第24話   〃 いちごヨーグルト味のピクニック

 僕と小夜ちゃんは、それからしばらくしてアパートを出た。


 舞子駅行きのバスを五分待って、市バスに乗り込む。時間は日曜の夕方近くだったけれど意外と乗客も多く、僕は一つだけ空いていたシートに小夜ちゃんを座らせ、自分はつり革につかまった。


 来る時はあんなに楽しそうにおしゃべりをしていた小夜ちゃんは、いま僕の目の前で『花とゆめ』を読んでいた。ただそれも真剣に読んでいる様子ではなくて、ただボンヤリとページをめくっている感じだった。


 バスの中は妙に静かで、誰も会話をしていなかった。ただ停留所を告げる自動アナウンスと、運転手さんのマイク音声だけが定期的に流れていった。


 やがて十分も走ると、バスは駅のバスターミナルに着く。僕も小夜ちゃんも他の乗客と同じように黙ってバスをあとにした。ステップを降りると舞子駅はすぐ目の前。六時間ほど前の自分にここで会えることが出来るならば、僕はまっさきに『財布の中のコンドームを今すぐ駅のゴミ箱に捨てろ!』と言っただろう。


 切符の自動券売機の前に並び、僕は千円札を三枚入れた。ここから小夜ちゃんを送っていく駅まで、大人二枚で三千円近くかかる。だから僕は無理に来なくていいし、来るんだったら交通費は僕が払うからと小夜ちゃんに言ったのだ。けれど、まさか小夜ちゃんが僕とのことであれほど不安になっていたなんて、電話をしていて気がつかなかった自分が本当にアホの極みだと再認識をする。


「小夜ちゃん、これ」


 振り返った僕が切符を渡すと、小夜ちゃんが驚いた顔をした。


「え、なんで……。私、自分で買おうと思ってたのに」


「交通費は俺が払うって言ってたやろ。あとこれ、来る時の分」


 僕は切符に続いて二千円を出した。


「いや、そんなんセンパイ、私、貰われへん」


 手を引っ込める小夜ちゃんに僕は言う。


「ああ、えっと今日、全然楽しい思いも小夜ちゃんにさせてあげられへんかったし、お詫びやと思って取っといて」


 困惑したような小夜ちゃんの顔をまともに見ることができなくて、僕は半ば押しつけるように二千円を渡して改札へと促した。


 下りホームで電車を待っていると、さほど時間を置かずに下りの普通電車がやってくる。「黄色い線の内側で――」という聞き慣れた自動アナウンスとともに、神戸方面から青色の電車が近づいてきた。それを確認した僕が何気なく隣の小夜ちゃんの様子を覗うと、小夜ちゃんは目の前に広がる松林と、その向こうにある淡路島をボンヤリと眺めていた。


 △


 二つ先の駅で新快速に乗り換えて、さらにその終点でローカル線へと乗り継ぐ予定の帰り道。さっきのあんなことがなかったら、小夜ちゃんとうるさいくらいに会話をしただろうに、僕と小夜ちゃんは本当に二言三言喋っただけで新快速電車を降りたのだった。


 ここから先はローカル線の汽車で一時間半の旅。高校時代に小夜ちゃんと何度も何度も往復した路線に乗る。初めてデートのようなことをしたあの時にも乗ったし、一緒にここで降りてアニメイトに行ったことが遠い昔のように思い出された。


 ガヤガヤとした連絡橋通路の階段を降りて少し離れた場所にある東一番線に向かうと、いつものように駅蕎麦のいい匂いが漂ってきて、その向こうのホームには見慣れた青い客車が入線していた。


 そうか、この時間のこの汽車って――。


 腕時計を見るまでもなく、この汽車は初めて小夜ちゃんとデートのようなことをした、あの帰りに乗った汽車と同じダイヤのものだった。


 あの時の小夜ちゃんは大魔界村の話で吹き出してくれて、ボウリングで真ん中に球が行ったと喜んで、アニメイトで買ったイラストの本を大事そうに抱えて……。


 なんでだろう、今日は二年前のことを思い出してばかりだ、と僕は思った。そんな淡い感情を抱きながら後ろを振り返ると、僕の後ろには疲れたような顔をした小夜ちゃんがいた。


 二年前の記憶と比べて小夜ちゃんは髪も伸びて、体のラインだって大人の女性に近づいていた。けれど中身はまだ田舎の高校生で、まさか今日自分の彼氏に襲われそうになるなんて思ってもいなかっただろう。彼女にしてみれば自分の悩みを聞いて欲しくて、距離が離れてしまった憂いを解消したくて、期待と不安を胸に抱いて僕の所に来たはずなのに。それなのにアホな僕は――。


「小夜ちゃん……」


 ボックスシートの前に座っている小夜ちゃんに、僕は小さく声を掛けた。小夜ちゃんは広げていた『花とゆめ』から目をあげて、相変わらずの困惑顔を傾ける。その瞬間、もうこれ以上謝っても今日はどうしようもないことを僕は悟った。


「あの……小夜ちゃん、家に着いたら七時半くらいやな」


「……うん」


「五月も終わりやから、七時でもまだ薄明るいかな」


「うん。多分……」


 それが、駅に着くまでの一時間半の間に交わした言葉のすべてだった。というのも、小夜ちゃんがマンガを読みながらすぐに寝てしまったのだ。


 朝早くに家を出て、慣れない電車を乗り継いで、そしてあんなことがあった。小夜ちゃんだって疲れ果てたに決まっている。


 僕は小夜ちゃんの手から落ちそうになった『花とゆめ』を受け取って、誰も座っていない隣の座席に置いたのだった。


 △


「じゃあ小夜ちゃん、その『うしおととら』、返してくれるんはいつでもええから」


 僕は小夜ちゃんのカバンの方を指さしながらそう言った。


「うん、わかった。ごめんセンパイ」


 どうして小夜ちゃんが謝るのかを理不尽に思いながら、僕は「ええからええから」と手を振る。


 汽車の中で寝てしまった小夜ちゃんは、結局降りる駅まで起きなかった。もしかすると僕がいなかったら寝過ごしていたかもしれない。そう考えると小夜ちゃんをここまで送ったことにも意味があったように思え、僕の罪悪感もほんの少し緩む。


 高校への通学で降り慣れた駅を出て、小夜ちゃんの住む家まで二人で歩く。駅から彼女の家までは五、六分で、公営住宅の一つがそれだった。その家の前で、僕は今まさに小夜ちゃんに手を振って別れようとしていた。


「また……、電話するから」


 別れ際の僕の言葉に、小夜ちゃんは「うん」とだけ頷いた。


「じゃあな」


 続いてそう言って僕が踵を返した瞬間、小夜ちゃんの声が後ろから響く。


「センパイ、あの」


「え……?」


 一回転するようにして僕が振り返ると、小夜ちゃんは泣きそうな顔でこっちを見ていた。


 五月も下旬とはいえさすがに山間の陽は落ちていて、薄暗くなったなかに小夜ちゃんの色白の顔が浮かんでいる。


「あの……、私も、電話するから」


「うん。ありがと」


 僕はそれだけを言うと、今度は本当に踵を返して駅へと歩き出した。


 △


 ローカル線を逆に乗り継ぎ、新快速から各駅停車に乗り換え、舞子駅に帰り着いたのは深夜の十一時に近かった。


 すでに終バスは出てしまっていて、僕は重たい足を引きずりながらアパートへの緩い坂道を歩いた。途中のコンビニに寄り、今日三度目の買い物をする。


 最後に売れ残っていたいなり寿司をコンビニ袋にぶらさげて、僕はようやくアパートのドアを開けた。


 ガチャリ、といつものようにドアが開き、部屋の空気が入り口に流れてくる。その中に、僕はほんの少し小夜ちゃんの匂いを感じた。


 小さいキッチンを見ると、そこにあったのは彼女が残したスパゲティの容器。それを一瞥して奥に進むと、小夜ちゃんと一緒に部屋を出た時そのままの光景が広がっていた。


「はあ……。まあ、出たときと一緒やなかったら、空き巣が入ったいうことやもんな、ハハ……」


 自嘲気味に独り言を呟いた僕は、買ったいなり寿司をテーブルに置く。


「あ~あ、疲れた」


 そんな言葉とともにベッドに腰掛けた僕の目に入ったのは、ゴミ箱だった。当然ゴミ箱の中にはゴミが捨ててある。そのままなにげなくゴミを見ていると、そのゴミが森永ピクニックの容器だとわかった。いちごヨーグルト味のピクニック、それはもちろん小夜ちゃんが今日飲んだものだった。


 僕はそのいちごヨーグルト味のピクニックを見た瞬間、自分が本当に大切に大切にしてきた何かを失ってしまったような感覚になって、「クソッ!!」と深夜の部屋で大声を出してしまったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る