第6話 決着、予選ラウンド!

 1

 七時二十九分にシン・ヨコハマ駅を出発した新幹線あいな九号は、多くの乗客を乗せて東海道を西へ進み始めた。

 「ミニ四駆選手権全国大会」の予選ラウンドは十月のフクオカ、十一月のナゴヤを経て、十二月、最終のオオサカ大会を迎えた。


「うわっ、やっぱ混んでるよ」


 自由席の車両に入ったたくみが、思わず声をあげた。座席は半分ほど空いているものの、《すーぱーあゆみんミニ四チーム》の五人がまとめて座れるだけの余裕はない。


「やっぱり、この間と同じように、早めに出てトーキョーから乗った方が良かったかしらね……」


 奏がため息交じりに言う。


「あゆみがしっかり、早起きできるって言ってくれれば」

「あはは……まぁ、遅刻はしなかったんだから、よかったじゃん」


 たまおの指摘に、あゆみは半笑いするしかなかった。


「じゃあ、それぞれ空いてる席に座りましょう。乗り過ごしたりしないようにね」


 奏の指示にうなづいて、五人はそれぞれに席を探した。三人掛けの座席の中央が埋まっていたり、二人掛けでは窓際だけ埋まっていたりと、並んで座るのも難しい。ルナは、同じ年頃の少女が座る二人掛けの席を見つけた。


「こちら、お隣よろしいですか?」


 少女は、読んでいた文庫本から目を上げた。クラシックなセーラー服の襟元に、わずかにかからない黒髪。やや太めの眉の下、力のある瞳。真面目そうな人、がルナの印象だった。


「はい、構いませんが」


 落ち着いた声で返事をする姿に、ルナは好感をもった。しかし、少女に向けた笑顔は、座席に身を預けると同時に、深いため息にかき消された。


 姉、サリーヌとの再会。王室から飛び出し、外の世界へ飛び出した二人の姉は、確かに自分にはない輝きを掴んでいた。ライブハウス、客席で振られるライトに照らされた姿は、思い出すと懐かしいような、拒絶したいような感覚にとらわれる。ルナの心は、偏光スプレーで塗られたボディのように、相反するふたつの色味を帯びていた。


「あの」

「えっ?」


 急に声をかけられて、ルナは僅かに座席から腰を浮かせた。隣の席の、真面目そうな少女が、力のある視線を投げかけていた。


「もしかして、ミニ四駆選手権に出られる方ですか?」

「あっ……はい……」


 別に恥ずかしがることもないのだが、ルナの頬は赤く染まっていく。


「やっぱり。《すーぱーあゆみんミニ四チーム》の猪俣ルナさん」

「えっ、どうして」


 少女は、開いていた文庫本を閉じた。


「私も、そうだから。サイタマ代表、《サイコジェニー》の岡田あきらです」

「《サイコジェニー》って……」

「そう、この後、あなたたちと当たるチームです。奇遇ですね」

「あっ……でも、カナガワとサイタマ、エリアとしては近くですから。これも何かの縁、どうかよろしくお願いします」


 ルナは深く頭を下げた。その気品ある立ち振る舞いに、あきらは戸惑う。


「いやいや、そんな丁寧にされても。私達、この後レースするんだよ?」

「サーキットに入るまでは、同じミニ四駆仲間でしょう、私たち」


 言いながら、大分あゆみの影響を受けているな、とルナは感じた。

 ……ミニ四駆がサレルナを強くしたのかな……

 サリーヌの言葉が不意に思い出される。ルナは目を細めた。


 2

 それからしばらく、あきらとルナの間で会話の花が咲いた。他愛もない学校生活の話から、ミニ四駆と《バーサス》に関するテクニカルなトークまで。自分でも意外なほど、あきらとの会話はルナを刺激してくる。だがその刺激は自身を傷つけたり、返答に困るような内容を含んではいない。ミニ四駆で《選手権》に出場し、全国大会にまで勝ち進むこと。それは参加している全員にとって、この上なく貴重な共通体験なんだな、とルナは話しながら納得していた。

 しかし、前回大会の舞台となったナゴヤを過ぎると、少しずつ、それぞれに緊張があらわれ始める


「私達、二敗しちゃってるからね。《フライング・フレイヤ》と《V・A・R》に。あのニチームとは、全然レベルが違うから」

「はい……」


 《すーぱーあゆみんミニ四チーム》は一勝一敗。暫定ランキングではEブロックの4チーム中、2位につけている。最下位の《サイコジェニー》が逆転して予選を通過する可能性は極めて少ない。


「猪俣さんたちの、レースは観てるよ。すごいね、あなたたちのチームのマシン」

「いえ、すごいのはたまおちゃん、たくみちゃんのデクロスよ。もちろんリーダーとサブリーダーのマシンも」

「そう? 猪俣さんの金色のフェスタジョーヌ、映像で見たけど上品でカッコいいと思うよ」

「いえいえ、結果がぜんぜん出せてないですから。リーダーやみんなに頼りっきりで」

「そんなことないよ。私達だっていいトコ見せれてないし。でも」


 そこまで言って、あきらは言葉を飲み込んだ。正面に向けられた視線は、前の座席を貫かんばかりの強さがある。ルナは次の言葉を待った。


「……でも、何かを、残したい」

「残す?」

「うん。私達の爪痕というか、私達がたたかったっていう証を。私のチームは、《サイコジェニー》は、この大会限りの、チームだから」

「それって、どういう」

「あ、ごめんね。余計な事しゃべりすぎたわ」


 スイッチが切り替わるように、あきらの視線から力が抜ける。

 それ以降、あきらとルナの間に言葉が交わされることはなかった。共通体験があると思ったのも一瞬。やはりそれぞれが置かれている環境は違うし、喜びも、悲しみも、それぞれがつかむべきもの、つかむべくしてつかむものであって、他人から取り除いたり、分け合ったりすることはできない。

 ルナがそんな事を考えているうちに、新幹線はシン・オオサカ駅に到着した。


「じゃあ、また後で」

「よろしくお願いします」


 そっけない言葉をわずかに交わして、ルナとあきらは別れた。


 3

 第三戦の舞台となるのは《モーギュウドーム》。シン・オオサカ駅からは在来線を乗り継いでいく必要があるが、ナゴヤと同様、会場近くに宿泊施設がない。そのため、ターミナル駅であるオオサカ駅近くのホテルが《財団》から指定されていた。


「まあ、ここまでの流れが、前回と同じなのは、別に文句ないわよ」


 奏が口元を震わせながら言う。


「だからって、またもや私の部屋でミーティングをしなくったっていいでしょう!」

「まあまあ会長」


 ベッドの中心を占拠したあゆみが、柔らかなスプリングに身をゆだねる。


「前回、こうやってミーティングして勝てたんだから、今回も、まあ、大丈夫だよ」

「私は大丈夫じゃない!」

「ナーバスになるのもわかります。ただ、ここは会長の器の大きさを見せていただいてもいいのではないでしょうか」


 ルナが芝居がかった風に言う。その振る舞いに奏はたじろぐ。これまで噂レベルに過ぎなかった、ルナの出自の一端を見せつけられた。その事実は、たとえチームメイトであったとしても、気にせずにいられるものではない。


「うー、まあ、時間も限られてるし、やっちゃいましょう」

「流石」

「会長、お願いします!」


 茶化すたまおとたくみを一瞥してから、奏は手元のプリントに目を落とす。


「えー、みんな分かってると思うけど、今日のレースで予選ラウンドは終了です。4チームでつくられた各ブロックの上位2チームが、来年の決勝に進むことができます」


 ふざけ半分だった空気が、ピリッとした緊張感に包まれる。


「私たち《すーぱーあゆみんミニ四チーム》がいるEブロックの順位をおさらいしておくと、一位が二勝の《フライング・フレイヤ》。二位が《すーぱーあゆみんミニ四チーム》、一勝一敗。三位が同じく一勝一敗の、《V・A・R》」

「あれっ、同じ成績だったら同率二位なんじゃないんですか?」


 たくみが首をかしげる。


「同率の場合は、直接対決の結果で勝った方が上にランキングされるの。前回の第二戦で私たちは新町さんたちに勝ってるから、それでよ」

「そっか……」

「続けるわね。四位は、二敗の《サイコジェニー》。そして今日の相手がこのチームです」


 ルナが眉をひそめる。新幹線で会った、岡田あきら。決して力で劣る相手には見えないが、それでも勝つことができない。強い力を感じる瞳が思い出された。


「会長、あたしたちは、どうすれば決勝に進める?」


 身体を起こして、あゆみはベッドの中心であぐらをかく。


「そうね。条件別に整理するわ。まず、私達が勝った場合。……勝った場合は、もう一レースの結果に関わらず、Eブロック2位以内が確定します」


 四人の口から、小さく感嘆の声が漏れた。

 奏は、仮に《すーぱーあゆみんミニ四チーム》が勝っても、《V・A・R》が《フライング・フレイヤ》に勝つと二勝一敗で三チームが並んでしまうことを知っていたが、それについては黙っていた。誰からも指摘がないことを確認して、言葉を続ける。


「で、負けた場合……あんまり考えたくないけど……。もう一レースで《V・A・R》が勝つと、私達は敗退」

「そっか……」


 あゆみが舌打ちしながら言った。


「まだ可能性はあるわ。もう一レースで《フライング・フレイヤ》が勝った場合が難しいの」

「難しい……何故ですか?」


 ルナが右の頬に手を当てる。


「《フライング・フレイヤ》が三勝で一位なんだけど、残りの三チームが一勝二敗で並びます。しかも、三チームの間で勝ったり負けたりしてるので、直接対決の結果でも決められません」

「あっ、確かに」

「その時はどうやって決めるんだ?」


 ルナの背中越しに、あゆみが身を乗り出す。


「その場合は……2位の回数が多い方が上位にランクされます」

「2位の回数?」

「ええ。私たちは第1戦の《フライング・フレイヤ》戦で涼川さんが2位に入ってるし、この間の《V・A・R》とのレースでも、私が2位を確保しています。《V・A・R》も《サイコジェニー》も、《フライング・フレイヤ》とのレースでは上位3位までに入れていません」

「と、いうと」


 奏が、咳払いしてから言う。


「1位をとられても、2位を確保できれば他のチームの動向に関係なく決勝に進出するということです」


 2位狙いでも決勝に進める。これは、喜んでいいのかどうか。誰もが、次の言葉を思いつかず、ただしばらくの間、黙っていた。


 4

 軽い昼食をとって、《すーぱーあゆみんミニ四チーム》はホテルを後にした。電車で10分ほど移動した後、徒歩でまた10分。途中、線路際の細い道に戸惑いながらも、どうにか迷うことなく、目的地にたどりついた。


「《モーギュウドーム》……。あたしたちの、運命が決まる場所。そう、あたしたちの、とびっきりの走りを見せてやろう!」


 あゆみが決意を口にしている間に、四人は奏を先頭にして進んでいた。あゆみは慌てて追いかける。

 入場ゲート前の広場には、それまでの会場にはない、張りつめた空気がすでに充満している。出場20チームのうち、既に決勝進出が確定したチームはほとんど無く、大半のチームが予選落ちの可能性を抱えている。続々とやってくる少女たちの顔からは、ことごとく表情が消えていた。


「あ、岡田さん!」


 ルナは、視界を横切った後ろ姿を追いかけようとする。だが、隣を進んでいた少女の肩にぶつかってしまった。


「ごめんなさい!」


 レースには場違いに思える白衣をまとった少女は、長い髪をなびかせながら、ほほ笑む。


「大したことはない。焦るのはわかるが、気を付けた方がいい」

「すみません……」


 頭を下げ、顔をあげると、すでにあきらの姿は無かった。


「ルナ先輩、どうしたんですか? 慌てちゃって、らしくないですよ」


 たくみは、いつもと変わらず軽い口調。


「あ、ごめんね。さっきの新幹線で、《サイコジェニー》のリーダー、岡田さんと隣になって」

「偶然、いや、これは、必然」

「で、そのリーダーさんと何かあったんですか?」


 たまおの言葉をさえぎるようにして、たくみが問いかける。


「うん、ちょっと……。気になることがあって」

「猪俣さん」


 先頭を歩いていた奏が振り返る。


「それ、落ち着いたら聞かせてくれる?」



 大会が行われる場所が変わっても、チームごとに割り当てられたピットスペースに入ってしまえば、パーテーションに囲われた、これまでと同じ光景が広がっている。


「『この大会限りのチーム』か……」


 奏は腕を組んだ。決定的な弱点や、対抗する方法に直接つながる情報ではない。ただ、だからといって聞き流せるほどの小さな話ではない。


「おそらく、学校に正式な活動として認められているのではないのでしょうね」

「そっか……」


 あゆみの脳裏に、数ヶ月前、奏から投げかけられた言葉がよみがえる。

 ……証明しなさい! あなたがミニ四駆で勝てることを。それができないなら、トゥインクル学園中等部の部活としては認められない!


「いいじゃん、気にしなくて」

「あゆみちゃん……」


 さらりと言いのけたあゆみを、ルナは意外そうな瞳で見た。


「コースに出ちゃえば、チェッカーを目指すライバルだもん。余計なことは考えないに限るよ」

「さっすが、あゆみ!」


 たくみが軽く飛び跳ねながら言う。


「ルナ先輩が考えていることは、分かります。ただ……」

「ただ?」


 たまおが、ルナを見据えた。


「いえ、言わなくてもいいと思います」

「そうね……ごめんね」


 ルナは、たまおの肩に軽く手をのせた。緊張が、手の平から伝わってくる。

《レーススタート、30分前です》

 ドーム内に反響するアナウンス。あゆみは高い天井を見上げた。


「よし、じゃあ行こう! あたしたちの全力をぶつけるサーキットへ!」



 5

 氷室蘭は、セッティングを終えた《シャドウシャーク》を傍らに置いて、タブレットの画面に指を走らせていた。

 パーテーションに囲われたピットでは、自らが率いるチーム《フロスト・ゼミナール》のメンバーが戦略の確認に追われているが、蘭がそれに加わることはない。リーダーである自分が過程の段階で加わることはしない。メンバーによって出された結論に対しての意見を伝えるだけ。それが蘭のポリシーであった。


「猪俣ルナ……か」


 チームメンバーのプロフィールを開いて、蘭はほくそ笑む。


「《すーぱーあゆみんミニ四チーム》……瀬名が言ってたチームね。なるほど」

「失礼します、氷室先輩」


 傍らから、蘭と同じ白衣をきたメンバーの声が飛ぶ。ウインドウは開いたまま、蘭はタブレットを置いた。


「何?」

「レースの戦略についての御意見をいただきたく」

「わかった、聞かせて」


 蘭は腕を組み、足を組んで目を伏せる。その威圧感にメンバーは一瞬ひるむが、意を決してメモを読み上げる。相手チームに先行された場合、自チームが先行した場合、途中のアクシデントの有無など、作戦は複数パターンがレースの流れとともに変化する複雑なものであった。蘭は、読み上げる声が終わるまで一言も発さずに待っていた。


「……以上です」

「なるほど」


 蘭は目を開いた。


「いかがでしょうか」


 メンバーは恐る恐る聞く。


「ひとつだけ。3ストップの戦略。実に興味深い。でも、成立する?」

「……というと」

「全開で飛ばして一回ピットを増やす作戦だけど、それ、できるの?」

「あ……いや、我々のマシンの実力であれば、ピットインして後退しても、コース上で抜いていくのはたやすいかと」


 蘭はしばらく動かない。意見を述べたメンバーからすると、一刻も早く終わってほしい時間が続く。


「どうだろう」

「は」

「どうだろう。大抵のコースであれば、私達の《シャドウシャーク》なら、それも可能だろう。だが、どうしても抜けないコースというのも《バーサス》にはあるものだ」

「そ、そうですか」

「そうだよ。わかってないな」

「すみません」

「まあ、いい。ログインすればコースもわかる。準備を始めようか」

「わかりました。ありがとうございます」


 チームメンバーは素早く頭を下げて、その場を離れた。


「……邪魔が入ったな」


 蘭は、スリープモードに入って画面が暗くなったタブレットを持ち上げた。姿勢変化を感知して、タブレットの画面が明るく変化する。そこにはまだ、ルナのプロフイールが表示されたままになっていた。


「果たして、また会うことはあるかな」



 6

 予選第三ラウンドの舞台は、ハンガリーのグランプリコース《ハンガロリンク》に設定された。

 丘陵地につくられた全長3.975キロメートルのショートコースには、大小合わせて16のコーナーが存在する。ほぼ平坦な路面には、吹き込んでくる乾燥した風によって土埃が舞い、レコードラインを外すと大きくタイムをロスしてしまう。オーバーテイクを試みればタイムをロスし、並びかける間もなく次のコーナーがあらわれる。七百メートルにおよぶメインストレートエンドの第一コーナー以外はほとんど抜きどころのないサーキットと言ってもよい。

 くじ引きの結果、インサイドとなる奇数グリッドは《すーぱーあゆみんミニ四チーム》、アウトサイドの偶数グリッドは《サイコジェニー》となった。

 ログインのシークエンスを終え、《バーサス》内のピットに入ったあゆみは、ピットウォール越しにホームスレートを見た。グランプリの開催時期に合わせ、アスファルトには真夏の日差しが照り付けていた。


「あれが、《サイコジェニー》のマシンか……」


 シルバーの車体は、四つのタイヤを包み込むように滑らかな曲線で構成されている。キャノピーは低く構え、流れるようにリヤエンドと一体となるスポイラーは、高い空力特性を控えめに示していた。


「マッドレイザー。MAシャーシとしては比較的新しい方ね」


 奏がピット内のモニターをチェックしながら言った。

 ギャラリー向けに発信される映像やリアルタイムの順位表、またレースに関する諸々の情報は、ピットの天井近く、そしてピットウォールスタンドに設けられたモニターに映し出される。今回のラウンドは予選通過がかかっているということで、ひとつのモニターにはレースの順位だけでなくブロックごとの総合成績が常時表示されるようになっていた。


「こんなの出されてたらレースに集中できないよ」


 たくみが不満をあらわにする。


「だけど、状況判断には役立つ」


 冷静をよそおってたまおが言った。


「そうだね、でもさ!」


 ピットウォールから駆けてきたあゆみは、たくみとたまおの肩を両腕で抱え、白い歯を輝かせる。


「勝つよ! ううん、ワンツーフィニッシュ! それで文句なく決まるんだ! そうだよね、会長?」

「え、えーと、そうね。二勝一敗で三チームが並んでも、このレースでも二位を取れれば、大丈夫、かな」

「会長、そこはビシッと断言してよ!」

「断言……していいものか。たくみ、根拠のない楽観は禁物では」

「たまお! そこはもう、勢いで言っちゃおうよ!」


 緊張を無理やりかき消すような笑顔の輪から、ルナは一人離れてホームストレートを見つめていた。

 ……でも、何かを、残したい……

 ……私達の爪痕というか、私達がたたかったっていう証を……

 言葉の意味を確かめておきたかった。その上で走りたかった。そんな思いを無視するように、スタート五分前を知らせるサイレンが《バーサス》に響いた。


 7


 Virtual Circuit Streamer <V.S.> Activate…

 -COURSE: Hungaroring

 -LENGTH: 3.975 km

 -LAPS:70

 -WEATHER: Sunny

 -CONDITION: Dry


 Girls, START YOUR MOTOR.

 FORMATION LAP ENDED…

 Signals all red…

 Black out!

 GO!


 LAP1/70

 午後5時、レーススタート。先頭の涼川選手の《エアロサンダーショット》と、三番手スタート、恩田選手の《エアロアバンテ》が好ダッシュを見せる。《エアロアバンテ》は一コーナーの進入でインを進み、二番手の《マッドレイザー》、岡田選手を早くもパス。《すーぱーあゆみんミニ四チーム》がワンツー体制を構築する。二台の《マッドレイザー》の後ろ、五番手に《フェスタジョーヌ》。それ以降は両チームが入り乱れる接近戦でオープニングラップを終えた。


 LAP2~11/70

 大径バレルタイヤの《エアロサンダーショット》は、低速から中速域のコーナーでは立ち上がり加速に劣る。さらに涼川選手はローグリップのハードタイヤを選択していることもあり、ラップタイムが伸び悩む。一方で、低速からの加速にすぐれるローハイトタイヤを履く《エアロアバンテ》はパワーを持て余しており、先頭の二台が接近した形で周回が重ねられていく。三番手の岡田選手はホームストレートでラインを外し、先頭の二台をけん制するが、舞い上がる土埃に阻まれて仕掛けるには至らない。離れて走行していた《フェスタジョーヌ》も追いつき、全十台がまるで列車のように連なる状態になってしまった。


 LAP11~19/70

 膠着状態が崩れたのは11周め。《すーぱーあゆみんミニ四チーム》は、ラップタイムが伸び悩む《エアロサンダーショット》に代えて、《エアロサンダーショット》を先頭とする作戦に変更することを決断する。一コーナー、アウト側にマシンを寄せて恩田選手を先行させた涼川選手だったが、レコードライン外に溜まった砂を踏んだことでバランスを崩してスピン。一方で通常のラインとは異なる進入となった《エアロアバンテ》も加速が鈍る。右向きの一コーナーとは反対、左の複合コーナーである2コーナーで岡田選手の《マッドレイザー》の先行を許してしまう。《エアロサンダーショット》は最後尾まで落ちてしまい、涼川選手たちの作戦は完全に裏目に出てしまった。


 LAP20~45/70

 二番手の恩田選手は先頭の《マッドレイザー》追撃を図りたいところだったが、《エアロサンダーショット》の背後でラップを重ねたことでタイヤの摩耗が予想以上に進んでいた。ラップタイムの低下を感じた20周目、恩田選手はいち早くピットインしてペースアップする作戦。しかしフレッシュタイヤでの追い上げは、ピットアウトしたところで《サイコジェニー》の選手たちに囲まれてしまい叶わず。代わりにペースを上げたのは猪俣選手の《フェスタジョーヌ》。25周目、タイヤ交換のタイミングで《マッドレイザー》2号車をかわして2番手に浮上。同じ周に余裕をもってピットアウトした岡田選手を追いかけていく。


 LAP45~60/70

 岡田選手の《マッドレイザー》と猪俣選手の《フェスタジョーヌ》は10秒前後の差をキープしたままレース中盤を進めていく。3番手の《マッドレイザー》2号車以下は30秒以上離れ、優勝争いは両チーム1台ずつに絞られた。猪俣選手がペースを上げると岡田選手もそれに反応してタイム差をキープする。マシンの特性がコースにマッチした岡田選手はレースを完全に支配していた。

 50周目に岡田選手がピットインしてタイヤを交換。先頭に立ったタイミングで猪俣選手は《フェスタジョーヌ》を全開アタックさせるが、新品タイヤの《マッドレイザー》のペースは速かった。猪俣選手がタイヤ交換を指示して完了した時、2台の差は20秒にまで広がっていた。残りは10周である。


 8

 あきらはピットウォールのスタンドで、頭上のモニターを見上げていた。眉は寄せられ、腕は固く組まれている。ここまでの完璧なレース展開が、かえって現実感を希薄なものにしていた。

 開幕戦と第二戦のコースはパワーが求められるレイアウト。旋回性能と加速力に特化させた《サイコジェニー》のマシンにとっては厳しい戦いだった。《マッドレイザー》というクルマを選んだ自分を呪ったこともあった。だが今、ハンガロリンクという格好の舞台で、シルバーの車体は誇らしげに輝いていた。

 目を別のモニターにやると、Eブロック全体の予選順位がリアルタイムに表示されている。もう一つのレース、同じレイアウトのコースで行われている《フライング・フレイヤ》と《V.A.R》のレースは、大方の予想に反して《V.A.R》がリードする展開となっていた。このままでいくと《フライング・フレイヤ》と《V.A.R》が2勝で勝ち抜けとなる。

 たとえこのレースで勝ったとしても、決勝に進める可能性はほとんどない。それでも、レースの勝利という結果を残せる。それを考えると、冷静ではいられない。


「あきら」


 隣に座ったサブリーダーが声をかける。


「後は、2位の《フェスタジョーヌ》のペースに合わせていけばいい」

「うん、そう……ね」

「後ろにつけられても、このコースなら、よっぽどのスピード差がなければ抜かれない」

「わかってる」


 無理に笑顔をつくったあきらは、タイミングモニターに刻まれるラップタイムを見る。《フェスタジョーヌ》は最後のスパートに入ったと見え、1周につき1秒以上速いタイムで追い上げている。20秒あった差は15秒にまで縮まったが、残りは5周。


「……わかってるよ」


 ひとり言ち、あきらは振り返ってピットを見た。

 学校に公認された活動でなければ出場できない地区予選への出場を、学校中駆けまわって頭を下げ、期間限定での部活動として認めさせた日。サイタマ地区大会、優勝候補にすら挙げられなかったチームが、大逆転で勝利をもぎ取った日。そして、《フライング・フレイヤ》に、《V.A.R.》に、何の抵抗もできずに敗北した日。ひとつひとつの記憶がよみがえり、それを支えたチームに対して、あきらは感謝の想いしかなかった。

 その想いが、先頭の《マッドレイザー》を支えている。モニターに大きく映されたマシン。最終コーナーを立ち上がってホームストレート。順調に見えたが、しかし、異変はじわじわと《マッドレイザー》をむしばんでいた。そして、それは目に見える形であらわれてしまった。

 モニターがの隅を横切った、黒い物体に、あきらは気づいてしまった。


「え……今、何か、パーツが……落ちた?」



 9


「よけて!」


《Copy.》

 ホームストレートの真ん中に、《マッドレイザー》から外れた部品が転がっている。《フェスタジョーヌ》はなんとか接触を避けたが、直撃していればリタイヤは必至だった。落ちていたのはリヤステーの一部か、ローラーか。ビスやナットではない、かなり大きい部品のように見える。


「どうなってる?」


 あゆみが叫ぶ。


「先頭の《マッドレイザー》、ペースが落ちてる。 リヤステーが壊れて、ローラーが機能してないわ」


 奏がコースの映像と各車のラップタイム、それぞれ表示されているモニターを見ながら状況を読み取る。


「チャンスだ、ルナ先輩!」

「先輩、お願いします」


 たくみとたまおが祈るような声で言う。


「えっ……」


 口には出さなかったが、ピットアウトした時点で、ルナは勝利をあきらめていた。ブロック内の順位を示すモニターを見てしまったことを、激しく後悔した。そして、ここまでやってきたことは間違っていなかったと思いながらも、どうやって自分を納得させようか、そんなことを考え始めていた。だが、それは現実から逃げていたに過ぎない。《フライング・フレイヤ》が、《V.A.R》がどんなレースをしていようと、今の自分たちには関係ない。このコースで、2位を走行している《フェスタジョーヌ》にしか、いま目の前にあらわれたチャンスを掴みにいくことはできない。それこそが事実なのだと理解し、震える手を握って、ルナは言った。


「わかりました。《フェスタジョーヌ》、フルアタック!」


《Copy.》

 ゴールドの車体に鞭が入り、《フェスタジョーヌ》はタイヤをきしませながら前へと進んでいく。《マッドレイザー》はテールスライドしながらも止まることなくレースを続けているが、2台の差は10秒を切り、5秒を切り、残り2周で3秒台に突入した。


「勝負するなら、ファイナルラップの一コーナー……。そこしかありませんね」


 コース終盤のストレートで差は2秒。最終コーナーのヘアピンへ、《マッドレイザー》と《フェスタジョーヌ》はひとつのマシンであるかのように進入する。


「《フェスタジョーヌ》! 今よ!」


《Copy. but Negative.》


「えっ?」


 ホームストレートへ向けて加速を始めるポイントで、《フェスタジョーヌ》の車体が大きくスライドする。ここまでの追い上げで、タイヤのグリップ力が低下していたのだ。二度目のタイヤ交換以降、はげしく消耗しながらも路面に食らいついてはいたが、その限界があらわれはじめた。一方でトラブルに見舞われながらも終始タイヤを酷使せず、余裕を持った走行をつづけていた《マッドレイザー》は確実な加速でファイナルラップへ入っていく。マシン一台分の間隔をおいて、二台はホームストレートを駆け抜けていく。

 スピードでは《フェスタジョーヌ》が上回っている。しかし、あきらもそれを理解して、レコードラインのさらに内側へマシンを寄せていく。ルナは、外側へラインを変える。だが、それでは抜けないことは自覚していた。


「どうしたら……!」


 二台は並んで一コーナーへ進入する。フルブレーキングの白煙が双方から舞い上がるが、スピンすることなく《マッドレイザー》がイン側を守る。《フェスタジョーヌ》は外から並びかけるが、コース上に行き場をなくしてハードなブレーキングを余儀なくされる。

 コーナーからの脱出でリヤを大きくスライドさせながら《マッドレイザー》は《フェスタジョーヌ》の進路をふさぐ。右回りの一コーナーから切り替えしての左回り、二コーナーでも順位は変わらない。ここから先は、低速コーナーが続くセクション、抜きどころは無いと言ってよい。


「もう……」


 ルナが顔を伏せる。しかし、インカムを通じて声が聞こえた。


「ルナちゃん、まだチャンスはある!」

「猪俣さん、冷静になって!」

「ルナ先輩、《あれ》を使うんだ!」

「《Z-TEC》。ルナ先輩なら、大丈夫です」


 でも……と言いかけた時、聞こえるはずのない、だが聞きなじんだ声が耳元で語りかけた。

 世界をかける歌姫ではない、同じ気高い血を分けた姉と、二人だけになったわずかな時間、その記憶が呼び覚まされる。

 ……好きなことができたんなら、とことんやってみればいいさ。でも、忘れるなよ。お前ひとりでやってるんじゃないってことを。大事なことは……


「そう、大事なことは……」


 二コーナーを立ち上がって、二台は完全にテール・トゥ・ノーズの状態となった。《マッドレイザー》の速度は大きく落ち込んでいたが、レコードラインを外さない走りで踏みとどまっている。既に差は一秒を切っていた。


「私が欲しいものは、私が守りたいものは!」


 紅潮していく頬に同調するかのように、システムが新たなモードの準備に入る。《フェスタジョーヌ》の周囲に、ほのかな光が集まり始めた。


「たまおちゃん、たくみちゃん、会長、そして、あゆみちゃん! このチームにいるということ! このチームで走り続けるということ! だから、まだ、ここで終わるわけにはいかないの! 《Z-TEC》、スタンバイ!」


《Copy. Z-TEC Activates》

 瞬間、光のゲートをくぐるかのように金色のボディが一際輝くと、《フェスタジョーヌ》の車体はブラックに姿を変えた。うっすら透き通った表面に、深みを持ったゴールドのラインが走る。


「あれは!」


 奏が声を上げる。


「会長、知ってるの?」

「ええ、話には聞いていたけど、見るのは初めて。《バーサス》に選ばれた、ごくわずかなマシンだけが持っている、進化した姿。あれは、ブラック・スペシャル」

「ブラック・スペシャル!」


 奏の言葉を聞きながら、、あゆみはただ、こぶしを握り、戦況を見つめることしかできなかった。

 チームメイトの動揺に惑わされることなく、ルナは両手を広げる。


 ……ふり仰ぐ 遠き御空(みそら)に 思い馳せ

 ……うち降りたもれ 黄金(こがね)の雨!

 ……いま、すべてを解き放て!

 プリュイ・ドール!!


 光があふれる中心に、空間が切り取られたかのように暗く、黒いシルエットが浮かんでいる。それは、まるで月蝕を思わせる、厳かな光景であった。

 コース半ばにある、わずかなストレート。通常であれば抜きどころになりえない地点で、《フェスタジョーヌ》は加速する。限界を超えた加速が風を起こし、コース上に溜まった塵が舞い上がる。塵は《Z-TEC》の光を浴びて、金色の雨のように降り注ぐ。


「さあ、行きましょう」


 ルナのささやきに反応して、《フェスタジョーヌ》は《マッドレイザー》の背後につく。しかし、あきらは抜かれまいと、片側の車輪をダートに落として進路をふさぐ。フェアとはいいがたいラフプレーだが、構ってはいられなかった。


「岡田さん、ごめんなさい」


《フェスタジョーヌ》はさらにその外側、四輪をダートに落とす。だが《ブラック・スペシャル》と化したマシンのスピードは、荒れたダートの上でも落ちない。並ぶ間もなく前に出ると、何事もなかったかのようにコースに復帰する。《マッドレイザー》は逆に、リヤセクションのダメージを深くしてしまった。走ることはできても、《フェスタジョーヌ》に付いていくことはできない。

 勝負は、一瞬で決着した。


 10

 汗に濡れたバイザーを外す。ハンガロリンクの乾いた風は消え、パーテーションのベージュの壁が視界の大半を占めている。ルナは、全身を包む疲労感に、思わずため息をついた。


「やったよ!」


 ルナの胸元に、あゆみが飛び込んだ。突然の出来事に、ルナは身を固くする。


「どういうことですか?」


 《V.A.R.》が《フライング・フレイヤ》の前を走り、《すーぱーあゆみんミニ四チーム》を含めた3チームが二勝一敗で並んでいたはず。ルナは最終結果を見ずに《バーサス》からログアウトしたために、いまの状況がわからない。


「あゆみちゃん、どうなったの?」

「あ、あ、あ! あたしたち、決勝に残れたんだよ!」

「えっ?」


 嬉しいよりも先に、なぜそうなったのかが理解できない。困惑するルナに、奏が声をかけた。


「あっちのレースでも、ファイナルラップで逆転があったのよ」

「《フライング・フレイヤ》、羽根木さん! そうなると」

「そう、《フライング・フレイヤ》は三連勝でトップ。私たちは二勝一敗で二位になったのよ」

「そうですか……」

「そうだよぉ~!」


 胸元に、涙があふれた顔を押し付けてくるあゆみ。冷静を装いながらも、結果をかみしめて瞳がうるんでいる奏。姉妹ではしゃぎ、手をつないで飛び跳ねるたくみとたまお。ルナはしかし、どうしても、ストレートに喜ぶ姿勢になれなかった。


「あゆみちゃん、ちょっと、もういい?」

「うわーん、ありがとうー!」


 引きはがすように、ルナはあゆみとの距離をとって、出口の扉へと駆け出していく。


「ちょっと、猪俣さん?」

「ごめんなさい会長、すぐ戻ります!」


 人工芝の上、立ち並んだピットの間を縫って、ルナは走った。ピットは予選ラウンドのブロックごとにまとまっているので、目指す場所までほんの数秒であったが、もどかしい感情がルナを焦らせていた。

 目的のピットに着いて、ルナは扉をノックした。鈍い音が消えぬ間にルナは声をかけた。


「ごめん下さい! あの、岡田さん! 猪俣です!」


 数分、いや数十分にも思える時間を置いて、扉は開いた。


「猪俣、さん……?」


 あきらの顔が見える前に、ルナは深く頭を下げた。


「ごめんなさい! あの、岡田さんたちの……その……大切な……」

「なに? いきなり……。それより、おめでとう」


 予想していなかった言葉に、ルナは顔を上げる。

 あきらの表情は、出会った時よりも透き通った、のしかかった何かが消えたような、印象をルナに与えた。


「ありがとうございます。でも、私たち、」

「あのね」


 ルナの言葉をさえぎって、あきらが言う。


「最後まで、一緒に走らせてくれて、ありがとう」

「岡田さん、《最後》って、どういう」

「そのままの意味よ。私たちのチームは、決勝へ進めなかった時点でおしまいってこと」

「やっぱり……」

「あなたに言ったよね。私たちの爪痕を残したいって」

「はい」

「あなたに抜かれるまで、ファイナルラップに入っても、それは勝つことだって思ってた」


 ルナは、あきらから目をそらす。《Z-TEC》という、マシンのポテンシャル以上のものを使って《マッドレイザー》を抜いたことを、ルナは悔いた。


「でもね、《フェスタジョーヌ》のテール、キレイに仕上げてあるリヤ周りが見えて、そうじゃないんだって思った」

「そうじゃないって、どういうことですか?」

「私のマシン、リヤローラーのビス、ちゃんと締まってなかったんだよね。前のレース、その前のレース、どうしようもないくらいに差がついて、きちんとメンテナンスできてなかった。でも、そんな風になっちゃっても、最後まで走り続けたい、って思った」


 ルナは、何も言う事が出来なかった。どんなエピソードがあったにせよ、勝ったのは《すーぱーあゆみんミニ四チーム》であり、あきらを抜いたのは自分である。その事実が、ルナにとっては苦しさでしかない。


「だから、あれでよかったと思う。私も不思議と、悔しいとか、悲しいとか、今はもうないもん」


 ルナは顔を上げる。確かに、あきらは泣いていない。


「最後の最後まで、ギリギリの勝負ができた。命が削られるような、チリチリした感じが味わえた。だから……だから、ありがとう。ファイナルラップまで、本当のレースができたから。それこそが、私が、私達が探していたものだから」

「岡田さん……」

「だから、負けないでね」

「えっ?」

「優勝、してね」


 あきらが、不意にルナの手を取った。つながれたあきらの手は、熱気に包まれていて、力強い鼓動が手の平と指先から聞こえてくるようだった。


「かしこまりました」


 手を握ったまま、ルナはこうべを垂れた。つないだままの手の甲に滴が垂れて、熱い点をひとつ作った。


 11

 二人の少女が、手を握り合ってかすかに震えている。蘭の目に映った光景を表現するのに、それ以上の言葉は必要ない。


「やはり、実に興味深いな」


 口元に手をおきながら、独り言ちる。

 レース終了とともに《バーサス》をログアウトし、パーテーションにより閉鎖された空間を出たところで、蘭はルナの姿を見つけた。本人が自覚しているかはともかく、彼女の存在感はとにかく目立つ。


「おい、教授!」


 背中にずっしりとした重みを感じる。キンキンした声の主を振り返らずに、突然飛び掛かってくるな、と蘭は抗議する。


「だって、こんなところでボーッと立ってるからさ」

「ボーッっとはしていない。見入っていただけさ。希望を掴んだ者と、希望を奪われたものの、美しい交流の様子をね」

「はーん、わかんないけど。んじゃ、教授のチームは残れたんだね?」

「当然だ。万代も、まあ、その様子じゃ聞くまでもないか」

「まあね~。でもって瀬名っちはどうなのかな?」

「さあ。心配するまでもないと思うが」

「だよね~。そんじゃ、また! 決勝かな、次は」

「どうだろう。その前にまだ何かある気もする」

「え~そうなの~? まあいいや、バイバーイ」


 飛び跳ねるように遠ざかる尚子の背中に気を取られている間に、蘭の視界からルナの姿は消えていた。


「氷室先輩、こんなところに」


 背中の方から、《フロスト・ゼミナール》のメンバーの声が聞こえる。


「ああ」


 白衣のポケットに両手を入れて、蘭は振り返る。つややかな長い髪がふわり、と広がる。表情は、その陰に隠され、うかがい知ることはできなかった。


 イベント終了を告げるアナウンス、引き上げていく観客の話し声、選手たちの歓声と落胆のため息。それらの音が混然と《モウギュードーム》を満たしている。

 ミニ四駆選手権全国大会は、予選ラウンドを終え、最後のレース、決勝ラウンドへと進んでいくこととなる。


 第六話 完

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