第21話 雨
恋を知って僕の日常は変わった。
これまで見えていた景色が色づいていくのが分かる。
それでも曇天がもやをかぶせ、雨音がかき消していく。甘い香りも雨の中ではかげない。
「天沢さん。一緒に帰ろ?」
僕は勇気を振り絞って話しかけてみる。
心臓が早鐘を打ち、今にも張り裂けそうだ。
天沢のことを考えていると胸が苦しくなる。ドキドキして気分が高揚する。
声も少しばかり高いトーンになっている気がする。
こんなに緊張したのはいつ以来だろうか。
生きているのがこんなに嬉しいこととは思いもしなかった。
「いいよ」
すんなりと返ってきた言葉に内心ガッツポーズを決める。
彼女と一緒に帰る。
それがどれだけ、嬉しいことか。
幸せなことか。
僕は雨の中、天沢と帰ることになった。
「わー。すごい雨」
天沢の言うとおり、横殴りの雨が降り注ぐ。
ぬれて透けている天沢の身体。
身体に張り付いたスカートや制服がその肉付き、体つきを露わにしている。
特に胸元の蒼いブラジャーが見えてくる。
「ちょっと。視線がエッチなんだけど」
「ご、ごめん」
慌てて僕は前方を見る。
と、隣でクスクスと笑い出す天沢。
何がおかしいのか、分からない。
けども悪い印象ではないらしい。
それがどこか歯がゆく、そして幸せだとかみしめる。
「まあ、八神なら見られてもいい、かな……?」
そのいじらしさにかぁあと顔が熱くなる。
それが本音で言っていることは分かっている。でも不安が残っている。もしかしたら、彼女は僕を騙しているのではないか……と。
つい疑ってしまう。
その顔に張り付いた笑顔が怖い。そう見えているのは僕だけかもしれないが、みんな仮面をかぶっているように思える。
それが僕のダメなところなのかもしれないが、いじめで受けた傷はそう簡単には癒えないのだ。
この腹の底の熱もまだ収まってはいない。
魔林の母と妹を殺す。
それはまだ達成されていないが、僕はこの平穏になれてしまった。慣れすぎてしまった。
特別な力があるのでさえ、忘れてしまう。
アシャにもらった大切な力。
ただ生きていたかった。
こんな平穏な毎日を過ごしたかった。
それを神は許してはくれなかった。
だから僕は心を壊すしかなかった。
怖かった。
どうして僕ばかりこんな目に遭うのか。そう問い詰めたかった。この世界に本当に神がいるのだとしたら、なぜ僕だけこんな試練を受けなくてはいけないのだろう。
なぜ、僕のすべてを奪っていくんだろう。
この世界を作った神様はひどく歪んだ性格をしている。根が曲がっている。性根が腐っている。
そんな神なんて信じない。
僕は僕のやりかたで生きる。
神に否定されようとも僕は生きる。生きて伝えていく。
「どうしたの? 難しい顔をして」
天沢がこちらを見遣り不安そうに訊ねてくる。
時の回廊でみた。
そうだ。僕はあそこで見たんだ。
犬星が危険視するのも分かる。
「そうだ! 八神も今日のパーティにおいでよ!」
「……僕が行ってもいいのかい?」
陰キャで特別なこともできない、ただのぼんくらを。ノリの悪い僕を誘ってくれるのか。どこまで優しいんだ。天沢は。
「もちろん! とあたしは言うけどね」
クスクスと笑う天沢。
そして真剣な顔になり、僕の両肩に手をかける。
「絶対に気分が晴れるから――来て」
それはどういう意味? と問いたかった。
でもそれはできない。
あの時の回廊を完全に信じたわけじゃない。
しかし、不安は大きい。
「Lion、交換しておく?」
Lion。それは最近はやっているメッセアプリだ。メッセの他にスタンプを送ることができる無料アプリである。
ということは、つまり、もっと会話をしたいという証拠だ。
僕は緊張の面持ちでLionのQRコードを読み込む。
連絡先に《天沢
これから連絡をたくさんしたい、という意思の表れだろうか。
そう思うと心臓が口から飛び出そうになる。
そんな幸福があっていいのだろうか。
「ふふ。ありがと」
可愛く首をかしげる天沢。その顔はエンジェル、そのものだ。
まさか、こんな光景を見せてもらえるなんて。嬉しい限りだ。
でもなんで、僕なんかを選んだのだろう。
他にもたくさんのクラスメイトがいるにも関わらず、一番面倒そうな僕を選んだ。
どうして?
分からない。
まさか、本当に僕を好きになったとか? でも接点もないし、いじめられていたから情けない姿しか見せていないはずだ。
それがなぜ?
疑問は尽きないが、天沢とは別の方向に進む。
「じゃあ、またね。八神」
「うん。またね」
また、か。
次に出会うのはいつになるのか。
今でも覚えている。帰ってきたら、また遊ぶ、と。
僕は彼に会って話したいことがたくさんある。でもネガティブな意見しかいえないか。
そうだ。天沢や竹林と一緒に楽しい思い出を作ればいいんだ。
そんな簡単なことも思いつかないなんて、僕は本当に変わってしまったらしい。
以前は学内ヒエラルキーのトップにいった僕だが、今では落ちぶれている。話題の中心にいたのは僕だった。
それが中学、高校と、時間を重ねていくにつれて変化してしまった。
晴人に知られたら、どう思うのか。
忙しい毎日に忘れかけてしまった僕の大切な友達。
また会えると約束した友人。
大人しく不器用な彼もいじめれていないといいのだが。
家に帰ると、父がぐでんぐでんに酔っていた。
アルコール臭い匂いを漂わせている。
珍しく兄がリビングにいる。
「父さん、寝ているから。お前が洗濯と掃除しろ」
なっ!
そんな風に思うのなら自分でやればいいじゃないか。明らかに忙しいのは僕だ。
兄は一日中、家の中でネットをしているだけじゃないか。
それをなんで僕が。
僕にだってやりたいことがあるのに。
それでも僕に押しつけるなんて。
何も変わっちゃいない。
兄も、父も。
この家は嫌だ。嫌いだ。大学生になったら、この家を捨てて一人暮らしをしてやる。
毎日が大変になるかもしれないが、僕はその方がマシだ。
なんで命令口調の兄と、王様気取りの兄と暮らさなくちゃいけないんだ。
父も父だ。付き合いとはいえ、こんなになるまで飲むなんて。
僕は水を出して、父に飲ませる。洗濯機を動かし、次に掃除機を動かす。
掃除を終えたあとに洗濯機から衣類を取り出して二階に持っていく。
二階の部屋で衣類を乾かす。
五月も半ば。でも雨雲がかかっており、ざーっと降り注ぐ。
室内干しでは乾かないかもしれない。
それもこれも兄が朝から干していてくれれば乾いただろうに。
エアコンを付け、その乾燥と熱で乾くのを待つ。
そろそろ夕飯だ。
キッチンに立ち、メンチカツを作り始める。
小麦粉と卵、それにパン粉で衣をつけてあげるだけ。でも焦がさないように、衣が剥がれないようにするのが難しい。未だにうまくいかない。
そんな時は卵とじにしてカツ丼にしてしまうのがいい。
これなら衣が剥がれても、ごまかせる。
それに兄が喜んで食べてくれる数少ないメニューの一つ。
兄と父が食べやすいよう、筋切りをした肉を油の海に沈める。
揚げ終わると、包丁で一口大に切り分ける。
一緒に調理していた野菜炒め、ほうれん草のおひたしを用意する。
僕は料理は好きな方だ。
何かを一から作りあげ、望んだ味にするのは嫌いじゃない。
たくさんの料理を作れると、それだけでも自信がつく。
それにレシピ通りに作ればだいたいは同じものができる。
でもレシピ本やレシピサイトはだいたい味付けが濃いので薄味に調整する。
兄と父のカロリー計算も忘れてはならない。
ここまで家族に尽くしているのに、なんで兄は僕を駒扱いするのだろう。
頑張っているのに。
尽くしているのに。
文句も言わずに手伝っているのに。
僕は兄の駒じゃない。
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