第6回

 階段を降りながら、ふと奈央は思い出し、「そう言えば」と大樹に尋ねた。


「さっきの電話、誰だったの? ずいぶん慌ててたよね?」


「え? あー……」と大樹は僅かに戸惑うような素振りを見せ、「……母さんだよ」と苦笑いした。


「昨日、村田の家に泊まるからって嘘ついてたんだ。流石に女の子の家に泊まるなんて言えないでしょ?けど、バレちゃってさ。ほら、スマホにGPS機能があるでしょ?あれ、親に登録されてるのを忘れてて。電源切っとけば良かったんだけど、そのままにしてたから、居場所がバレてたみたいでさ、あんた今どこに居るのよっ!て叱られちゃったよ」


「それで、どう答えたの?」


 奈央の問いに、大樹は少しばかり恥ずかしそうに、


「……正直に答えたよ。お付き合いしてる女の子が居て、その子のうちに泊まったって。母さんは絶句してたね。今まで女っ気なんて皆無だったから。ああ、もちろん、その……お風呂に入った事までは言わなかったよ、流石にね。で、いつから付き合ってたのって聞かれたから、一年くらい前って答えちゃった。まさか、まだ一日目です、なんて言えないもの。ほら、委員会からの付き合いだし、良いかなって。だから、ごめん。もしうちの親と会う事があったら、口裏を合わせて貰えない?」


 お願い! と手を合わせて拝んでくる大樹に、奈央は思わず吹き出すように笑っていた。


 謀らずも奈央が小母に答えたのと同じような嘘を親に吐くだなんて。それが何だかとても可笑しくて、奈央は腹を抱えて声を大にして笑った。なんだか久しぶりに笑ったような気がする。


 それを見て、大樹は「なに? なに?」とただ戸惑いの表情を浮かべるばかりだった。


 ひとしきり笑った後、奈央は目尻を拭き、「それより、これからどうする?」と大樹に訊ねた。できればこのまま一緒に居てほしい、私の不安を遠ざけてほしい、そう思いながら。


「どうするって……」と大樹は首を傾げ、「家に帰ってテスト勉強の続きしないと。また補習になるのも嫌だし。大丈夫、うちの母さんにはもう説明してあるから」


「そう、だね――」


 言いながら、しかし奈央はどうしてもそれを受け入れることができなかった。


 このまま家に帰ったとして、それでどうする? またあの化け物が襲ってきたら? 母親が私を連れて行こうと再び姿を現したら? それに、喪服の少女も―― 


 宮野首の祖母は言っていた。狙いは、私だと。そしてどこに逃げても、あの化け物たちは地の果てまで追いかけて、私をあの子の下へ連れて行くだろうと。逃げ道はない、立ち向かえ。そんな絶望的なことを言われて、素直に帰れるわけがなかった。だからと言って何処へ行けばよいのか? どうすればよいのか? 自分にいったい何ができるというのか? けれど逃げ道なんてどこにもなくて……そんな堂々巡りが奈央の中を駆けていった。


「どうしたの? 奈央」


 顔を覗き込んでくる大樹に奈央は立ち止まり、「……家に帰るのが、怖いの」と両腕でその不安を胸にかき抱くようにしながら、震える声で口にした。


「また、あんな化け物が出てきたらって思うと、不安で仕方がないの。宮野首さんのお婆さんが言ってた。あの喪服の少女の狙いは、私だって。私の身体なんだって。どういう意味なのか私にはよく解らなかったけど、でも、それがどういうことかはすぐにわかった。ずっとそんな気はしてたから。あの日――響紀が出て行った翌朝から、何かがおかしいって思ってた。家の前の門が濡れてて、生臭い匂いがして、きっとあの時から私はもう狙われてたのよ。これを見て」


 奈央はすっと右袖を捲り、その腕を露わにした。そこには先日の手形がまだうっすらと、けれどはっきりとした輪郭をもってその形を残していた。


 それを目にした途端、大樹の眉間に皺が寄る。


「これは……」


「昨日一緒にお風呂に入ったとき、気づかなかったでしょ? 大樹くん、私の方をほとんど向いてくれなかったから、仕方がないけど。でも、これだけじゃないわ。その翌日、風邪を引いて学校を休んだ日の夜、私は一人で小母さんが帰ってくるのを待ってた。そこに現れたのよ、目に見えない、あの化け物が。アレは私の胸を後ろから弄って――きっと私を犯そうとしていたんだと思う。やめてって叫んだらどこかに消えたけど、もしあのまま何もしてなかったら、もしかしたら私、今頃は――」


 そこまで言って、奈央は口を噤んだ。深い溜息を吐き、大樹に視線を向ける。大樹は青ざめたような表情でじっと床の上を見つめており、固く拳を握り締めていた。そんな大樹を見つめながら、奈央は続けた。


「その夜は何とか何事もなく明かしたけど、私は怖くて一睡もできなかった。その所為で翌日の授業中、私はウトウトしてて……そこに、またアレはやってきた。生臭匂いを漂わせながら私の身体を弄って、悦しんで」


 そこでふと、奈央は顔を上げた。あれは、確か――


「――犬の鳴き声」


「えっ?」と大樹は困惑したような表情で奈央の顔を見返してくる。


「犬の鳴き声がしたの、あの時。そしたら、アレの気配がすっと消えて…… そうよ、あれ、もしかしたらさっき見たお婆さんの隣に居た、犬だったんじゃ――」


 でも、どうして?


「昔から犬の鳴き声には魔よけの力があるって言われてるから、たぶんそれでじゃないかな」


 大樹の言葉に、奈央は「そうなの?」と思わず目を丸くした。そんな話、初めて聞いた。やはり大樹は変なことをよく知っているな、と感心する。


「うん」と大樹は頷き、「確か”犬”と、去るって意味の“去ぬ”を掛けた意味だったと思うんだけど……どうだったかな? けど、宮野首の婆ちゃんと一緒に居るのは犬というよりは――まぁ、いいか、そんなことは」


 言って大樹は奈央の右手に優しく手を添えてきた。柔らかい、優しいその感触に、奈央の心は一瞬にして安らぎに包まれる。これが好意からくるものなのか、それとも不安から安寧を求めて、誰かが傍にいることに安堵しているだけなのかは判らなかったが、今の奈央にはそれだけで十分だった。


「奈央が家に帰りたくないって言うんなら、僕はそれでも構わない。いっそこのまま二人でどこか遊びに行こうか。それで奈央の気が少しでも紛れるんなら、僕はどこにでも連れて行ってあげるし、ずっと奈央と一緒に居てあげるよ。そうだ、どうせなら人が多い所の方が安心できるんじゃないかな。ここからなら、府中のショッピングモールが一番近いよね。確か、駅からバス一本だったはず」


「え、あぁ、うん……」


 奈央はそんな曖昧な返事しか出来なかった。それで根本的な解決になるとは思えなかったけれど、今はとにかく、考えることからすら逃げ出したかったのだ。


 奈央は大樹の手を握り締め、大樹もそれに応え、そして頷いた。


「よし、決まり!」


 そんな大樹の満面の笑みにつられるように、奈央もぎこちない微笑みを浮かべるのだった。

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