第3回

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 夜の帳に覆い尽くされた空には切れ切れの雲に紛れて僅かながら星々が煌き、大きな星図を描いていた。夏の大三角形として有名なベガとアルタイル、そしてデネブは時折雲にその身を隠しながらそれでも明々とその輝きを確認できた。しかし響紀にはそれがなんと言う星座であるのか全く判らなかった。そもそも星座に興味がないのだから仕方がない。数年前に当時付き合っていた彼女とのデートでプラネタリウムに行ったことがあったが、上映中に盛大ないびきをかいて寝てしまい顰蹙を買ったのは記憶に新しい。それが原因で彼女と別れてしまった事もあって、星空にはある種忌々しい感情しか湧いてはこなかった。


 昔からガサツで無神経だとは言われてきたが、それを直そうと思った事はない。何故ならそれで困った事など一度もないからだ。迷惑を被るのは大抵他人であって、もし自分が困ったならばその時になって初めて直せばいい。その程度にしか彼は考えてはいなかったのである。彼女と別れた事すら後悔しておらず、今にして思えば彼女のいったいどこが良かったのかすら思い出せなかった。或いは最初からその程度の感情しか抱いていなかったのだろう。要は彼女の事を愛してなどいなかったのだ。そもそも響紀には人を好きになるという感情がいまいち理解できなかった。誰かに執着する事の意味も利益も解らない。だからこそ、彼はあの喪服の女性の事を考え続けている自分に驚き を隠せなかった。


 自転車に乗って帰宅途中、ふと見上げた月に彼は彼女の姿をそこに重ねた。雨上がりの闇夜にぼんやりと輝く月が、まるで彼女の優しい微笑みのように感じられてならなかったのだ。夕方の豪雨がまるで嘘だったかのように、散り散りになった雲が点々と空を泳いでいる中、丸い月がふわふわと浮いている。それはあまりにも幻想的で、彼女もまた幻の存在だったのではないかと思えてくる。けれども胸ポケットに入れたままの彼女のハンカチは今も確かにそこにはあって、それだけが彼女が実在する唯一の証拠となっていた。


 あの時、彼女に対して抱いた恐怖心も、恐らくあれだけ魅力的な女性と今まで一度も会ったことのない戸惑いからきたものだったに違いない。だからこそ、俺は今まさにこうして彼女の事を想っているのだ。そう彼は結論付けた。あの廃屋だって友人の消えた当時が空き家だっただけで、今は住人が居てそれが彼女だと考えれば別に不思議でもなんでもない。豪雨の中を走ったあのやたらと長く感じた峠道。あれだって安全の為にかなり遅めのスピードで走っていたから、そう思ってしまったのだ。ならば彼女の何を怖がる必要があるだろう。全く以て馬鹿馬鹿しい。おまけに折角お茶のお誘いを受けたのに断ってしまった事を、彼は心底後悔した。上司には商談が長引いたのだと言い訳すれば良かったのに、まるで逃げるようにして会社に戻るだなんて、本当に情けない。けれど、と響紀は胸ポケットのハンカチに手をやりながら思った。ここに彼女のハンカチがある。これが彼女と再会する為のチケットになる。そう思うだけで、彼の胸は激しく高鳴るのだった。





 帰宅後、響紀はシャワーを浴びて居間に寝転がり、ビールを呑みながら面白くもないテレビをぼんやりと眺めていた。父母は早々に寝室で寝てしまっており、彼以外に人の気配はない。


 響紀の住む家は峠を越えた先の住宅地にある古い二階建ての一軒家で、その二階の一室には居候している親戚の女子高生が居た。思春期真っ最中ということもあって、同じ家に住んで居るにも関わらず、彼女とは一日に一度も顔を合わさないということも珍しくなかった。父母はその子を実の娘のように昔から可愛がっている反面、彼にはあまり頓着していなかった。かと言って仲が悪い訳でもない。互いに元気であるならそれで良いと考えているだけだ。


 その親戚の女子高生の名は奈央といい、響紀の家に居候するようになったのは昨年の春からだった。高校への進学を機に転勤族の父から離れ、この地で暮らす事を彼女自身が望んだのだ。


 最初は独り暮らしを希望していた奈央だったが、父親に猛反対され、結果遠縁である響紀の両親が彼女の面倒をみることをすすんで申し出たのだ。昔から父娘とは付き合いがあって奈央の事を気にかけていたし、娘が欲しかったということもあって、話はあっという間にまとまって現在に至る。そこに響紀の都合は含まれなかった。


 母曰く「どうせ、あんたはそのうち出ていくんでしょ?」とのことだが、今のところ響紀には実家を出る予定がない。出る気はあるが、わざわざ新たに家を借りた り、 家事洗濯を自身でこなすのが面倒臭くてならなかったのだ。実家にいる間は母が掃除も洗濯もしてくれるので、大学の頃の独り暮らしを思えば随分楽ができる。地元での就職が決まったことで卒業後また親元に戻ってきたが、まさかこのまま実家に居座るつもりもない。


 もうしばらくは実家で厄介になり、そのうち時期が来たらまた独り暮らしをすればいい、そう彼は考えていたのだ。


 テレビのチャンネルを次々に変えながら、そろそろ寝ようかと思っていると、不意に二階から誰かが降りてくる足音が聞こえ、すぐ隣の台所に気配を感じた。何気なく振り向いたそこには、Tシャツにショートパンツを履いた奈央の姿があった。長く瑞々しい黒髪は肩甲骨の下辺りまで流れ、電灯に照らされた頭頂はまるで天使の輪のように光を反射している。Tシャツから伸びる腕は細過ぎず太過ぎず、長い指先は整えられた綺麗な爪が印象的だった。剥き出しの太ももから脛にかけてはどこかでぶつけたのか、所々に小さな痣がいくつか見える。それを除けば彼女の四肢や体躯は如何にも健康的だ。無理にダイエットをしようとしている様子もなく、但し歳頃の女の子らしく身嗜みには気を使っているのがその姿から明白だった。やや釣り上がり気味の目尻に気の強そうな眉、小さな鼻の下には形の良い唇が真一文字に結ばれている。あの喪服の女性とはまた異なった美しさがあるのを感じながら、「でも遠縁とは言え身内だしな」と響紀は小さく独り言ちた。


 奈央はどうやらお茶か何かを飲みに降りてきたらしく、食器棚を開けて自分のコップを手にすると、冷蔵庫から麦茶のポットを取り出し、とくとくと注いでいく。響紀はそんな奈央の後ろ姿を見ながら、こいつも随分女らしく育ったものだと感心していた。


 奈央には肉親と呼べる家族が父親しかいない。母親は奈央が産まれてすぐに離婚してどこかへ行ってしまった。連絡先も分からず行方も知れないという話だ。離婚の原因は育児放棄。母親は奈央を産みながら全く彼女を育てようとはせず、父親が仕事に出ている間に産まれたばかりの奈央を部屋に置き去りにして、度々遊びに出て行くような女だった。どうしてそんな女と奈央の父親が結婚したのかまで響紀は良く知らない。所謂できちゃった婚だったように記憶しているが、それも定かではない。何にせよ、親族一同は最初から結婚には反対していたという話だ。離婚後は父娘二人暮らし、しかも転勤族ということもあって各地を転々としながら暮らしていたらしい。父方の祖父母はすでに他界しており他に兄弟もなく、父親は奈央を保育園に預けながら男手一つでこれまで彼女を育ててきたという。


 そんな愛娘が独り暮らしをすると言い出せば、猛反対されても仕方のないことだろう。その所為で二人の仲は一気に冷え込んだ。父親が響紀の両親に相談したことがきっかけとなり、今はこうして父親から離れて暮らしているが、それ以来奈央は父親とは一切連絡していないという。響紀の母は定期的に彼女の父と連絡を取り合っているそうだが、そのことを奈央が知っているのかどうかまでは響紀の与り知らぬところだったし、さして興味もなかった。


 そう言えば、と響紀はふと思った。奈央も高校への登下校で毎日あの峠を行き来しているはずだ。あの廃屋に住んでいるであろう彼女のことを、もしかしたら何か知っているかもしれない。知らなければ知らないでそれで構わないし、ちょっと訊いてみよう。


 響紀は上半身を起こすと胡座をかき、台所で麦茶を仰ぎ飲む奈央に声をかけた。


「なあ、奈央。ちょっと聞きたい事があるんだけど」


「……なに?」


 不機嫌そうに、奈央は首を傾げながら返事した。小さい頃から奈央は誰に対しても概ねこんな態度だ。いちいち気にして憤るのも大人気ない。響紀はそんな奈央にイラつきながらも、けれどなるべく表に出さないように問うた。


「峠の途中に廃墟みたいな家があるの、知ってるか?」

「……知ってるけど」

「そこに、髪の長い色白の女が住んでることは?」

「……それがどうかしたの?」


 あぁ、やはりな、と響紀は納得した。奈央の反応は明らかに女の存在を肯定するものだったからだ。やはりあの家には確実に彼女が住んでいるんだ。俺は何を恐れていたのだろう。いい歳して十年以上前のあんな噂話を意識していた自分が本当に情けない。所詮噂は噂に過ぎず、友人が行方不明になったことと喪服少女、そしてあの喪服の女性は全てが無関係なのだ。


 けれど、次に奈央が口にした言葉は、響紀を驚愕させるには十分過ぎるほどに衝撃的なものだった。


「……確か、幼くして両親を亡くした女の子が一人で住んでるんでしょ? 私もたまに峠ですれ違うから知ってる。いつも喪服着てる女の子。凄いよね、私と同い年なのに」


 それは響紀たちが過去に話していた噂話と、寸分違わぬ内容だった。

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