓鬼を振り払いながら、

「どうする? マジでキリがないぞ」


 結奈はわずか数センチのところで牙をむく餓鬼に一撃を食らわせると、響紀の方に顔を向けることなく、大声で叫んだ。


「ここは私が何とかするから、あんたはさっさと奈央ちゃんのところへ行きなさい!」


 響紀はそれに対し、眉間にしわを寄せながら、

「何とかするって、どう考えたって、この数を一人で相手するのは無理だろうが! ったく、どんだけ出てくるんだよ!」


「いいから早く行けって言ってんでしょ! あのね、こんくらいの奴らだったら、私には一発で祓いきる力があるの! 大丈夫だからさっさと行け!」


「いや、でもお前――」


 際限なく水の中から湧き出てくる餓鬼の群れを、いったいどうしたら一発で払いきれるというのだろうか。まるで潰した先から再生し、もう一度襲い掛かってきているんじゃないかと思うくらいの数が、今まさに響紀と結奈の周りを取り囲み、這いまわり、中には潰された餓鬼のドロドロした赤黒い液体を地に這い蹲り啜っている姿もそこにはあって、見ているだけで怖気が走る。


「しつこいのよ! このデキソコナイ!」


 結奈の叫びが聞こえた瞬間、その腕は餓鬼――ではなく響紀の方へと向けられていた。


 ガンッとこれまでに感じたことのない衝撃が響紀の身体全体に響き渡り、そのまま餓鬼の群れの、さらに向こう側へと吹っ飛ばされる。あまりのことに響紀は一瞬、何が起こったのか理解することができなかったが、バッと立ち上がるとすぐに結奈に顔を向けて、

「何すんだお前! 危ないだろうが!」


 すると結奈は二、三体の餓鬼を回し蹴りで地面に叩き落としつつ、

「だから! アンタがいるせいで一掃できないって言ってんの! アンタもこいつらと一緒にあの世の果てまで消え去りたいのっ? アンタもこいつらと同じ、死人でしょうが!」


「え? あ? そういうこと?」


 つまり、結奈は何か神秘的な力で一気に除霊か何かをしようとしているのだ。それはその場にいる死者を良くも悪くも一掃してしまうほど強力なものなのだろう、結奈はそれが使えるにも関わらず、俺が居ることで今までそれを使えずにいたのだ。


 それを理解した時、響紀はこくりと頷いた。


「わ、わかった。じゃぁ、あとのことはよろしくな!」


「早く行け! 馬鹿!」


 そんな結奈の罵倒を背にして、響紀はダッと駆け出した。


 二、三体の餓鬼が響紀の行く手を阻もうと立ち塞がったが、邪魔だとばかりにそれらを殴り飛ばし、蹴り飛ばし、響紀は走った。


 でも、いったいどこへ行けばいい? 病院か? けど、あれからいったいどれくらいの時間が経った? さすがに今もいるとは思えない。なら、奈央はいったい、今どこにいるんだ? あの男はなんと言っていた?


『も……遅……よ、あの女……は奈央ちゃ……手……入……た』


 その言葉は切れ切れだったけれど、聞き取れなかった部分を補完するなら、それは恐らくこうだ。


『もう遅いよ、あの女は奈央ちゃんを手に入れた』


 その瞬間、あるはずのない血の気が引いたように響紀は感じた。


 あの男に足止めを食らわされている間に、奈央の身体はあの喪服の女に奪われてしまったというのか。


 響紀は悪態を吐き、拳を握り締め、地を蹴る足に力を籠めると、全速力で駆けだした。間に合うか間に合わないか、そんなものは最後の最後まで解らない。あの男が俺たちを惑わすために、動揺させるために、嘘を吐いていただけかも知れないのだ。今はとにかく、その無事を信じて奈央を探し出すしかない。


 思いながら、響紀は混乱と喧騒の中を必死で走り、その向こうの閑散とした大通りを駆け抜けた。昔からある古いビルの旅館を左へ折れて側道に入り、大きな駐車場の脇を抜けて、かつて通っていた中学校の前を尻目に、さらにそこから右折して峠下のコンビニに差し掛かった。


 その瞬間、周囲の空気が一気に変わった。


 人影がなくなり、どんよりとした雲が空を覆う。やがてその雲からぽつりぽつりと雨が滴り始め、響紀は自分の身体がずしりと重くなったような気がした。車道を走る車の影もなく、地面を叩きつけるように降り注ぐ雨音以外、どんな音も聞こえなかった。数えられないほどに立ち並ぶ周囲の民家はどれも電気ひとつ点いておらず、その窓の向こうにはただただ真っ黒な闇が詰まっているだけのように響紀には感じられた。木々のざわめく音もなく、まるでそこに立つも模造品のように、草木が風に揺れている。


 コンビニの方に顔を向ければ、明かりは点いているのに人影一つ見当たらない。ひっそりとした空間がそこにはあって、やはり異様な空気を感じさせた。


 遠く山の方に視線を移せばただぼんやりとだけその姿が確認できる。まるで抽象画か何かのような、本当にはっきりとしないその影に、響紀は気味の悪さを感じる。


 いったいこれはどうなっているんだ。ここは本当に俺の知ってるあの町なのか? これではまるで、誰かが作り上げた原寸大のジオラマみたいじゃないか。


 響紀は戸惑いながらも、その足を峠の上に向けて歩き出した。周囲を窺いながら、いつどこからあの餓鬼や女に従う男共が現れるか警戒しながら。けれどそんな気配はどこにもなく、ただ山頂の方から流れてくる水だけが、ちょろちょろと足元を流れていく。


 ふと脇を見てみれば、あのお地蔵さまが祀られていたはずの祠が破壊されており、見るも無残な姿となっていた。粉々に砕け散った地蔵のカケラは苔むし、いったいいつからそこに転がっていたのか、相当な年月を感じさせた。けれど、響紀の知るこの祠は、つい昨日まで普通にここにあったはずだ。


 ということは、やはりここは、俺の知っている町じゃない。


 響紀は冷や汗が噴き出してきたような感覚に襲われた。ここはもう、あの喪服の女の領域なのだ。いったい、どうやって入り込んだのか解らないけれど、それは疑いようのない現実であるという確信だけがそこにはあった。


 やがて見えてきた、女の住まう峠の廃屋。俺はここであの女に殺され、そして交わり、何度も逃げながらも、またこうしてここに戻ってきた。


 響紀は今一度拳を強く握り締め、瞼を閉じる。


 その瞼の裏側に、こちらに背を向けて佇む、小さな女の子の姿を彼は眼にした。女の子の傍らには黒い女の影がまとわりついており、女の子の肩に手をあて、ニタリとこちらに笑みを浮かべる。


 響紀は再び瞼を開くと、

「絶対、俺が助けてやる」

 そう口にして、がしりと門扉に手をかけた。

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