第5回

 翌日、響紀は夜のうちに洗って干した半乾きのハンカチを胸ポケットに突っ込み、いつものように出社した。朝礼を済ませ、各々自身の担当する営業先へ赴いたり、作業服への刺繍やプリントを行う作業場へ納品物を受け取りに向かったりする中、響紀は自身のデスクに向かい、ぼんやりと昨日出会った女性の事や奈央との会話を反芻していた。どうしてここまであんな些細な事で思いを巡らしているのか、それは響紀にも解らない。けれど、その事が気になってどうにも仕事に身が入らなかった。


 デスク上のパソコンに連なる取引先の納品物一覧を眺めながら、それでも何とか今日一日の仕事内容を確認する。昨日営業へ行った工務店へ空調服の追加納品、先日退社した奴が担当していた地域への挨拶回り、それと……


 響紀は一通りの確認を済ませると、メーカーから届いた品の中から工務店に注文された空調服を抜き取り、それらを改めて箱に詰め直して社用車へと積み込んだ。運転席に乗り込み、ふと助手席に目を向けて……一瞬、どきりとした。


 昨日女性が腰を下ろしていた正にその場所に、一本の長い髪の毛が落ちていたのである。それはまるで、つい今しがた抜け落ちたかのように艶やかで。


 響紀はそっとその髪を掴み上げ、けれどどうしたものか逡巡した。このまま足元にでも捨ててしまえばいい。それだけの事だ。けれど響紀にはどうしてもそれが出来なかった。何故かは解らない。まるで魅せられたように、その美しい一本の髪の毛から眼を逸らすことができなかったのだ。


 この髪は確かに昨日、女性がここに腰を下ろしていたという動かぬ証拠だ。それが響紀に何とも言い難い安心感を与えた。奈央が言っていたような子供ではなく、確かな大人の女性がここに腰を下ろしていたのだ。その女性は間違いなく、あの廃墟のような家に住んでいて、また俺に会うのを楽しみにしている。思い上がりかもしれないけれど、そんな気がしてならなかった。


 響紀はその髪を捨てるかどうするか考えあぐね、結果そのまま元の場所にそっと戻した。なるに任せよう。ドアを開けた時に風で飛んでいくならそれで構わないし、そうでなくともいずれは朽ちていくだろう。捨てるに捨てられないなら、放っておけばいい。そう考えた。


 もう一度シートベルトを確認し、キーを回してエンジンをかける。ゆっくりと動き出した社用車に揺られながら、響紀は目的地の工務店へと向かった。


 道中左側に見える田畑にはどうやら何も植えられてはいないらしく、延々とだだっ広い荒れ地が広がっている。聞くところによると、この辺りには新たに高速道路が作られる計画になっているらしく、すでに田畑は持ち主の手を離れているという。かつては米や野菜などの農作物を大量に育てていたのだろうが、最早その面影は外観だけを残し、今はただの空き地と化していた。


 そのまま道を南下し、やがてひしめき合う住宅街に入っていく。昔からあるスーパーや最近できた中型ショッピングモールなどの横を通り過ぎ、踏切を抜ける。その踏切はすぐ目の前が信号機の無い交差点になっており、地元では最も危険な交差点として有名だった。遠慮していては先に進めず、かと言って不用意に突っ込めば他車といつ衝突するか判らない。今だ、とタイミングを見極め、一気に通り抜けるのが正解だ。響紀はこれまでに何度かこの交差点で事故を目撃しているが、不思議と死亡事故はない。危険である事が明白だからこそ、誰もがスピードを出さないのだ。


 響紀はそんな交差点を抜け、峠道の方へ向かった。この峠を越えた先の左側に、例の喪服の女性の住まう廃墟のような家が建っている。


 その女性の家の前を通過していると、ふと見知った軽トラが家の前に停まっていることに気がついた。のみならず、家の周りを覆っている木の幹や葉を剪定している白髪の老人の姿が目に入った。あの緑の作業服は間違いない、先日響紀が取引先の須山庭園に納めたものだ。とするとあの老人は従業員の谷さんあたりだろうか。


 女性の家の前を通り過ぎながら、響紀は再度バックミラーにちらりと眼をやった。


 間違いない、あのしかめっ面は谷さんだ。一見して廃墟のようにしか見えないあの家も、ああしてちゃんと庭の木の手入れをしているのか。って事は、もしかしたら谷さんはあの女性について色々知ってるんじゃないか?


 響紀はにやりと笑んだ。これは彼女の事を知る良いチャンスだ。何とか時間を作って須山庭園に営業がてら顔を出して聞き出そう。


 そう思うと、響紀の心は妙にうきうきと舞い上がるのだった。

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