第4回
「ほらほら、そんな顔しないでよ」と結奈は笑みを浮かべたまま、響紀の肩を左手でぽんぽんと叩き、「それ、おばあちゃんが言ってたんだよね? あの子を常闇から救い出すって。おばあちゃんはその方法まで言わなかったの?」
響紀はしばらく口をへの字に曲げながら、結奈の顔を睨むように見つめていたが、やがて大きな溜息を一つ吐いてから、「……説得しようとして、失敗した、としか」と小さく答えた。
「それは、困ったねぇ」と結奈は言って、雨空を仰ぎ見る。
しとしとと降りしきる雨音は、しかし雑踏の音にかき消され聞こえてはこなかった。
じめっとした空気が辺りに漂い、衣服が肌に張り付いて何とも気持ちが悪い。気のせいか、髪の毛も湿気を含んでボサボサしているように響紀には感じられた。死んでいるのに、そんなはずないじゃないか。
そうは思うのだけれど、その感覚は信じられないほど確かだった。
「死ぬって、どういうことなんだ?」
思わず口に出たその問いに、結奈は「え?」と返事した。
「あぁ、すまん」と響紀は居住まいを正し、「ふと思ったんだ。俺は今、こうしてここに立っている。感覚として息もしてるし、自分の身体が確かにここにあるんだって感じてる。それにほら、服も着てるだろ? この湿気で肌に服がまとわりついているような感覚もあるし、髪だってボサボサだ。それなのに、俺は死んでいる。俺のこの感覚とその事実が噛み合ってないっていうか、なんというか――」
「それは、たぶん、生きてた頃の感覚を引きずってるんじゃないかな。そもそも幽霊が服を着てるってだけでおかしいでしょ? だって、死んだのはその人であって服じゃない。服は服、人じゃない。じゃぁ、なんで幽霊は服を着ているのか。これはおばあちゃんの受け売りなんだけど、たぶん、それはその死んだ本人がイメージする生前の姿が、そのままその姿に投影されているからなんじゃないかなぁ。本人が自分はこうだって思っている姿がそのまま表れているわけ。逆に言えば、あなたはその姿を変えることだってできるはずよ。だって、肉体がないんだもの」
結奈のその答えに、響紀はそう言えば、と思い出す。
昨夜香澄と話していた時、確か似たようなことを言っていた。あの喪服の女の下僕は、肉体を持たない。それ故に姿を偽れる。だからあいつらは、俺の姿になって母を惑わした――と。
なら、逆にあいつらを惑わすことはできるのだろうか。例えばあいつらと同じ姿に成って、喪服の女に近づいて――近づいて――近づいて――どうする?
香澄みたいに説得するのか? 俺が? あの女を? どうやって?
俺をかどわかして殺したあの女を、言葉巧みに説得するなんて芸当、とてもできそうな気がしない。何か他に方法はないものか。
「そう言えばおばあちゃん、常闇から救い出すって言ってたんだよね?」
「え? あ、あぁ」と響紀は我に返る。「そう言ってたな」
「でも、それって、何か変な気がするんだよね」結奈は首を傾げながら、「だって、人は死んだら常闇の向こう、黄泉の世界にいっちゃうんだって、おばあちゃんは言ってたけど。現世と幽世の狭間にあるのが常闇で、そこは生と死の狭間の世界、だったかな? どんな魂も、やがてはそこへ行きつくって話だったと思うけど、それって、死んだらそこへ行くのが当たり前ってことでしょ? そこからあの少女を救い出すって、どういうこと? あ、もしかしてあの娘、死んでなんていないってこと? 現世と幽世を行き来する特殊な力があるとか?」
「いや、それは――どうなんだろうな。香澄さんは化生と化したって言ってたけど。化生ってなんだ? 妖怪や物怪と、どう違うんだ?」
「化生は書いて字の如く、化けて生るってこと。たぶん、彼女の場合は人だったものが、人ではなくなったってことね。だからおばあちゃん、あれは蜘蛛だって言ってたのかなぁ。私はてっきり例えだと思ってたけど。もしかして、言葉通りに蜘蛛の化生になったってことだったのかな」
「あぁ、あとそれとな」と響紀は思い出したとばかりに口を開いた。「俺にはよく解らなかったんだけど、こうも言ってたな。私たちは死んでもこちら側の存在だった、人は死んでも人だった。現世も幽世も別物ではなくて同じもの……神や物怪はまた別の世界、人が認識できない、常闇の向こう側とかなんとか――」
「何それ、ちょっと曖昧過ぎない? ちゃんと聞いてなかったの?」
眉間に皺を寄せる結奈に、響紀は「そんなこと言われても」と口を尖らせる。
「俺にそんな話をされたって解るわけがないだろう? 俺は一般人なんだよ、ただの凡人か、それ以下の馬鹿野郎なんだ。そんな話をされたって、解るわけがないだろうが」
ふんっと鼻を鳴らして抗議する響紀に、結奈は「まぁ、そうかもね」と曖昧に笑みを浮かべた。それから急に真面目腐った顔になり、
「でも、その話から想像するに、おばあちゃんもあっちのことは解っていなかったって事ね。たぶん、現世も幽世も、同じ人の世界のものだったって言いたかったんじゃないかな。人は死んでもなお人の世界に留まる、みたいな感じ。そして常闇の向こう側にあるのは、いわゆる死者たちの集う黄泉比良坂なんかじゃなくて、もっと別の、神や妖怪、物怪の世界……そういうことなんじゃない?」
言って響紀に顔を向けてきたが、そんなふうに問われたって、そんなこと、解るはずもない。
「俺に聞くなよ」と響紀は眉間に皺を寄せ、「俺が知るわけないだろうが」
「……まぁ、そうよね。ごめん」
「詳しく聞きたきゃ、いつか香澄さんにでも直接聞くんだな」
「そうだね」それからふっと寂しそうな表情で俯き、「いつ会えるか、解らないけどね」
それを見て、響紀は一瞬口を噤んだ。
そう言えば、タマとかいう女も言っていたじゃないか。香澄の自由奔放さには手を焼いていると。置いて行かれたことに、「またか」と言って憤っていたじゃないか。たぶん、香澄さんはそういう人だ。それはきっと、家族に対しても同じだったに違いない。事実、結奈自身も昨日、言っていたじゃないか。
『生きている時もあっちこっち行っていたけど、死んだ今は、それ以上に動き回っていて、何処にいるのか判らない』
仮にも自分の祖母だ。家族だ。会えないことの寂しさというものを想像したとき、その姿が母と重なり居たたまれなかった。
母はもう俺には会えない。見えない。触れられない。昨夜のあの母の悲しむ姿と結奈の姿が交わり、胸の奥が痛くて仕方がなかった。
痛いはずなんて、ないというのに……
「その、なんだ」と響紀はそっと結奈の頭に手をやりながら口を開いた。「もし、また今度香澄さんに会ったら、言っておくよ。結奈が会いたがってるってさ」
え、と顔を上げた結奈は響紀の顔をしげしげと見つめ、
「――ありがとう」
言って小さく、微笑んだ。
そんな結奈の姿に、響紀はさらに胸が締め付けられた。今しがた自分が口にした言葉の無責任さに辟易しながら、けれど本当に会えた時には、必ず引き摺ってでも結奈の所まで連れてこようと思ったのだった。
結奈は小さくため息を吐くと、「さて」と両腕を高く伸ばして胸を逸らし、大きく伸びを一つしてから、
「じゃぁ、行こっか」
「行くって、どこに」
響紀が首を傾げると、結奈は口元に笑みを浮かべたままで、
「何をしたらいいのか解らないけど、こんなところでいつまでも悩み続けてたって仕方がないでしょ? とにかく動かないと、何かを始めないと。そうじゃないと、いつまでたっても先には進めないでしょ?」
「それは、お前、そうだけど」
けれど、響紀にはそれ以上何も言えなかった。
実際、響紀にはこれから何をどうしたらいいのか解らないのだ。どうすれば家族を助けられるのか、どうすればあの喪服の女を止められるのか。何一つわからないのだ。それをここでうだうだ悩み続けていたって、確かに仕方のないことだった。
ならば、少しでも歩き出そう。動き出そう。それが俺にできる、唯一の事なんだ。
響紀は一つ頷くと、じっと結奈の方に視線を向けて、力強く、
「行こう」
結奈はそんな響紀の肩を、満足そうに、ぽんと叩いた。
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