絶望と渇望の交差点

Tohna

第1話 底辺での絶望

「一か月後の発表の資料、そろそろ目鼻はついているんだろう?」


 島袋教授から、丁度一か月後に予定されている学会で発表をする論文の内容についてのレビューを要求されたのは午後十時を回ったところだった。


 しかし、これは僕の発表ではない。


 教授自身が発表する論文のダイジェストのプレゼンテーションを事前にチェックしたいとの事だった。

 

 論文自体の査読は、もう誰かに手配しているのかもしれないが、ぼくには後工程のことは教えられていない。


「ええ、プレゼンの構成はほぼ固まっていますので、有意なデータをどう見せて行くか、今検討しているところです」


「失望したね。随分と暢気じゃないか。あと三十日しかないよ。ぼくだっていつも暇だっていうことはなんだからね」


 島袋教授は学内派閥の抗争に明け暮れる暇はあっても、僕のようなポスドクに書かせている学会資料に目を通す暇はないらしい。


 そう、僕はポスドク。


 大学院博士後期課程をめでたく終了した僕は、大学に残って島袋教授の手伝い雑用をしながら、不定期の授業を持たされている。


 パーマネントの職を得るためには、残り二年間と期限の決められた間に、実績を上げて教授からの推薦をもらわねばならない。


 論文は、教授がなんとなく思いついたことを助教や僕らポスドクたちが夜な夜なデータを集め、検証してゆく過程で固まっていった理論だった。


 しかし、この論文の共同著作者として僕の名前が載ることはきっとないだろう。


 アカデミアの世界ではこうしたゴーストライターのような仕事は勿論ご法度だが、正直珍しくもないし、ぼくの同期のポスドクたちも同じように指導教授の理不尽な要求に毎日のように耐えている。


 そして、僕の有限な時間は過ぎてゆく。


 ファーストオーサー第一著者としての論文が一つもないポスドクの一丁上がりというわけだ。


「明日朝一番で時間を取るから。今出来ているところまでの資料を持ってきなさい」


 島袋教授は、じゃあ明日、と言って僕たちポスドクが夜食を取りながら雑談をしていた休憩室から出て行った。


「おい、こお、大丈夫かよ」


「ああ、今に始まった事じゃない。島袋教授もああ見えて優しいところもあるんだぜ。秀志」


「お前、バイトだって……」


 僕みたいな不定期な授業しかもらえないポスドクの年収はざっと百四十万円。


 ほぼ収めている税金はないものの、ここから健康保険とか払ったら到底食べてはいけない。


 毎日毎日学食で三食食べて食費は抑えられているが、国分寺の実家から通わない限り生活するのは困難だ。


 だから僕は夜間工事の交通誘導など、時間当たりの給料がよいアルバイトに手を出さざるを得ない。


 学術振興会から特別研究員として奨励金をもらっていたらもう少し楽だったかもしれないが、そんなに甘いものではない。今年もめでたく落ちた。

 そもそも特別研究員になった場合は副業禁止だが。


「今日は雨で工事は延期だそうだ。こればっかりは仕方ないな。帰って大人しく寝ることにするよ」

 正直今日の雨は痛かった。日払いのアルバイトをしないと食事代もおぼつかない。


「資料はどうする?」


「んー。やっぱりやってからにするかな」

 僕は左腕に嵌めたスマートウォッチを軽くタップして時間を確認する。


 あれからすでに三十分経過していた。


 終電までには提出できる形に整えよう、そう思ってさっき電源を落としたばかりのパソコンを再度立ち上げた。

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