第07話  ’92 もう! センパイ、慌てたわ!

 ◇  ◇  ◇


 僕が舞子駅に着いたのは、結局九時十五分をちょっと回っていた。


 今の舞子駅は派手に改修されて、駅舎のほぼ真上を明石海峡大橋が通っている。周辺の道路も再開発の影響で複雑怪奇になっているけれど、この時は駅舎も簡素で新快速はおろか快速さえ止まらないような駅だった。


 駅前のバスターミナルを抜けて、改札口のあるホームへと階段を上る。少し高台になったその場所からは、松林で有名な舞子の浜が広がって見えていた。


 ここまで来ると潮風というか海風も心地よく、淡路島の大きな陰影も霞みかがった海の向こうに見えていた。舞子の浜がどうして舞子と呼ばれるようになったのか、という話を、僕は一つ上の大学の先輩から聞いていた。


『舞子の松林の木に、女性が舞を踊っているように見える枝振りの木があったらしいわ。今はもう無いけど』


 と、その先輩は言った。その謂われが本当かどうか知らないけれど、今ではもう駅の周辺が完全に変わってしまって、あの頃の雰囲気なんてもうあんまり残っていない。


 僕は改札口の方まで歩いて行き、どこかで小夜ちゃんがポツンと待ってはいないかと周囲を探した。舞子駅の改札口は一つだけで、そこからバス停のある海側へ出るか、それとも山側へ出るかの通路しかない。なので、ぐるりと周辺を探して彼女が居ないということになれば、結果的にまだ小夜ちゃんは着いていないということだった。


「まだか……、まあええわ」


 そんな独り言を呟いて僕は改札口の壁際で待つことにした。次の上り電車は約十分後、たぶんそれに乗っているのだろうと思っていた。


 ――ところが、その電車が着いても小夜ちゃんは降りてこない。僕は少々嫌な予感がしたけれど、携帯電話なんて一般人が持っていない時代。どうすることも出来ずに、次の電車を待つしかなかった。


 すると、なぜか反対側の下り電車の人波から小夜ちゃんが現れたのだ。すこし紅潮した顔で、はにかみながら軽くこっちに手を振っている。


 ちょっと安心したような表情で小走りで改札に近づいた小夜ちゃんの顔色が、ポケットに手を入れた途端に変わった。どうやら膝丈のキュロットスカートのポケットには、切符が入っていなかったらしい。パンパンと両側のポケットを叩くような仕草をしたり、お尻のポケットのあたりを触れたりしたけれど、どうもどこからもあるはずの切符が出てこない様子。


 改札を挟んで七、八メートル離れた場所にいた僕は、『またか……』と、思わず苦笑いをしてしまった。


 そうするうちに焦った小夜ちゃんは、泣きそうな顔になって改札の柵に近づいてきた。僕も同じように柵まで近き、「慌てんでええから、落としてない限りどこかにあるんやし」と、柵のこちらから声をかける。すると小夜ちゃんは、キュロットスカート、次に半袖シャツの胸ポケット、そして最後に薄い上着の両側のポケットに手を突っ込んだ。


 と、そこでようやくほころんだ笑顔に変わった。


 上着のポケットから外に出したその手には、しっかりと硬券が握りしめられていた。


「もう! センパイ、慌てたわ!」


 改札を出た小夜ちゃんが、まるで僕が悪いかのように手で背中を叩いてきた。


「え、べつに俺、なんもしてないし。それより小夜ちゃん、なんでアッチからの電車で来たん?」


 僕が神戸方面を指さすと、また小夜ちゃんの顔が赤くなる。そして少しふくれっ面になったかと思うと、うつむき加減になにやらブツブツと言ったのだった。その横顔にかかる黒い髪の毛は以前よりも長くなっていて、ショートカットとミディアムの中間くらいにまで伸びていた。


「え?」


 ブツブツと、小夜ちゃんが言った言葉がよく聞こえなかった僕が聞き返すと、悔しそうな表情になった小夜ちゃんが背伸びをするように口を突き出した。


「そやからっ! 乗り換えたんが『快速』いうヤツやって、垂水たるみいうとこまで行ってしもて! で……、さっきの電車で引き返した……」


「フッ、そやから言うたやん。各駅停車に乗ならあかん言うて」


「そんなん言うても、忘れとったんやもん!」


「ああ、忘れとったんやったらしゃあないな」


「もう! ちょっと自分が大学生になったからっいうて、私を子供扱いするような口ぶり!」


「いやごめん、そんなこと思ってないって」


 と、そんな会話をしながら階段へと向かった僕は、あの日も改札のところで小夜ちゃんとこんなやり取りをしたなと、また二年前のことを思い出していたのだった。

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