第2回

   2


 ちゃぽん、と湯の跳ねる音が響く。淡く白い湯気に包まれながら、奈央はゆっくりと湯船に身を浸した。大きく息を吸い、長い溜息を吐く。すっと目を閉じ、両手を上げて身体を伸ばした。熱い湯に雨に濡れて冷めきった体が次第に温まっていくのを感じながら、奈央は天井に顔を向けた。


 奈央がずぶ濡れになって帰宅した時、仕事から帰ってきたばかりの小母と玄関先で偶然鉢合わせた。小母は全身濡れそぼった奈央のその姿に目を丸くして驚き、「とにかく、すぐにお風呂に入りなさい」と言いながらタオルで髪や顔を拭いてくれた。


 高校生にまでなって拭いてもらうのも何だか恥ずかしかったけれど、母親の居ない奈央にとって母親同然に接してくれるその優しさを拒むことはできなかった。


 父と離れて暮らすことになって約二ヶ月。奈央はこれまで何度もこの遠縁の親戚宅に父と一緒に訪ねていたが、こうして高校に通うために居候させてもらうことになり、より一層小母も小父も実の娘のように扱ってくれることが嬉しくてならなかった。


 もちろん、父のことを嫌っているわけではない。むしろここまで男手一つで育ててくれたことには感謝してもしきれないくらいだ。だからこそ、奈央はそんな父親に少しでも楽してほしいと思い一人暮らしをしながら高校に通うことを望んだのだ。


 しかし、父の心配のしようといったらなかった。もともと転勤の多い仕事で小さい頃から各地を転々としてきたが、奈央が一人暮らしをすると言った途端に転職すると言いだしたのだ。


 すでにそれなりの歳であるにも関わらず、またこれまで勤めてきた全てのキャリアを捨ててでも奈央の希望する高校に合わせようとしたその本末転倒な発言に、やがて奈央は父と衝突するようになった。互いに決して折れることなく喧嘩のような話し合いをグダグダと続けた結果、困り果てた父は遠縁で最も付き合いのあった小父小母に相談する事を選んだ。母の居ない奈央にとって、小母は母に代わる相談相手でもあった事から奈央もそれに同意、小父や小母を介した話し合いの末、奈央はこの家に居候しながら高校に通うようになったのである。


 あれ以来、父とは連絡をとっていない。心配しているだろうとは思うし、奈央自身父の事は気掛かりだった。ただ半ば喧嘩別れしたような状態だったことから、なかなか自分から連絡を取ろうとは思えなかった。ただ、どうやら小母は定期的に父と連絡をとっているらしい。何かあればきっと小母が教えてくれるはずだ、というそんな小さな甘えがあることを奈央は決して否めなかった。


 奈央は再び小さく溜息を吐き、ゆっくりと顔を前に戻した。目の前の白い壁には薄っすらと青やピンクの花の絵が散りばめられており、そこを伝う幾筋もの水滴を眺めながらぼんやりと物思いを続ける。


 奈央には父親との関係の他にも気掛かりなことがあった。小父と小母の一人息子である響紀のことである。響紀は奈央より九つ歳上ですでに就職しており、詳しくは知らないが作業服などの営業販売をしているらしい。


 微妙に歳が離れていることからあまり話も合わないし、何より常に顰めっ面で高圧的な雰囲気をまとっている為に昔から奈央は響紀のことが苦手だった。どう接して良いものかわからず、なるべく距離を置くようにしてきた。それは今も変わらず、たぶん響紀も同じように思っているのだろう、彼もまた用事がなければ奈央に話しかけてくることもなかった。何より、響紀の朝は早い。奈央が起きた頃には既に家を出てしまっている。また、小父と一緒で帰宅時間も比較的遅い。時には奈央の就寝後に帰宅するため、全く顔を合わさない日すらあった。


 それでも深夜、奈央がお茶を飲みに自室のある二階から一階に降りた時、稀に居間に寝転びビールを呑みながらぼんやりテレビを観ている響紀に出くわすことがあった。そういうとき、奈央は響紀と一言二言会話をする。いや、あれを会話とは呼べないかも知れない。ただの挨拶だ。


「おかえり」

「ただいま」

「おやすみ」


 ただそれだけだ。他に会話をすることはまずない。話すべき話題すら思い浮かばない。


 居候している身だし、そうでなくともこの家には昔からよく遊びにきていたのだから、もう少し会話があっても良さそうなものなのだけれど、どうしても話しかけづらい雰囲気が響紀にはあった。


「こっちもこっちで、もう少しどうにかしないとなぁ……」


 そう独り言ちた時だった。


 不意に人の気配を感じ、奈央は思わず浴室の磨りガラスのドアに目をやり――はっと息を飲んだ。


 そこには酷くぼんやりとした、黒い人影が浮かんでいたのである。

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