第3回
その影は一見して誰かは判らず、けれど確かにそこには何者かが立っているのは間違いなかった。そのくせ影にはまるで動きがなく、ただ呆然と立ち尽くしているだけのように見える。
最初、奈央はその影の主を小母だと思った。小母が奈央の着替えをわざわざ持って来てくれたのに違いない、と。しかしそれにしては全く声を掛けてくる様子もなく、ただぼんやりとした影をすりガラスに映したまま突っ立っている、その違和感に不安を覚えた。
「小母さん……?」
奈央は恐る恐るその影に声を掛けた。影はその声に呼応するように一瞬ゆらりと揺れたが、けれど返ってくる声はない。或いは人ではなく、ハンガーか何かに掛けたタオルが偶然人のような形の影を落としているだけなのかも知れない。
……いや、そんなはずはない、と奈央は小さく頭を振った。あんな所にタオルを掛けられるようなハンガーやフックなんてなかったはずだ。それに、もしそんなものを小母が新たに備え付けたのだとして、タオルの影があんなふうに人の形を成すだなんて到底思えなかった。
ならば、もしこの人影が小母ではないのだとしたら、考えられる人物はあと二人、小父か響紀のどちらかしかいない。けれどその二人とも今は仕事に行っていて留守のはずだ。こんな時間に居るはずがない。
そう考えた途端、菜央の脳裏に嫌な可能性が思い浮かんだ。小母でも小父でもなく、響紀でもないのだとしたら。もしあの影がこの家に侵入してきた不審者のものであるのだとしたら。
温かい風呂の中でありながら、菜央の背筋に寒気が走った。思わず我が身を掻き抱き、じっと影を睨みつける。
もしこのまま風呂場の中に入ってこられたら、私はいったいどうやって自分の身を守ればいいのだろう。どうやって侵入者を撃退すればいいのだろう。
思いながら奈央は風呂場の中を見回し、ふと備え付けの棚に掛けられた小さなT字の剃刀に目を止めた。あれがどれほど役に立つかは判らないが、何も持たないよりは遥かにマシだ。菜央はそっと腕を伸ばして剃刀を掴み、いつ侵入されてもいいように小さく構えた。キラリと光る刃が張り詰めた心をほんの僅か楽にしてくれる。
けれど。
――ぴちょんっ
「ひっ!」
天井から大粒の水滴が湯船に落ち、奈央は思わず小さく悲鳴を上げた。水面に視線を落とし、影から目を逸らしてしまう。奈央はそんな自分に慌て、改めてすりガラスの方に顔を向けて、
「……えっ?」
ぽかんと口を開けた。
そこには人影なんてどこにもなくて、ただ明かりに照らされた洗面所の様子がぼんやりと見て取れるだけだったのだ。
そんな、あの人影は、いったい――
その時、トントン、と洗面所のドアをノックする音が聞こえてきた。ドアの開く音に次いで、親しみのある声が奈央に呼び掛ける。
「奈央ちゃん、着替え持ってきたわよ。ここに置いておくわね」
何事もないふうに、小母はそう言った。
「え、あ、うん。ありがと……」
奈央は返事し、小母が洗面所から出ていくのを確認してからすぐ風呂からあがった。あの影の主がどこかに潜んでいる可能性を考えて、剃刀を手にしたまま。
けれど洗面所のどこにも人が隠れているような様子はなく、奈央は眉間に皺を寄せながら首を傾げた。
やはり、何かの偶然でたまたま人の形をした何かの影が見えただけだったのだろうか……?
奈央にはただ、そう思うことしかできなかった。
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