第34回
夜。あまりの寝苦しさに目を覚ました奈央は、むっくりと起き上がった。寝汗を掻いて気持ちが悪い。じめじめとした暑さに、奈央はさすがにこれ以上耐え切れそうになかった。深い溜息を一つ吐き、エアコンに目を向ける。少しだけ、少しだけつけて寝よう。ごめんなさい、小父さん、小母さん。そう思いながら奈央はエアコンを除湿で動かすと、のどの渇きを癒すために自室をあとにした。
廊下に出て階下に降りると、昨日と同じように響紀が居間で胡坐を組んでテレビを見ていた。奈央は台所からそんな響紀の様子を窺う。
……いや、違う。その顔はテレビになど向いていない。先ほどからずっと座卓の上を見つめている。いったい何をぼうっとしているんだろう。もしかして、居眠りでもしているんじゃないだろうか。
奈央は響紀の方に足を向けると、
「……まだ起きてるの?」
何気なく声をかけた。
一瞬響紀の肩がびくりと跳ね、慌てた様子でこちらに顔を向ける。その双眸が奈央の姿を捉え、
「……何だよ、いいだろ、別に」
眉間に皺を寄せながら、響紀はそう言った。
その顔はどこか疲れ切った様子で、目の焦点も微妙にあっていないように見える。明らかに様子がおかしい。本当に大丈夫なんだろうか。
奈央は居間に入ると響紀の前に立ち、
「――明日も仕事でしょ? 早く寝ないと寝坊するよ」
父親にもそうしたことがあるように、声をかけた。
けれど響紀はそんな奈央に対して気だるげに手を振り、
「いちいち煩い奴だな。お前こそさっさと寝ろよ。今何時だと思ってんだ。お子様は寝んねの時間だろうが」
その一言が気に入らなくて、奈央は思わず眉間に皺を寄せながら、
「……私はもう、子供じゃないわ」
じっと響紀を見つめる。
そんな奈央に、響紀は「いいや、子供だね。クソ餓鬼だ」と吐き捨てるように言って、鼻でせせら笑った。
「どんなに発育が良かろうが、餓鬼は餓鬼だ。早く寝ろ」
その言い方にカチンときた奈央は拳を握りしめた。
……まただ、と奈央は大きく溜息を吐いた。これじゃぁ、いつもと同じだ。また口喧嘩になりかけている。そんなつもりじゃないのに、響紀は素直じゃない。それを言えば自分も同じかもしれないけれど、こちらが心配して声をかけているのだから、少しは――
と、そこで奈央は座卓の上に置かれたハンカチに気が付き、思わず目を見張った。見覚えのあるデザインのハンカチだ。薄紅色の朝顔が一輪刺繍された、白いハンカチ。それは一年前に失くした、父親から貰ったハンカチと同じデザインだった。いや、事実同じ商品なのだろう。どうして響紀がこれを持っているのだろうか。
「……何だよ、言いたいことあんなら早く言え」
響紀に声を掛けられ、奈央ははっと我に返った。そのハンカチを指差しながら、
「そのハンカチ……」
と恐る恐る口にする。
「ハンカチ? これが何だよ」
「……私が持ってたハンカチと同じやつだったから、ちょっと気になっただけ」
「はぁ?」と響紀は鼻で笑った。「そりゃぁ残念だったな。これはな、例の喪服の女性から直接手渡されたハンカチだ。お前のなんかじゃない」
「……あの子に会ったの?」
奈央は驚き、目を見張った。響紀の顔をまじまじと見つめながら、もしかしてあの喪服の少女が拾っていたのだろうか、とその可能性を考える。響紀は否定しているけれど、その可能性が無いわけではない。彼女もまた例の不審者と同じあの峠道に住んでいるのだ。奈央が落としたハンカチを拾っていたとしても、何も不思議はない。或いは響紀の言う通り、本当に奈央のものではなく、たまたま同じデザインのハンカチを彼女が所有していただけなのかも……
少なくとも、奈央が持っているよりも彼女が持っている方が自然な気がした。果たして実際はどうなんだろう――そう思っていると、
「――しつっこいんだよ、お前は!」
突然、響紀が声を荒らげて叫び、奈央は驚きのあまり一歩あと退った。
目を白黒させる奈央に、響紀は続ける。
「いちいち突っかかってきやがって! そうかと思えば昼間みたいに俺と目が合った癖に無視しやがってよ! 生意気なんだよ、お前は! 餓鬼の癖に大人ぶってんじゃねぇよ! 子供は子供らしく大人の言うこと聞いて大人しくしてりゃいいんだよ!」
息を荒らげる響紀に、奈央は目を丸くした。どうしてこんなことで怒り狂っているのか理解できず、同時に下校時の一件を引き合いに出されて次第にこちらも怒りが込み上げてくるのを感じた。
確かにあの時、私は響紀に声を掛けなかった。そもそも響紀は仕事中だったし、私にはどう話しかければいいかわからなかった。けど、どうしてそんなことで生意気だなんだと言われなきゃならないわけ? 響紀だって私に話しかけてこようとしなかったじゃない。それってお互い様だったってことじゃないの? 違う? 私だって響紀の方から声を掛けてくれたらどんなに話しかけやすかったことか! 今みたいな人を睨みつけるような眼で見られたら、それこそ声を掛けようなんて思えるはずがないでしょ! 私だって声を掛けようとした。でも響紀のあの眼がそれをさせなかった。それなのに、全部私が悪いっていうわけ? そんなに言うなら響紀ももっと優しい目で私を見てよ! そうじゃないと、怖くて声もかけられないじゃない! どうしてそれが解らないわけ?
奈央は喉元まで込み上げてきたその言葉を、けれど寸でのところで引っ込めた。
――駄目だ。そんなことをしたら、本当に喧嘩になる。小母さんや小父さんに迷惑を掛けることになる。それだけは、絶対に嫌だった。
「……そう。悪かったわね」言って奈央は深い溜息を一つ吐くと、長い髪を靡かせながら響紀に背を向けた。「――仕事中みたいだったから敢えて声を掛けなかったんだけど、今度から挨拶くらいするわ。じゃあね、おやすみ」
そう言い残して、奈央は居間を出ると結局お茶を飲むことなく階段を駆け上がり、自室に戻った。バンッと強く自室の扉を閉め、ベッドに飛び込むようにして寝転がる。
腹立たしくて仕方がなかった。込み上げてきた怒りを枕に向けて、何度も何度も拳で殴りつけた。目に涙が浮かんできたが、しかしその涙を流すことは結局なかった。泣いたら負けだ、と何故かそう思った。
しばらく枕を殴り続けて、奈央はようやく心が落ち着いてきた。深い溜息を吐き、枕に顔をうずめる。
いったい、何が悪かったんだろう。どこが悪かったんだろう。どうしてこんなことになってしまったんだろう。どうすればよかったんだろう。
わからない、わからない、わからない。
「ホント、サイアク……」
その言葉が誰に、或いは何に向けられたものなのか、奈央自身にも判らなかった。
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