第8回

 あっという間にその身を沈めた陽の後に訪れた、夜の闇。

 けれど実際には、街灯やビルから漏れる灯りのために、辺りは思ったよりも明るく、暗闇はその隅へと追いやられていた。時折その蠢きや騒めきが感じられたが、しかし響紀を襲ってくるような気配はまるでなかった。或いは何かを怖れ慄いているようでさえある。


 響紀の前を歩く女は、心なしその周囲がぼんやりと光り輝いているように見えた。その白い衣服が周囲の灯りを反射しているからなのだろうが、響紀の目には自ら光を発しているようにも見えた。まさかな、と思いながら、響紀は女の背中を見つめる。


 歩く度に左右に揺れる金色の長い髪。灯りを反射しながら揺らめくイヤリング。大きく開かれた肩口から覗く頸から背中のラインはあまりにも艶めかしく、憐れな男共を誘っているかのようだった。


 思わずその後ろ姿に見惚れていると、不意に女はその歩みを止め、響紀に振り向いた。


 にやりと妖艶な微笑みを浮かべながら、

「懸想でもしたか?」

 からかうように、響紀に声を掛けた。


「け、けそう……?」

 言葉の意味が解らず、思わず首を傾げる響紀に、女は嘲るようにふんっと鼻を鳴らすと、

「まぁ、良い。しかし、何故お前のような男が奴らに絡め取られなかったか不思議でならん。水が合わなかったであろうとは言え、そこらの男なら容易く絡め取られて喰われていただろうに、運の良い男よ」

 そう言って、再び前を向いて歩き始めた。


 響紀は褒められたのやら貶されたのやら、どっちなんだ、と首を傾げつつ女の後を追う。


 先程響紀が座っていたベンチから左に回り込んでしばらく歩いた先、病院正面に辿り着いた時、女はくるりと病院の方に体を向けた。そのままカッカッとヒールの音を病院の壁に響かせながら、正面玄関を抜けて中に入る。


 えっ、と思いながらそれに続く響紀。途端に背中に怖気が駆け抜けていった。


 目の前を歩く女は、なんて言った? どこへ向かっているんだった?


 まさか、と響紀は総毛立つのを感じる。気が気ではなくなり、足早に女の後ろをついて歩いた。エレベーターに乗り込み、上の階へ上がる。無いはずの心臓が早鐘を打ち、冷や汗が噴き出す。息が荒くなり、強く握りしめた拳がわなわなと震えていた。


 やがてエレベーターが止まり、ドアが開いた。再び歩き出す女の後ろを、響紀も逸る気を抑えながら進む。


 やがて立ち止まった病室の前で、女は立ち止まり、

「はいれ」

 短く、言った。


 響紀はごくりと唾を飲み込み、恐る恐る病室の中に入る。病室の中は全部で六床。うち手前の左右二床はカーテンが開かれ、どちらにも見知らぬ老女が寝ており二人とも呆然とテレビを見ていた。真ん中の二床は誰も居らず、窓際二床はどちらもカーテンで遮られている。


 その丁度真ん中に、一人の老女が響紀に体を向け、静かに佇んでいた。それが誰であるのか、響紀にはすぐに解った。顔の作りが宮野首によく似ている。唯一彼女と違うのは、その柔和な笑みぐらいだろうか。若草色の和服には白い花が散らされ、いかにも日本人女性といった出で立ちだ。


 その宮野首の祖母は、左側奥の病床を手で指し示すと、静かに一歩、後ろに引き下がった。


 響紀はこくりとひとつ頷くと、恐る恐るカーテンを回り込むように中を覗き込み、息を飲む。


 果たしてそこに横たわっていたのは、響紀の母、文子の姿だった。


 顔には無数の小さな傷跡、その足には包帯が巻かれ、どうやらギプスをしているらしいことはその太さから明白だった。仰向けで天井を見つめる母の顔は、どこか憔悴しきった様子で、今にも散ってしまいそうな憐れな花を連想させるほど、儚げに見えた。これほど弱々しい姿の母を、響紀は今まで一度も眼にしたことがない。いったい、母の身に何が起こったというのだろう。


 響紀はしばらく呆然と母の姿を見つめていたが、

「……あの子にやられたの」

 やおら背後から声を掛けられ、ゆっくりと振り向いた。


 そこには眉を顰め、労わるような視線を母に向ける、宮野首の祖母の姿があって。


「あの子?」


 響紀の問いに、宮野首の祖母は小さく頷く。


「まさか、こんなに早く動き出すとは思わなかった。たぶん、それだけ焦っているということね。急がなければ、朽ちてしまうから。それを怖れているのよ」


 その言葉の意味が、響紀にはよく判らなかった。何の話をしているのか、まるで理解が追いつかない。恐らくあの喪服の女のことを言っているのだろうが、抽象的で何が言いたいのか解らなかった。いったい、この老婆は何を知っていて、何を語ろうとしているのか。


「もっと解るように説明してくれ」と響紀は眉間に皺を寄せながら、「あんたはあの女のことを、どこまで知ってるんだ? あいつは何者で、何が目的なんだ? どうして奈央を狙う? なんで母さんがこんな目に合わなきゃならなかった?」


 捲し立てるように口にした響紀に、宮野首の祖母はしばらく黙って響紀の顔を見つめていたが、やがてほぅっと小さく息を吐くと、「一旦、外に出ましょうか」と優しく微笑んだ。


「もう少し、落ち着ける場所に移りましょう」


 響紀はその言葉に僅かに逡巡したが、やがて小さく頷くと、けれど後ろ髪を引かれるように、後ろの母を振り向いた。


 果たしてこのままこの場を去ってしまって大丈夫なのか。ここを離れている間に、また何か悪いことが起こるんじゃないか、母の身に危険が迫るんじゃないか、そんな不安が響紀を襲った。


「大丈夫よ、お母さんのことなら」と宮野首の祖母は、響紀の心配を見透かしたかのように、「アレらはここには近づけない。この辺りは、清めておいたから」


 そう言ってにっこりと微笑み、ゆっくりとした足取りで歩き始めた。


 響紀はちらりともう一度母の様子を伺い、けれどその言葉を信じようと、宮野首の祖母の後ろを足早に追った。今はこの老婆のことを信用するより他にない。


 二人が病室から出ると、すぐ左の壁に背を預けるようにして立つ、先程の金髪の女の姿があった。組んでいた腕を解くと、女はちらりと響紀の顔に目をやり、睨みつけるような一瞥をくれると、すぐに宮野首の祖母の方に向き直った。


「タマちゃん、悪いけど、しばらくここを見ていてくれる?」


 老婆のその言葉に、女――どうやらタマという名前らしい。まるで猫みたいな名前だな、と響紀は内心苦笑した――は納得いかないという表情で口を開いた。


「何故だ? 私がここにいる必要などあるか? ちゃんと祓い清めたはずだろう?」


「そうなのだけれど」と老婆はタマの胸元にそっと手をやり、「この子を安心させてあげたいの。心配でしょう? お母さんがこんなことになってすぐなんだもの。何かあったらって思ったら、ね?」


 しかし、とタマは気に食わないといった様子で響紀を睨め付けながら、けれど大きなため息を一つ吐き、「わかった」と小さく答え、すっと病室の中へと姿を消した。


「ほら、これで安心でしょう?」と老婆は微笑みながら響紀に振り向き、「さぁ、行きましょう」


 そう言って、スタスタと歩き始めた。


 響紀はタマの消えた病室を一度振り向くと、大丈夫だ、と自分に言い聞かせるように、すぐに宮野首の祖母を追って歩き出したのだった。

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