第2回

 女は――母はその紅い唇をニヤリと歪ませ、奈央の嫌悪する顔を見て嘲るように口を開いた。


「あらあら、そんな顔するもんじゃないわ。折角の美人さんが台無しじゃない」


 奈央はその言葉に母から視線を逸らし、なるべく目を合わせないように外方を向いた。自分によく似たその顔を見る事にすら反吐が出そうになる。


 そんな奈央に構うことなく、母は問いかけるように言った。


「……アタシは母親だもの、会いに来るのは当たり前。そうでしょ?」


 けれど奈央は母が心底そう思っている訳では無いことを理解していた。この女に、そんな真摯な感情などある筈がない。ただ私を"値踏み"しに来ているだけなのだ。


 ふと公園の外に目を向ければ真っ黒な車が一台停まっており、開けられた運転席の窓からこちらの様子を伺う男の姿があった。父と同い年くらいだろうか。ふわりとした豊かな黒髪にサングラスをかけ、不敵な笑みを浮かべた顎には白黒の髭が散っている。いったい、この男と母はどういう関係なのだろう。


「……あのおっさんは元気?」


 突然問われ、誰のことだろう、と奈央は考える。


 返答を待たずして、母は高らかに笑い、言った。


「知るワケないか。だって今は離れて暮らしてんだもんね? 何かあった? もしかして、寝込みを襲われちゃったとか?」


 ケラケラ笑う母に、奈央は父の話をされていることにようやく気が付いた。それと同時に、父を愚弄された事に対し、眉間に皺を寄せる。


「……お父さんを馬鹿にしないで。お父さんはそんなこと、絶対にしないわ」


「どうだか」と母は小馬鹿にしたように鼻で笑った。「あんただって、もうその歳だから解ってるでしょう? 男が若い女に対して抱く感情なんて決まってるじゃない。だってほら」


 言って母は唐突に腕を伸ばして来たかと思うと、奈央の胸をぎゅっと鷲掴みにしてきた。奈央は驚きのあまり小さく叫び声を上げ、その腕を振り払う。乱れた衣服を整えながら、母の悪意に満ちた笑みを睨みつけた。


「……これだけ育っちゃったんだもの、例え父親だろうが……ねぇ? アンタを犯したいとは思わない、なんて、絶対に言える?」


「お父さんは絶対にそんなこと思わないわ! あなたと一緒にしないで!」


 奈央のその叫びに対し、母は「はんっ」と言って肩を揺らした。憤る奈央を嘲り、せせら嗤い、楽しそうに弄ぶ。


「解ってないねぇ、奈央。アンタの父親がどんな奴か知らないでしょう?」と母は奈央に問いかけ、ニヤリと嗤う。「アタシがアンタを産んだ時、アタシは丁度アンタと同じくらいの歳だった。優しい事くらいしか取り柄のなかったあのおっさんにちょっと良い顔したら、すぐにその気になっちゃってね。そのまま押し倒されて無理矢理アンタを孕まされちゃったのよ、アタシ。そういう奴なのよ、アイツはさ」


「……それなら」と奈央は拳を握り締め、キッと母を睨みつけた。「何で私を産んだの? お父さんと結婚したの?」


 そんな奈央を見て、母はくつくつ嗤った。


 何がおかしいの? 何を嗤っているの?


 奈央は腹立たしくて、眼に涙を浮かべる。


 これが母親だなんて、思いたくなかった。認めたくもなかった。


 けれど、その顔を見る度に、鏡の前に立つ度に思うのだ。


 間違いなく、私はこの女から産まれたのだ、と。


「……気の迷いよ、そんなもの」


 冷めきった表情で言い放った母の顔からは、何の感情も感じられなかった。まるで心臓をぎゅっと押し潰されたかのように、胸に痛みが走る。


 そんな奈央を見ながら、母は微笑んだ。


「けど、アンタを産んだのは正解だったわ。だって、こんなに美人に育ったんだもの。アンタなら、稼ごうと思えば幾らでも稼げる。どう? いっそアタシと一緒に来ない? 学校なんて下らないもの辞めちゃってさ、アタシと楽しく暮らしましょうよ」


 そう言って右手を差し出してくる母を、奈央は絶対に許すことはできないと思った。


 心の底から怒りがこみ上げ、奈央は大きく叫ぶように、「誰がアンタとなんか!」とぶらんこから立ち上がり、母と対峙する。


「アンタに私の何が解るの? 私を置いて出ていくような女に、何でついて行かなきゃならないの? 私やお父さんの気持ち、ちゃんと考えたことある? 今までどんなに大変だったか、どんな気持ちで生きてきたか!」


 その言葉に、けれど母は悪びれもせず口にした。


「……知らないわよ、アンタ達の気持ちなんて。アタシはね、アタシが楽しければそれで良いの。気持ちよければそれで良いの。アンタだってその気持ち、解るでしょ?」


「解らない! 解りたくもない!」


 激しく首を振る奈央に、しかし母は楽しげに「解るわよ」と言ってニヤリと笑んだ。


「――だって、アンタはアタシの娘なんだから」


 それは奈央が最も認めたくない事実だった。


 奈央はたじろぎ、一歩後退った。意地の悪い笑みを浮かべる母の顔が自分の顔と重なり、まるでそこにもう一人の自分が立っているかのような錯覚に襲われる。


「……まぁ良いわ」と二の句の継げなくなった奈央に母はにっこりと微笑んだ。「今日はこのくらいにして、アタシは帰るわね。また近いうちに改めて迎えに来るから、その時までによく考えておいてね」


 そう言って奈央に背を向け、母は歩き出した。奈央は何も言えず、ただその背を見つめることしかできない。


 やがて数歩先へ歩いた母だったが、「あ、そうそう」と何かを思い出したように口にすると踵を返し、つかつかと奈央のところまで歩み寄ってきた。


 奈央は僅かに身構えたが、母はそれに構うことなく突然奈央の右腕を引っ掴んだ。「あっ」と奈央が声を上げた時にはすでにその袖は捲り上げられ、右腕が露わになっていた。


 そこに残る手形の痕を晒しながら、母は眉間に皺を寄せる。


「……これ、誰にされたの?」


 奈央は咄嗟に母の手を振り解くと、すぐに袖を戻して目を逸らす。


 母は一つ溜息を吐くと、再び踵を返しながら、

「あまり乱暴な男とは付き合わないことね。じゃないと、折角の綺麗な商品が台無しになっちゃうでしょ?」

 じゃぁね、と言って去って行く母親を、奈央はその姿が見えなくなるまで、じっと睨み続けることしかできなかった。

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