第1部 第2章 虚ろな家
第1回
1
翌日の朝。奈央は身体の怠さと寒気に見舞われ思うように身体が動かせなかった。どうやら昨日の雨に濡れたせいで風邪をひいてしまったらしい。小母にも顔色が悪いと言われ、熱を測ると僅かに高かった。
「これくらいなら大丈夫だから」
言って登校の準備を始めた奈央だったが、しかし心配した小母がそれを許さなかった。
「とにかく、大人しく寝てなさい」
小母は強く奈央に言うと、学校に休みの連絡を入れてくれた。小母自身も奈央の看病の為に仕事を休むと言い出したが、そこまでしてもらう訳にはいかない、私も小さい子供じゃないんだから、と何とか説得した。
「……それじゃあ、私は仕事に行くけど、ちゃんと病院に行きなさいね。あと、何かあったら絶対に電話して。いい?」
小母にそう念押しされ、奈央は「うん、わかった、大丈夫」と頷く。
パタン、と玄関扉が閉じられ、家の中には奈央ただ一人、留守番することとなった。
小父は夜遅くに帰宅し、朝早くに出勤したらしい。全ては奈央が眠っている間のことだった。毎日忙しそうな小父とはここ数日顔を合わせていない。小父は響紀が飛び出していったことを、どう思っているのだろうか?
そう言えば、結局昨夜も響紀は帰っては来なかった。姿を消してから二日目。こちらから連絡を取ろうにもスマホを置いて出ていってしまった為、あちらからの連絡を待つしかなかった。
一昨日の夜に窓の外で見かけた人影が響紀であるなら、今頃はどこで何をしているのだろうか? あの時、もし外まで出迎えに行っていれば、今頃は帰って来ていたのだろうか?
それにしても、と奈央は深いため息を吐きながら自身の右腕に目を向けた。そこにはまだあの手形がはっきりと残されており、昨夜の出来事が夢や幻ではなく、現実だったのだと思い知らされた。
この痕の事を、小母は何も訊いてはこなかった。悲しそうに目を向けてはきたが、それだけだった。小母はいったい何を思い、どう考えたのだろう。
右腕を見る度にあの時の恐怖が蘇ったが、けれど日が高くなるに連れて不思議とその感情は薄れていった。それでもなるべく痕が目につかないよう、奈央は半袖シャツの上から薄い長袖パーカーを羽織る。
昼前に近くの病院へ行き、風邪と診断され薬を貰ったその帰り道。奈央はぼんやりとしながら小学校前の歩道を歩いていた。校庭では沢山の小学生達が思い思いに遊びまわっている。思えば自分はこのくらいの頃からすでに図書室に入り浸るような生徒だった。
年に一度は必ず父の転勤があり、その度に転校を繰り返していった結果、奈央は友達作りという無駄な行為に励む事が馬鹿馬鹿しく思え、結局一人でいる事を選び続けてきた。本が友達、と言ってしまうと余りにも自虐的だな、と奈央は嘲るように自身を嗤った。高校に入学した当初はどうにかして友達を作らないと、思ったこともあったが、それも一時的なものだった。結局、友達と呼べるのは木村ただ一人。それも朝、駐輪場で一緒になるか図書委員で一緒になるか、その程度の関係でしかない。これを本当に友達と呼べるのか、奈央には判らなかった。
それからしばらく歩き続け、家の近くの公園に差し掛かったところで奈央はその公園に足を踏み入れた。誰も居ない公園の中を一瞥し、徐にぶらんこに腰掛ける。
こうして公園に来た事も数える程しかない。幼い頃に父と何度か遊びには来たけれど、友達の居ない自分にはまるで必要性を感じない場所だった。放課後は図書室か、そうでなければ一人で家で宿題をしたり、家事をしているか。小父小母の家に居候するようになって余り家事はしなくなったけれど、それ以外は今も全く変わりなかった。
空を見上げればここ数週間続く曇り空。それでも今日はまだ雲が薄い方で、時折雲間から陽の光が差すこともあった。天気予報によれば、明日からまた雨が降るらしい。先日までは「そろそろ梅雨が明けそうだ」と言っていたのに、今日は「もう少し続きそうだ」との事で、本当に天気予報ってのは当てにならないなと奈央は思った。
「……なに? サボり?」
突然横から話し掛けられ、奈央は驚いて飛び上がった。誰、と目を見張りながら顔を向ければ、そこには派手な化粧の女が立っていた。
高価そうなブランド物と思しき衣服に身を包み、煌びやかなネックレスやピアスが揺れている。奈央と同じくらいに長い髪はしかし、金一色に染められていて。
そんな女を見て、奈央はこれ見よがしに顔を顰めた。なるべくなら会いたくない相手。どこへ引っ越しても必ず会いに来る、心の底から大嫌いな女。
「……何で、ここに居るの?」
奈央は敵意を剥き出しにしながら女を睨みつけ、低い声で吐き捨てるように言った。
「……お母さん」
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