第7回

   4


 響紀は玄関ホールを抜けて、男の消えた方に身体を向けた。十数メートル先、病院前の公園を左に曲がっていく男の姿をその眼に捕らえ、響紀は再び走り出す。しかし、走れども走れども、ただ歩いているだけのようにしか見えないその男には一向に近づけない。


 そんなはずはない、こちらは全力で走っているのだから追いつけないはずがない。そう思いはするのだけれど、明らかに目の前を歩く男の方が先へ先へと進んでいく。


 時折、響紀の方を振り返りながら、嘲り笑うように。


「ちょっと! 待ちなさいよ!」


 背後から声をかけられて、響紀はそれでも振り向かずに、

「なんだよ!」

 背中越しに、結奈に言った。


「さっきから何してんのよ! 急に走り出すなんて!」

「アイツがいたんだよ!」

「アイツって、喪服の女?」

「違う!」


 響紀は叫び、病院駐車場の角を右へ折れて、駅前へと走りながら、

「去年、奈央を付け回してた男だ!」


「奈央ちゃんを?」


「そうだよ! あの野郎、奈央のあとをつけてうちを特定したり、夜に家の周りをうろうろしたり! 挙句、奈央の自転車に自分の精液なすりつけたりしやがったんだよ!」


「何それ! 気色悪い!」


「それだけじゃない、あの野郎はうちに忍び込もうとして、俺がとっ捕まえて、警察に引き渡して――」

 響紀は見えてきた駅の、高架橋の下を左へ曲がっていく男の姿を目に捕らえながら、

「留置所の中で、死んだんだ」


「えっ、死んだ? なんで?」


「知るかよ、でも間違いない。警察がそう言ってたんだからな」


 駅前は土曜日ということもあって、道行く人や行き来する自動車やバス、タクシーに溢れており、このままでは男の姿を見失ってしまいそうだった。響紀は自分の身体が生者には触れられないことを利用して、とにかくまっすぐ、先を歩く男に向かって走り続けた。


 響紀の後ろでは、結奈が「ごめんなさい」「すみません」と謝りながら、人をかき分けついてきているのが音で解った。


 やがて駅前の大きなマンションの前に差し掛かった時だった。


 ――ドドンッ!


 大きな音が辺りに響いたかと思えば、歩道や道路のマンホールの蓋が一斉に吹き飛び、空高く水が噴き出してきたのである。道を行く人々は悲鳴を上げ、或いは立ち止まり茫然とその様子を見上げる。がらんがらんと重たい音とともに振ってきたマンホールの蓋に驚きながら避ける人々。響紀も結奈も立ち止まり、その様子に目を疑った。


 続けてボコン、ボコン、と道路のアスファルトが次々に陥没し始め、それにハンドルを取られた自動車やバスの運転手が、甲高い音を立てながら急ブレーキをかけて停車する。中には急停車した車の後ろにそのまま突っ込み、ドン! とフロントバンパーが潰れてしまったものもあった。


 辺りは喧騒に包まれた。誰もが何が起こっているのか理解しきれず狼狽していた。


 中にはスマホを取り出し嬉々としてその様子を録画している者たちがいる中で、ごうごうと噴き上げるその水に交じって、いくつもの赤黒い塊が宙を舞い、響紀たちに向かって飛びかかってくるのが目に入った。


 響紀は咄嗟にそのひとつを――人の形をした小さなその生物を、ブレスレットを巻いた右腕で払い除ける。


「くそっ! なんだ、こいつは!」


 見れば、払い除けたその生物は道路に倒れこみ、もがき苦しみながらドロドロと地面に溶けて赤黒いシミを作っている。


「ちょっと、なによ、そいつ!」

 結奈も驚きの悲鳴を上げた。


「知るか!」


 叫んだ響紀は上空に視線を戻し、さらに襲い来る人型の異形の顔を、真正面から殴りつけた。


 ぱんっと異形の頭が弾け飛び、バラバラになった手足や胴が響紀の周囲の道路にごろごろ転がる。


「えっ! えっ! えっ!」

 と動揺する結奈だったが、自分自身も狙われていることに気が付いたのだろう、自分に向かって飛びかかってくる複数の異形たちを、かつて響紀にそうしたように、回し蹴り一発で地面に叩き落としていった。さらに襲い来る者に対しては拳を用い、右へ左へと払い除ける。

「何これ! 気味が悪い!」


「知らねぇって言ってんだろ!」


 響紀と結奈は次から次へと飛び出してくる異形を殴り飛ばし、或いは蹴り飛ばし、とにかく払い除けることしかできなかった。


 遠くからはこちらに向かっているのであろう、パトカーと消防車の音が響いていた。


 異形の姿はやはり生者には見えていないのか、誰もが慌てたようにその場を去るか、さもなければ事故を起こしてしまった運転手の下へ駆け寄ったり、車を降りてどこかへ電話している者の姿もあった。


 異形の数は一向に減る気配を感じなかった。どこからともなく湧いてくるように、ふたりに向かって襲い掛かる。


「くっそ! なんなんだよ! キリがない!」


 響紀は叫び、忌々しく思いながら腕にしがみついてくる異形の頭を引っ掴み、地面に向かって叩きつけると、その身体を力いっぱいに踏み潰した。


 その瞬間、まるで水風船のようにぱんっ! と弾ける異形の身体。


「どうすんのよ! これ!」

「どうするって、お前――」


 その時だった。


 視界の隅に、あの男がにやにやしながらこちらを見つめていることに響紀は気が付いたのだ。


「あの野郎!」

 響紀は呻くように呟き、だっとその場を駆け出した。


「ちょっと、響紀!」


 結奈の声など聞く気もなく、響紀は男に向かって走り続けて。


「――よう、怖い兄ちゃん?」


 男は逃げることなく、むしろ待っていたとばかりに響紀と真正面から対峙する。


「お前、あの女の仲間だな?」


 それに対して、男はひっひっひと引くついた気味の悪い笑みを浮かべながら、

「……だってよぉ、あの黒い女が言ったんだよぉ。お前らを足止めしとけば、あとでいくらでも奈央ちゃんを犯していいってさぁ。そんなん、断るわけにはいかないだろ? 俺はこの時をずっと待ってたんだからさぁ。本当はずっと奈央ちゃんの近くに居て、いつ犯してやろうかってずっとチャンスを狙ってたんだけどな? いつもいつもあの狐に邪魔されて、おっぱいくらいしか触れなかったんだよなぁ。そんなんじゃ我慢できるはずないだろ? せっかく死んで自由を手に入れたってのに、結局お前みたいに俺のことを邪魔する奴らがいるんだよなぁ。でも、そんなのに邪魔されたからって、俺の気持ちが収まるわけないじゃないか。なぁ、お前だってそうなんだろう? お前だって男だもんなぁ? 俺の気持ちがわかるよなぁ? 本当はお前だって奈央ちゃんを犯したいんだよ。俺のことを警察に売ったのだって、奈央ちゃんの身体を独り占めしたかったからだろう? 大丈夫だよ。お前の気持ち、俺にはちゃんとわかってるから。だから俺はお前を怨んじゃないない。むしろ仲良くしたいくらいさ。お前の後ろで餓鬼どもと遊んでるあの巨乳のねぇちゃんだって、あとでいくらでも好きにできるってんなら、悪い話じゃないだろ? なぁ、お前も俺たちの仲間になれよ。いや、そもそも最初から仲間だったじゃないか。お前も俺らと同じように、黒い女と好きなだけヤったんだろ? ウケイってやつを済ませて、黒い女のモノになったんじゃないか。今さら俺たちを裏切るのか? そんな馬鹿な真似するわけないよなぁ? だって好きなだけヤれるんだぜ? お前だって奈央ちゃんとヤりたかったんだろ? あの巨乳のねえちゃんのおっぱいに吸い付きたいんだろぅ? かっこつけて否定したって無駄なんだよ。俺には全部わかってんだからさぁ。お前だって若い女の肌を楽しみたいだろ? 隠さなくてもわかるんだぜ、俺にはさぁ。だってお前も男じゃないか。男と女はヤるために生まれてきたんだ。そんなのバカにだって解ることじゃないか。よく考えてみろよ、日本の神話で国を産んだのはいったい誰だ? イザナギとイザナミ様だろうが。言わばあのふたりはセックスの神様なのさ。日本の神話がそうなってんのに、なんでそれを否定する必要があるってんだ? なぁ、そうだろう? 俺たちの身体は、魂は、最初からヤることしか考えちゃいないんだよ。それが命を繋ぐってもんだろうがよ。そうだろう? それはお前だって同じはずだ。だったら何をそんなに躍起になって拒んでんだよ。無駄なことなんだよ、最初からな。男と女がヤることによって餓鬼が生まれて、その餓鬼はヤればヤるほど増えていって、ほらご覧の通り、ママが恋しくてあの巨乳のねぇちゃんにおっぱいちょうだい、おっぱいちょうだいって飛びかかってるだろ? お前だってあの餓鬼どもと同じなのさ。当然、俺だってそうだ。奈央ちゃんを好きなだけ犯し倒したら、その次はあの巨乳のねぇちゃんだ。あれは相当な上玉だからな。きっと他の奴らも我慢できないだろうから、みんなで一緒に――」


「そろそろ黙れ、糞野郎」


 響紀はこれまでに感じたことのない怒りに震えていた。今目の前の男が口にしていたことの半分も理解できなかった。したくなかった。認められなかった。認めるわけにはいかなかった。こんなゲスの言うことなど聞く耳持てるはずがないのだ。


 だから響紀は、その怒りの全てを右腕に込めてやった。


 強く拳を握り締めて、これまでこの男が宣った腹立たしく気持ち悪い台詞を全て、その口の中へ押し戻してやるように、一気に男の顔面に向かって拳を叩きつけてやった。


「――ごふっ」


 そんなくぐもった声を漏らして、男の顔の半分が、その勢いにばっと爆ぜた。


 赤黒い塊が辺りに飛散し、響紀の顔にも飛沫が散る。


 響紀の拳はこれまでに感じたことのない熱を帯びていた。それは響紀の怒りの具現だった。こんな男がこの世に存在しているだけで、世界に対して怒りを感じた。


「ふひ、ふひひひひひっふひひひひひ……!」


 男は目も鼻も失った顔で、それでもなお口から下卑た笑いを漏らしていた。


 じわりじわりと崩れていくその身体を支えるでもなく、男はその口からなおも嘲るような声で、

「も……遅……よ、あの女……は奈央ちゃ……手……入……た。俺……仕事……た……さ。あと……の方の……へ帰……け。で……さぁ、やっぱり……ままじゃぁ、俺の……ちが収まらな…………」


 ぐちゃり、と男の身体が地面に溶けて、最後の方は聞き取ることもできなかった。

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