第14回

 あいつは、あんなところで何をしているんだ? まさか、身投げするつもりなのか? 


 思いながら、彼は今にも駆け出しそうだった。けれど、今目の前に映し出されているその少女と、隣に佇んでいる女の子が同一人物であることを思い出し、寸でのところで思いとどまる。


 これは過去の映像だ。今じゃない。そう、今じゃないんだ。


 しかし、なら、この女の子は――


 彼は何とも言えない不安に駆られた。これから起こるであろう出来事を予測し、その映像から目を背けたいと願った。けれど、彼には何故かそうすることができなかった。これから起こる出来事を、とにかくこの目で確かめなければならない。そう思ったのだ。


 彼は映像からわずかに視線を逸らし、隣に立つ女の子の様子を窺った。


 しかし、そこには女の子の姿なんて見えなくて。


 思わず彼は映像の方に視線を戻して――それがもう映像ではないことに気が付いた。


 彼は地面の上に立っていた。地面は赤、黄色、茶色と様々な色形の葉で覆われており、まるで整備されていない池にはぬかるんだ泥水がどろどろと波打っていた。辺りはしんと静まり返り、太陽は暑い雲に隠れ、どんよりとした重たい空気が立ち込めている。彼の背後には見覚えのある蔦の巻き付いた家が建ち、開け放たれたガラスの引き戸の向こう側には、何か良からぬものが隠れている、そんな気がしてならなかった。


 時折吹く風がざわざわと周囲の高い木々の葉を怪しく鳴らし、彼の抱く不安をより大きく膨れ上がらせた。


 そこに居るのは井戸を覗き込む一人の少女と、そして彼のふたりきりだった。


 いや、ふたりじゃない。正確には、ここに居るのは少女だけだ。俺はここには居なかった。居なかったのに、俺はここがどこなのかを知っている。これから起こることを、たぶん知っているのだ。


 ……何故、どうして。


 少女はただ、ぼんやりと井戸の底を覗き込んでいた。その眼には、どんな感情も映し出してはいなかった。ただ黒い闇がそこにはあって、彼女の感情の全てをその闇が飲み込んでしまったような、そんな恐怖が彼を襲った。そしてその恐怖の中、突然井戸の中から声が聞こえた。それは井戸の中に反響して、幾重にも重なって、男のような、女のような、低く、けれど優しい甘い声で、

『可哀そうな娘だ――』

 そう、短く少女に告げた。


 少女はわずかに目を見張り、

「……かわいそう?」

 とその言葉を繰り返す。


『そうだ。お前は可哀そうな娘だ。己の心をその身の奥底にひた隠しにして、実の父母に辱められて、虐げられて。剰え、知らぬ男共に身を委ねる日々。ろくに学も修められず、世の事も一切知らされず……これを可哀そうと言わず何と言えばいい?』


「……」

 少女はその声の主を探し、井戸の底をじっと見つめた。けれど何者の姿も認めることができなかったのだろう、小首を傾げながら、

「あなたは、だれ?」

 とか細い声で問うた。


『お前の味方だ。わたしは、ずっとお前をここから見ていた。お前の初めてが父に奪われたところも、母がお前の身体を痛めつけたところも、男共が寄って集ってお前の身体を貪っていたところも、全部全部わたしは見ていた。だから、お前が如何に可哀そうな娘か、わたしは知っている。お前は本当に、健気で美しい、哀れな娘だ。だから――』


 と、そこまで声が聞こえた次の瞬間、井戸の中から、すっと白い手が伸びてきて、少女の頬を優しく撫でた。


 彼はそれを見てたじろぎ、目を見張った。その手の正体を知りたくて思わず身を乗り出したが、けれどどういうわけか、それ以上先には進めなかった。先に進むのを身体が怖がっているのだ。全身が震え、総毛立った。心臓が激しく脈打ち、呼吸が一気に荒くなる。これ以上先に行ってはならない。あの手の主を見てはならない。自分の中の何かが、激しくそれを訴えかけた。


 彼はじっと少女と、その頬に触れる白い手を見つめ続ける。汗が噴き出すようにだらだらと身体を伝って落ちていく。ぬかるんだ地面がまるで彼の足を掴むように、それより先には決して行かせてはくれなかった。


 少女は頬に触れているその白い手の甲に、そっと自身の手をあてた。少女はその手を拒むことなく、受け入れ、ゆっくりと瞼を閉じる。


『お前のことを、わたしは助ける』


「たすける?」


『そうだ』


 その声に合わせて、するすると井戸から何者かが姿を現した。それは真っ黒い霧をまとい、はっきりと視認することができなかった。ただ、髪の長い、白い服を着たのであろう、女性らしき姿が、ぼんやりと彼の目に映し出されただけだった。


 その姿を見て、彼の恐怖は――いや、畏怖と呼ぶにふさわしいその感情は――彼という存在そのものを圧し潰しそうなほどの重みとなって彼を襲った。ずぶずぶと自身の脚が地面に飲み込まれていくのがわかった。何かが自分の胃の腑から込み上げてくるのがわかった。この黒い霧の女が、すべての元凶であることを彼は今、理解したのだった。


 誰だ、誰だ誰だ誰だ! 何者なんだこの女は! 井戸の底から現れて、少女を誑かして、いったい何が目的なんだ! 何を企んでいるんだ! これから何をしようというんだ! ダメだ、その女の言葉に飲み込まれるな! 理由なんてわからない! ただ、そいつの言うことを信じちゃダメだ! 早く逃げろ! 逃げるんだ!


 けれど、彼の思いなど少女に届くはずもなかった。何故ならば、これは今ではない。過去の出来事なのだから。彼はそのことをすぐに理解し、そして絶望した。


 少女は現れた黒い霧の女をじっと見上げて、その顔をまじまじと見つめた。少女の顔が、わずかに悲し気に歪んで見えた。


「私を、たすけてくれるの?」


『あぁ、そうだとも。全てをわたしに委ねるが良い。そうすれば、お前はもう苦しむことはない。悲しむこともない。痛いことも、ひもじい思いもしなくなるのだ。安心するが良い。お前がわたしを受け入れさえすれば、お前の父も、母も、男共も、誰も彼もがお前の傀儡となって動くだろう。お前が全てを支配するのだ。これまでその身に溜めこんできた痛みを、悲しみを、恨みを、お前を弄んできた奴らに返してやればいい。その手段が、今、お前の手の中にあるのだ』


「わたしの、手の中に……」


 少女はすっと瞼を開き、そのどす黒い瞳を霧の女に向ける。


『そうだ』


 霧の女はにやりと笑んで、そしてすっと井戸の底へとその身を戻しながら、ゆっくりと、少女の手を取って。


『さぁ行こう、わたしと共に。そして戻るのだ。この醜い世界を終わらせるために』


 その言葉を最後に、少女を井戸の中へと引っ張って――


 ダメだ、ダメだ、ダメだ! 行くな! 行っちゃダメだ! 行ってしまったら、もう戻って来られなくなる! 全てをその霧の女に奪われてしまう! 待て! 待つんだ! 待ってくれ――!


 そんな彼の思いなど届くはずもなく。


 少女の身体は、黒い霧の女に誘われるように、抱きしめられるように、井戸の中へと消えたのだった。

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