第24話 紗菜

 紗菜という少女は優しかった。

 僕を介抱して、家まで送り届けてくれた。

 リビングまであげると、水を差しだしてくれる。

「ありがと」

 そう言って水を受け取る。

 精神的なストレスがかかると、吐き気を感じるようになった。

 これもいじめの後遺症だろうか。

 カタカタと水の入ったコップが揺れる。

 地震だ。

 震度二くらいだろうか。

「最近、多いですよね。地震」

「そうだね」

 僕はゆっくりとした動作で水を飲む。

 胃酸で気持ち悪くなっていたから、すっきりする。

 ストレスはだいぶ和らいだ。この子のお陰だろうか。

「紗菜さん。もう大丈夫だよ」

 僕はもう落ち着いた。もう大丈夫だ。

 一人でも生きていける。

 一人でもやっていける。

 いや一人がいい。

 誰かを犠牲にする必要なんてない。

 僕は自分の心に従う。

 そのためなら、この手を血に染めることもいとわない。

 しばらくすると紗菜は帰っていった。

 安心したような顔になっていたが、モヤモヤが生まれる。

 なぜ僕に優しくしてくれたのだろう?

 誰も関わりを持とうとしない僕に。

 それに〝紗菜〟。どこかで聴いたことのある名前だ。

 でも優しい良い子だった。

 世界が彼女みたいな子で溢れていればいいのに。

 優しさが人を救うことだってある。そうじゃない場合もあるけど。

 でも、暗く残酷な世界で、優しさは必要なのだと思う。

 それがどんな理不尽も、絶望も、救ってくれるはずだ。

 ふと、犬星の顔が浮かぶ。

 そういえば、何か言いたげだった。僕を天沢と離したがっていたようにも思えた。


 ――気持ち良かったなぁ。


 あんなふざけた奴に。

 僕の希望を奪った猿山の王。彼も死ぬべき存在だ。

 この世界に悪を、絶望をもたらす最低最悪のゴミくずだ。

 にたりと笑うと、僕は着替えを始まる。

 復讐するにしても、奴の今の場所を知らなければならない。

 ここ最近使っていなかった光を使うか。

 光の膜に覆われ、透明になる。

 それから外に出て跳躍。

 竹林の自宅に向かう。

 麻薬をやめられなくなった、人間をやめた者の集まり。

 そんな彼らにくさびを打つ。

 もう二度と薬物中毒になんてさせるものか。

 僕は竹林の家、玄関を溶かす。そこから入ると、リビングに複数の人を感知する。

 男女六名だ。どの顔も見覚えある。

 同じクラスメイトだ。

 薬物をやっているのだ。

 防犯カメラがないことを確認し、僕は光の膜を解く。

 すると、目の前にいた竹林がブーッと酒を吹き出す。

「どこから入ってきた? いやどうやって!」

 気が動転しており、言葉にならない言葉を発する竹林。

「光二くんは? いないのか」

「ああ。あいつは知らねーぜ?」

 そうか。一安心していると、僕は光を手のひらに集める。

 他の六名も目をパチパチさせて驚きに満ちた顔をしている。

「そうか。八神も、に興味が出たんだな。よし。安値で取引しよう」

 竹林は嬉しそうに麻薬を手にする。袋に入ったそれは小麦粉のようにも見えるが、薬物なのだろう。

 それに興味があるわけないだろう。天沢を殺した道具だぞ。

 人の死に鈍感になってしまったのか。

 それもこれも薬物の影響か。死という意識を遠ざけ、多幸感に包まれ、そうして楽な方へ楽な方へと逃げるから、人の苦労も分からない。

 僕は僕のことしか知りはしない。

 なら他人も自分のことしか知りはしない。

 安直に苦労もせずに楽な方へと逃げているから、だから人の努力も、苦労も知らずに育つのだ。

 弱者の味方であれ。

 そう言われる社会だが、その弱者の気持ちを知ろうという者は少ない。

 マイノリティの気持ちを考えもしない。

 みんなが言っているから。

 だからみんな知ろうとはしない。

 無意識の悪意と向き合おうとしない。知らぬ存ぜぬを決め込み、自分の殻に閉じこもる。

 安直な理屈で人を見て、偏見を持つ。

 ――常識とは 18 歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない。

 アインシュタインの言葉ではあるが、それは事実だと思う。

 人の顔や性格から、家庭環境を覗えないのと一緒。

 本当の意味で他人を知るには追体験しなくては分からない。

 その意味も、言葉の重さも。

 本来持つ気質も。

 何もかも知らないのは、悪だ。

 そうだ。無知であり、偏見で判断するのは悪だ。

 思い込みや先入観が人を殺すことだってある。

 言葉が人を殺すことだってある。

 これは比喩ではない。

 事実としてあるのだ。

 追い詰めていった結果、人は道連れしようとする。それは歴史からも読み取れる。そう、第二次世界大戦のように。

 追い詰められた人間は自分の死すらいとわない。

 人類の歴史は戦争・戦乱でしか語れない歴史がある。闘うことは非道であると、同時に解決の糸口になっているのだ。それでしか解決できないこともある。

 対話で、温情で人は救えない。

 目の前で困惑する竹林。

「一つ聴く」

「な、なんだ?」

「なぜ天沢を殺した」

 目を見開き、瞬く。

 まるで存在を忘れていたかのような反応。

 最初からいなかったかのような反応。

「なんだ。そんなことを気にしていたのか。これで忘れられるぞ」

 ――違う。

 忘れたいわけじゃない。

 むしろ覚えておきたい。

 彼女という人間が生きていた、と。

「もういい。消えろ」

 僕は光を収束させ、竹林の喉元を穿つ。

 それを見ていた六名の人間が叫び、ちりぢりに逃げ出す。

「逃がさない」

 手から放たれた光は拡散し、部屋中に飛び散る。

 焼けただれた化学繊維の匂いがあたりに立ちこめ、部屋にいた六名の人々はその原型をとどめていなかった。

 息も絶え絶えになり、僕はまた光の膜をまとい、溶け出した窓から飛び出す。

 カラスが鳴く。

 不気味な光景に、吐き気を覚える。

 自宅に着くと、すっきりするまで吐き続ける。が、いつまで経っても気持ち悪さは拭えない。

 死を意識するから、生きることが実感できる。

 生きているから吐ける。

 そう結論づける。

 それが間違いだとも気がつかずに。

 そうして自分が殻にこもっているとも気がつかずに。

 チャイムが鳴る。

 兄が通販で買ってきたものだろう。

 宛名を見ると、そこには母の名前が。

「まだ母のつもりでいる」

 タッパーに入った食べ物はすぐにいたんでしまう。

 今日の夕食に回すしかあるまい。

 でも、兄も父も好きじゃない味なんだよな……。

 夕食を作ってから数年。

 兄と父の好みは知ったつもりだ。

 それでもなお、手作り料理を送ろうとする母の気持ちも、少し分かる気がする。でも、それは兄も父も求めているものではない。

 何度も電話で話していたはずなのに、なぜこんなにも固執するのだろう。

 もうストーカーの域じゃないか。

 自分の母ながら、恐怖を感じる。

 署名が父の名になっているお陰で、僕たちは引っ越しをしなかった。家の権利は父にあるのだ。

 だから母もこの家の住所は知っている。

 料理を宅配することもある。

 夕食のメニューを考え直し、せっせと作り始める。

 気持ちが鈍ってしまう。

 まだだ。

 魔林の妹を殺していない。

 きっと兄と同様に無慈悲で、残酷な奴に違いない。

 そういった環境で育ったのだから。

 学内でも噂は立っている。魔林と同じ危険な奴、と。

 ネットの掲示板では様々な情報が流れ、憶測や事実の混じった情報が流れていく。

 その中でも魔林の妹を危険視する者も多い。

 ニュースを見ていると、竹林家のニュースが流れ出す。

 時を戻したかのように、家中の家具が、電化製品が、人が、原材料に戻っている。

 防犯カメラもなく、犯行は困難とされている。

 どうやって殺したのかも分からずに、捜査本部が困惑している。

 そしてこれで二度目になる学級閉鎖。

 麻薬のことを隠していた学校側にも不備があると、市の教育委員会が立ち上がった。

 異例中の異例だが、総理大臣も重い腰を上げ、原因の早期究明に尽力すると語ったらしい。

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