38.王族だから逃げる道は選べない

 事前に通知を送ったため、テルフォード家もブレスコット家もすでに辞任手続きを終えている。両家の家族や使用人は、本日の早朝に王都から離脱を始めた。報告を聞きながら足早に王宮内を抜ける。


「お待ちください、エインズワース元侯爵アイヴァン様」


 柔らかな声に呼び止められ、アイヴァンは足を止めた。振り返った先で一礼するのは王妃殿下だ。臣下に対する会釈より深く頭を下げた。ふわりと広がったドレスの足元に、まだ7歳になったばかりの第二王子フィリップが顔を見せる。


「じいは、もう城に来ないのか?」


 がっかりした様子で、フィリップ王子は見上げてくる。美しい緑の瞳に、膝を突いて視線を合わせた。年齢の割に言動が幼く感じられる。兄ナイジェルに敵対視されないため、この子は常に一歩引いてきた。


「もう自由に振る舞ってよい。フィリップ殿、強くあられよ。この国はこれから嵐が襲うであろう」


「わかった。じいも息災で。次に会うときは……」


 そこでフィリップは言葉を切った。アイヴァンも分かっていて先を促すことはしない。小さく縦に首を振り、立ち上がった。王妃パトリシアは静かに微笑み、柔らかな声で礼を口にする。


「お急ぎのところを呼び止めた無礼を許してくださいね。フィリップは貴方を尊敬しているので、最後に声をかけていただけたらと思ったのです」


「構いませぬ。フィリップ殿は次のオリファント王、懇意にするのは当然だ。今後は周囲が荒れますぞ。危険を感じたなら、ウォレスへ逃げ込まれるがよい」


 頭を下げて礼の代わりにする王妃は、聡明な女性だった。頭に血が上りやすく、器の小さい王を上手に煽てて操る。だからこそ、あの側妃と国王でも国が成り立っていた。


 この場に残していくことは心残りだが、彼女はまだ王妃であり、フィリップもまだ王子の肩書きを持つ。故に同行を促すことはできなかった。ウォレスに逃げる道を示して、アイヴァンは会釈して歩き出す。黙って話を聞いていた騎士団長と宰相が、深々と頭を下げた。


「ああ、そうだ。フィリップ殿! 今回が最後とは限りませぬぞ」


 ひらりと手を振って、わざと大声で周囲に聞かせて立ち去る。アイヴァンの牽制に、動こうとした騎士や侍従が動きを止めた。エインズワースは国王を見捨てて独立する。だが王妃と王太子になるフィリップに対し、繋がりを断つ気はない。明言したことで、逃げ出そうとしていた城の使用人達は踏みとどまった。


 パトリシア王妃は思わぬ温情に目を見開き、ゆっくりと強張った体から力を抜く。幼いフリを捨てた我が子の肩に触れ、アイヴァンを見送りながら言い聞かせた。


「良いですか? 王とはあのような器を指すのです。間違ってはいけませんよ」


「分かっております、お母様。僕はまだ未熟ですが、あの方にいつか追いつきたい」


 アイヴァンに従う分家の当主達を連れ、エインズワースの騎士団が王都を駆け抜ける。もう見えなくなったその姿を追うように、王妃は門が見える場所まで歩いた。


 本日をもってオリファント王国は、エインズワース領と貿易都市ウォレスを失う。それでも王家の重責を捨てて逃げることは許されなかった。最後まで民を守ることが王族としての矜持であり、義務なのだから。

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