第2話 僕の日々。
息ができない。苦しい。気持ち悪い。吐き気がする。
ゴボゴボ。
泡。目の前で泡が浮いては消える。消えてはまた浮く。ただし無尽蔵に湧いてくるわけじゃない。
僕の体積に合わせて、その泡も比例した量になる。
消費されていく空気の塊。吐き出される泡。代わりに口や鼻に入ってくるのは、水。水だ。
『ぎゃははは! こいつ、トイレの水飲んでいるぜ!』
『面白すぎでしょ!
ソプラノボイスがカラカラと笑う。
『キモいわ。こいつ』
僕の尻を蹴りつける男子。
『ぎゃははは……はあ。つまんね』
抑えつけられたいた頭がようやく解放される。
便座から顔を上げると、水を吐き出す。
「うへ。吐いたぞ」
取り巻きの
「もう、やめてよ」
力を振り絞って、かすれた声がもれる。
目の前がくらくらする。酸素が足りないのか、頭が回らない。
「は! 〝やめてください〟だろ? このお坊ちゃん!」
「がっ!」
腹に衝撃が走る。
壁にぶつかり、ようやく自分が蹴られたのだと認識する。
「情けない声! それでもあんた男なの?」
「わりぃわりぃ。ちとやりすぎたわ」
いかにも優しそうな笑みを浮かべ、近寄ってくる
差し伸べた手をとろうとすると、足に激痛が走る。
「ぎゃははは! ばっかじゃねーの! てめーみたいなお坊ちゃんと仲良しごっこなんてするかよ!」
「あんたバカァ~? 久楽にかまってもらえるだけありがたいと思ったら?」
「そうそう。好きの反対は無関心。だから――良かったねぇ!」
菟田野も倣うように蹴りをいれてくる。魔林ほどではないが、痛いのに変わりない。
遊びにも飽きたのか、髪をいじる呉羽。
「そろそろ帰らない~?」
「……ちっ。しょうがねーな」
魔林は恋人のいう通りに男子トイレから立ち去る。その後ろをついていく菟田野。あれでは金魚の糞だ。
口にはできないけど。
そんな勇気はもうとっくにない。誰も僕の話なんて聞こうともしない。
「くっさー。誰だよ」「あいつだろ。
「兄が不登校だってさ」「なにそれ。問題児家族じゃん」「あいつも甘やかされて育っているんだろ」
口々に僕の悪口が聞こえてくる。
耳を塞ぐように、自席で眠ったふりをする。
べちゃ。
背中が冷たくなる。衣服がべっとりとくっついてくる。
「ほらほら! おしゃれしないと男になれないぞ!」
「マジうける~!」
これがワックスってやつか。初めて触れたから分からなかったけど、べたべたするのな。
それからも、僕へのいじめは続いた。
「ただいま」
家に帰ると犬のレオが駆けよってくる。
「よしよし」
頭をなでると嬉しそうに尻尾を振るのだ。
茶色と白が綺麗なボーダーコリー。賢く、昔は牧羊犬として飼われていることが多かったらしい。
「お母さん、何か食べる……。そっかいないんだった」
お母さんがもうこの家に帰ってくることはない。
子どもの頃に受けた暴行により、今頃になって精神病を発症。精神錯乱に陥り現在は離婚。
子どもへの悪影響を与える――という理由で別居していたお父さんに引き取られた。家はお父さんの名義だったので、出て行ったのはお母さんの方だった。
少し前まではあんなに優しかったお母さん。
教育熱心だったお母さんは今、どうしているのだろうか? 少しは落ち着いているといいのだけど。
時計を見ると、午後五時。あと二時間もすると、お父さんが帰ってくる。
「そろそろ用意しよっと」
夕食の準備は僕の仕事だ。
冷蔵庫にある食材をとりだし、慣れない手つきで切っていく。包丁を触るのもまだ怖い。だけど生きていくためには、そうするしかない。
ジャガイモを生で食べるわけにはいかない。ニンジンをそのままかじりつくわけにはいかない。生肉では身体を壊してしまう。
生きるために包丁を握る。生きるために料理をする。
「いたっ」
指を切ってしまった。とりあえず絆創膏を貼り、すぐに調理に戻る。
火を扱っているのだから、油断はできない。
がちゃ。
玄関が開く音が聞こえてくる。そちらを見るとお父さんが荷物片手に自分の部屋へ向かっていくのが見える。
お父さんは大人しい性格だ。似たのか、僕も大人しい方だ。だから言い返せない。
料理が終わり、食卓に料理を並べていく。
ちょうど、お父さんが食卓につく。
「今日はカレーだよ」
「……ああ」
「お兄ちゃん! ごはんだよー!」
二階の部屋にこもっているお兄ちゃんを呼ぶが反応はない。
もくもくと食べ始めるお父さんを見て、渋々僕も食事を始める。
「「……」」
会話のない食事。ここ最近では当たり前の風景だ。お母さんがいなくなってからは。
皿洗い・お風呂掃除・お風呂を沸かすのも僕の仕事だ。
そういった仕事をしている間にお兄ちゃんは二階から降りてきて、食事をするのだった。まるで僕を避けるかのように。
「疲れた……」
ベッドに身体を預ける。
ふと枕が湿っているのに気がつく。
なんで水が? ……違う。僕は泣いているんだ。目の端にたまった滴がそれを証明している。
※※※
――力が欲しいか?
これは夢なのだろうか。
銀色の長い髪、背中に翼をつけた少女が微笑んでいる。
――力はいらないか?
少女が手を差し伸べる。その手をとるか、ためらう。
ドンドン。
堅いものを何度も床に打ち付けるような音が、耳朶を打つ。
「まさか!」
慌てて起き上がると、一階のリビングに向かう。
明かりをつけると、そこにはペットのレオがいる。
ハーハーと荒い息を吐き、口からはよだれと、血が流れている。鼻水も出ている。
いつものやつだ。
「待ってて。レオ」
慌ててタオル数枚を片手に駆け寄る。
何枚ものタオルを床にしき、クッションにする。あとは僕の身体で押さえ込む。
レオは過去に事故に遭った。その時の後遺症で時折、痙攣や嘔吐を引き起こす。
現在、特効薬も治療薬もない。そもそも欠落した部位を直すなんて、再生医療の分野だ。今はまだない。ニュースではiPS細胞がどうのこうのと騒がれているが、僕たちには関係ない。
そんなものは僕にとっては、ただのSF。今、苦しんでいるものを救えるわけでもない。
「ごめん。ごめんね」
二時間後、レオは落ち着きを取り戻した。
疲弊しているのか、ベッドから立ち上がるとヨロヨロと窓の近くで寝そべるのだった。あそこは涼しいのか、彼の定位置だ。
それを見て安堵する。
意識がしっかりしてなければ、歩くことも、大好きな窓際で休むこともしない。そして一度回復すると、再発するまで時間がかかる。
時計を見ると、もう午前四時。
今から寝てしまったら、学校には通えない。なんのために?
タオルなどを片付けると、すっかり朝になっていた。
お父さんは出張のため、早めに出て三日は帰らないそうだ。
台所のゴミ箱を覗くと、昨日のカップ麺と一緒にカレーが捨ててあるのだった。お兄ちゃんが喜ぶようなカレーは僕には作れない。
ゴミをまとめて、ゴミ捨て場に向かう。
朝の風が、冷たいのか、暖かいのか。そんなこともどうでもいい。
味もよく分からないだから、カレーがうまく作れるはずもない。
指に巻いた絆創膏もいつの間にか剥がれている。痛みはない。血はにじんでいる。
少なくともお父さんを心配させないために、僕は学校に行かなくてはいけないらしい。
朝支度を整え、また地獄のような日々が始まる。
「あれは夢だったのだろうか?」
銀色の少女が一瞬、頭をよぎる。
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