第33回

   ***


 翌日、奈央はいつものように自転車で登校し、駐輪場で一緒になった木村と僅かばかりの会話をした後、自身の教室に入るとこれもまたいつものように机に突っ伏した。これを一年間も続けていれば立派な生活サイクルの一工程だと言えるのかもしれないが、要は相も変わらずクラスに親しい友人が一人も居ないままであるということでしかなかった。


 しかしそれも当たり前のことだ、と奈央は半分諦めていた。そもそも自分から誰かに話しかけるなんてこともしなければ、クラスメイトに話しかけられてもおざなりな返答をするばかりで、まともに会話をしようとしてこなかったのだから自業自得というものだろう。必要最小限の会話しかしない時点で友達作りなんてする気がないのと同じだ。寂しくないと言えば嘘になるが、それも最早今更な気がしてならなかった。


 そんな奈央を見て人によっては「クールだ」「かっこいい」なんてぼそぼそ会話し合っているのを見かけることもあったけれど、奈央本人からすれば単に人と関わるのが苦手というだけでしかなく、あまり嬉しいようなことではなかった。


 この一年、何の進歩もなかったなぁ、と改めて思っていると、前の席に人が座る気配がして、奈央はちらりと視線をやった。宮野首玲奈――確かそんな名前だったはずだ。彼女には中学の頃からの親しい友人が居て、その名前は矢野桜――彼女もまた奈央と同じクラスだった。


 二人は登校してくるなり何やら他愛もない世間話をし始めた。前の席ということもあって二人の会話はよく耳に入ってくる。それは都市伝説だったり怪談話だったり、近所のどこそこに何とかいう化け物が出たらしいとか、そんな話が多かった。怖い話が好きなんだなぁ、とぼんやり考えながら、奈央は顔を伏せたままいつも二人の話に耳を傾けていた。


 怖い話と言えば昨年のあの不審者の一件だが、奈央はなるべくあの一件は思い出さないようにしていた。小父や小母、響紀もあの一件に関してはこの一年、一切口にしていない。まるで最初から何もなかったように生活している。そのお陰だろうか、あの一件の後こそ何度か夢に見てうなされたこともあったが、今や記憶の片隅といった感じだ。ふとした瞬間に思い出すことはあっても、日常生活には殆ど差し支えなかった。


 そう言えば、あの時――睡眠不足と貧血に倒れた時にお世話になった女の人は、今頃どこで何をしているのだろうか。てっきり保健室の先生だと思っていたが、後日改めてお礼を言いに保健室に向かうと、そこに居たのは中年の小太りの女性だった。あの若い女性について訊ねると、たまたま学校を訪れていた卒業生だったらしいと教えてくれた。もう一度会いたかったけれど、結局奈央はその人の名前も連絡先も聞けなかった。聞く勇気がなかったというべきだろうか、先生から「また来たら教えてあげる」と言われたことに何故か安心してしまい、気付くと一年が経過していたのだ。


 せめて名前くらいは聞いておけばよかった。こういうところでも能動的に動こうとしない自分が本当に嫌になる。結局全てに於いて「そのうち、そのうち」と思っているうちに時は流れてこのざまだ。


 もう少し能動的に動ける人間だったら、或いは今頃この二人のように仲のいい友達ができていたんだろうか、と奈央は小さく溜息を吐いた。





 その日の帰り道、奈央は橙色の光が辺りを美しく照らし出すなか自転車を漕いでいた。梅雨に入ってから久し振りに奇麗な夕日だ。鬱々とした天気が続くと、こういう時清々しい気分になる。


 何となく鼻歌を歌いながら少しばかり遠回りして峠道に向かおうしたところで、


「あれ、この車……」


 コインパーキングの前で見覚えのある社名の書かれたライトバンを見つけて、奈央はふと自転車を止めた。確か、響紀の勤めている会社の名前だ。もしかして響紀だろうか。思いながら道路を挟んだ向かい側の須山庭園と書かれた看板のかかった小さな会社に目を向けてみれば、


「――あっ」


 まさにそこに、響紀が居た。あの鋭い目つきが、奈央をじっと睨むように見つめている。


 どうしよう、目が合った。何か声を掛けるべきだろうか。でも、なんて声を掛ければいい? こういう時、どういう言葉を口にすればいいの?


 しばらく逡巡して、奈央は響紀から視線を逸らすとペダルに力を込めた。何となく気まずくなって、思わず逃げるようにして峠道へ向かう。もしかしたら響紀が追いかけてくるかもと思い、横断歩道を渡ると中学生がよく使う裏道に逸れて峠を駆け上がった。


 こういうところだぞ、私。どうしていつもいつも自分から動けないんだろう、声一つ掛けられないんだろう。


 奈央は深い深い溜息を漏らすと、後々響紀に問われた時どう答えよう、とそんな自分に辟易してしまうのだった。

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