第5話 月と太陽と

1

 日曜日のナゴヤ駅。一台のバスがゆっくりとターミナルに入ってくる。未明にヨコハマを出発し、およそ六時間の行程を終えてナゴヤにたどり着いたバスは、長旅の疲れを車体にまとわりつかせているようだった。

 降りてくる乗客は、みな若者たちばかり。新幹線を使えば一時間半で済むところを、出費を抑えるために深夜バスを選ぶのだ。ひとしきり乗客が降りた車内を係員が見回ると、一人の少女がまだ席で眠っているのに気付いた。眉間にしわを寄せ、うなされつつも目が覚める様子はない。


「お嬢さん! 着きましたよ!」


 係員が声をかける。


「う……やめてぇ……お、お尻のお肉が……とれちゃう……」


 悪い夢を見ているのだろうか、少女のうわごとが聞こえてくる。


「お嬢さん!」

「うわっ!」


 一喝されて、川崎志乃ぶはシートから身体を起こした。ぼんやりした意識のまま辺りを見回す。バスはすでに停車していて、周りに乗客は誰もいない。何秒か考えてから、志乃ぶは慌てて立ち上がった。そして足元に置いたリュックを手に取って、そそくさとバスから降りていった。

 同乗していた客はすでにおらず、ターミナルにはバスのアイドリング音と車両誘導の笛の音だけが響いている。初めての場所で志乃ぶは心細くなるが、リュックの肩ひもを強く握って歩き出した。


「まだ……時間はだいぶあるわね」


 歩きながら腕時計を見ると、六時を少し回ったところだった。平日であれば通勤客がナゴヤ駅に集まり始めている頃だが、休日ということもあって人影はまばらだ。売店や飲食店はほとんどが開いておらず、足音がひたすら遠くまで響く。

 不意にぐう、と腹の虫が鳴く。誰も聞いていないはずだが志乃ぶは頬を赤くした。


「む……とりあえず、なんか食べなくちゃだわ」


 志乃ぶは辺りを見回した。駅に隣接したホテルへ続くエレベーターの乗り口を見つけたが、ホテルの朝食を食べられるような余裕はない。ここは手近な喫茶店か、ファストフード店を探すしかない。志乃ぶは駅地下街への入り口を見つけ、小走りで階段を降りていった。


2

 チャイムの音に続いてエレベーターの扉が開くと、真っ先にあゆみが飛び出した。


「もう、早く行こう! あたし、お腹すいちゃったよ」

 

 たくみとたまおが、あゆみを追いかけてエレベーターを降りる。


「そう慌てなくても大丈夫だろ?」

「朝食は逃げない……多分」


 さらに奏が続く。


「ちょっと、まだ朝はやいんだから、あんまりはしゃがないでよね」


 ルナは、エレベーターの「開」ボタンを押し続けた後、奏を小走りで追った。


「あ、あゆみちゃん、皆さん、待ってください!」


 「ミニ四駆選手権」の予選ラウンド三戦は、いずれも土曜日の夕方に行うスケジュールになっている。遠隔地からの参加者は当日中に帰ることができないため、「財団」は後泊用のホテルを全チーム分おさえている。だが「財団」が用意するのは宿泊施設のみで、食事については各チームの負担で適宜とるように案内がされている。せっかくのホテル泊まりだからと、奏は朝食バイキングの値段を調べたものの、ミニ四駆二台分以上に相当する金額に驚き、他で食べることを提案したのだった。


「地下街ってこっから降りていくのかな?」

「そうだって書いてあるだろ、あゆみ!」

「場所は調べてあるんだから、いくよ」

「あ、たまお、待ってよ!」


 あゆみを追い越して、たまおとたくみが下りエスカレーターに乗り込んだ。


「あの二人、元気になりましたね」


 ルナが不意に口を開いた。


「あの二人……って、たまおちゃんとたくみちゃん?」


 奏は、追いかけようと踏み出した足をその場で止める。


「そうね。距離感が自然になったっていうか、力が抜けてきたっていうか」

「レースも、あの二人のニューマシンに助けられたというか……私がきちんと走れていればもっと楽に進められたのに……」


 ルナの視線は遠くにあった。あゆみと、たまお、たくみの姿は既に無い。

 奏は、ルナの肩に手を置いた。ルナは反射的なに振り向き、奏の顔を見た。


「会長」

「チームとして勝てたんだから、《よし》としようじゃない」

「すみません、お気を使っていただいて」


 奏は軽く、ルナの肩をたたいた。


「別にいいのよ。じゃあ行きましょう」

「はい! あ、あと」


 奏は「上級生らしいことができた」と満足していたが、ルナの言葉に驚いて足元がよろけた。構わずにルナは言葉をつづけた。


「今、言う事じゃないかもしれないですけど、私、姉がふたりいるんです。今までお話ししてませんでしたが。でも、別に隠すようなことじゃないと思いまして」

「お姉さん? そうなの?」


 奏は知っていた。ルナが入部する直前に、セルジナ公国について調べていた時に、その事を匂わせる記述をいくつか見ていたからだった。猪俣ルナこと、マァス=ドオリナ=サレルナの皇位継承権は第三位。一位と二位の人物は、順当に考えればルナの兄あるいは姉ということになる……。奏の妄想にちかい想像は正しかった。


「たまおちゃんとたくみちゃんが、仲良くしてるのを見てたら、ちょっと思い出しちゃって……あ、別に、何でもないです」

「そう? それならいいけど」

「ごめんなさい、変なこと言っちゃって。急ぎましょう!」


 ルナは顔を伏せながら、小走りでエスカレーターに向かう。気落ちしているルナを励ましたはずなのに、うっかりルナのプライベートに踏み込む切っ掛けを作ったことを、奏は僅かに後悔していた。


3

 あゆみ達がたどりついた喫茶店は、ナゴヤに一号店がある全国チェーンの系列だけあって、店内は早朝にも関わらず観光客や若者で混みあっている。

 店員に人数を聞かれ、あゆみは「5人」と答えた。店員は店内を見回してから、少々お待ちください、と言い残して駆け出してしまった。


「こりゃ、全員かたまって座るのは無理かもね」


 店内に四人がけ、二人がけのスペースにいくつか空きがあるものの、つなげて五人分にできそうな場所はない。席の確認を済ませた店員が戻ってきた。


「四人がけのテーブルと、お一人ご相席でよろしければ、並んでご案内できますが」

「相席、ですか……。みんな、別にいいよね?」


 あゆみは振り返った。四人は口に出さないものの、異論がある様子ではなかった。


「お願いします」

「ではご案内します」


 店員に連れられて向かった先には、二人がけのテーブル席が二つ、つなげられている。もう一つのテーブル席には、中学生くらいの少女の姿があった。のぞき込むのはマナー違反と自覚しつつも、あゆみは横目で少女を見る


「ん?」


 長いツインテールの髪型は、つい最近、カナガワで見たことがある。強烈な記憶がある、ひとりの少女の姿が浮かんだが、ここはナゴヤだ。カナガワの女子中学生がふらっと来れる場所ではない。人違いだと思ったその時。


「あれっ、しーちゃん?」


 ルナが声をあげた。声をかけられた相手は、ビクッと全身を震わせて顔を上げた。


「猪俣……ルナ?」

「あっ、やっぱりしーちゃん! どうして?」

「その前に、公共の場で、その呼び方、やめてくれる?」


 志乃ぶは顔を赤くして抗議する。


「え、川崎さんなの? あの、地区大会では秀美の為に、ありがとう」


 奏が一礼した。


「あ、べ、別に、私は何にもしてないから、そんな、お礼なんて結構よ」


 志乃ぶはさらに顔を赤くして、手を振って講義する。


「とりあえずせっかくだから、席はくっつけちゃおう」

「はーい」

「承知」


 あゆみの号令に従って、たまおとたくみがテーブルを動かす。その間に、なぜか志乃ぶの皿とグラスは真ん中の席に移動させられ、「すーぱーあゆみんミニ四チーム」で志乃ぶ一人を取り囲むような席の配置になっていた。志乃ぶの拒否は受け入れられないまま、五人はトーストのモーニングセットを頼み、そそくさと食べ始める。


「あなたたち、なんでこんなところにいるのよ?」


 挨拶もそこそこに、小倉トーストをむしゃむしゃと頬張るあゆみたち。既に食べ終わっていた志乃ぶが声をあげた。


「あ、あれ? 知らなかったんだ。《ミニ四駆選手権》の第二戦」

「ちょっと、あなたそれでもリーダーなんでしょ? 口の中のものがなくなってから喋りなさいよ」

「あはは、ごめん」

「まあいいけど……そっか昨日か……で、結果はどうだったの?」

「うん、あたしはリタイヤしちゃったけど、たまおが先頭でゴールして、なんとか一勝」

「あら、よかったわね。 で、ルナはどうだったの?」


 ゆったりと紅茶を飲んでいた、ルナの表情が硬くなる。


「私は……クラッシュしちゃって。それよりしーちゃん、《選手権》を見に来たんじゃないのね?」

「あっ……いや、別にいいじゃない」

「なんでだよ、教えてくれてもいいじゃん」

「興味あり」


 ルナとたまお、たくみが身を乗り出して志乃ぶに迫る。志乃ぶは顔を遠ざけようとするが、プレッシャーからは逃れられない。


「くっ……しょうがないわね、ライブよ、ライブ」

「ライブ?」

「誰のライブだよ、そこまで教えてくれてもいいじゃん」

「さらに興味あり」


 三人がさらに近づいて、志乃ぶは恐怖すら覚えた。


「……チッカ・デル・ソル」

「え? 誰?」

「知らないの?」


 場が一気に静かになり、志乃ぶは気まずそうに言葉をつづけた。


「チッカ・デル・ソル……いま世界で活躍するスーパーアイドルよ。でも、テレビとかには一切出てないから、あなた達が知らなくても無理はないわね。チッカは、メジャーな事務所とかCD会社とは契約してないの。活動はすべてネット上の配信とライブで行われてるだけ。それでもネットで広まれば十分ってことみたい。でも、ヨーロッパが拠点らしいとか、ある国がバックについてて支援してるとか、いろいろ噂は立ってるけど、くわしいことはナゾなのよ」

「へえ……。しーちゃん、その人の事、好きなんだ」

「ばっ……何を言うのよ、そんな、好きとか、やめてくれる?」

「でも、そんな人気のあるアーティストのライブなら、トーキョーとかヨコハマとか、近いところでもやるんじゃないの?」


 すかさず奏が尋ねる。


「さすが。いい質問ね。トーキョーのライブは受付開始から半日で完売。なんとか確保できたのがナゴヤだったのよ」

「半日? 熱心なファンだったらなんとかなるような」

「しょうがないじゃない、学校とかあるんだし」

「あ、ごめんなさい。なるほどね」

「というわけで、ライブはこの後一時からだから。あなたたちもまあ頑張りなさいな」


 志乃ぶは、カップに残っていた紅茶をぐいっと飲み干した。



4

「じゃあ、私はあっちだから」

「はーい、しーちゃん気を付けてね」

「だから、その名前で呼ぶなって!」


 あゆみ達は地下街から、ナゴヤ駅前に戻ってきていた。日も高くなり、人通りもだいぶ増えている。ひとしきり立ち話をしてから、志乃ぶは目的地のライブハウスへ向かおうとしていた。

 その時、重い排気音を鳴らしながら、一台のクルマがロータリーに進入してきた。黒いボディは丹念に磨き上げられ、周りのタクシーが自然と場所を空けてしまうような威圧感を放っていた。


「あれは……」


 志乃ぶの記憶の片隅にある、黒いクルマのビジュアルがよみがえる。ルナとの帰り道に出会った、黒塗りの高級車。あの時、怖さに負けてひとりで逃げてしまった時から、ルナに対して正面から向かい合えなくなってしまった。そのビジョンが瞬間的に脳裏をよぎる。

 黒いクルマはウインカーを出して停車する。後部ドアが開く。グレーのスーツに身を包み、サングラスをかけた男がふたり降りてくる。黒いレンズにはばまれて、その視線は見てとれないが、明らかにこちらへと向かってきている。

 あぶない。でも、ここで逃げてしまったら、また同じことの繰り返し。志乃ぶは、談笑するルナの手首を突然つかんだ。


「何!? ちょっと!」

「ルナ、逃げるのよ!」

「逃げるって、何なの!」

「もう奴らがきてる!」


 走り出した志乃ぶの勢いに飲まれて、ルナの身体が傾き、そのまま引っ張られてしまう。


「川崎さん! 何するの!」

「説明は後よ! あなたたちも気を付け……」


 言い終わるよりも早く、志乃ぶとルナは駅前のビル街に消えていく。突然の出来事にあっけにとられる四人の近くで、サングラスにスーツの男ふたりが辺りを見回す。志乃ぶが「奴ら」と言ったのが彼らだとは気づかず、あゆみ達はエレベーターホールへと歩き始める。


「なんだかなー。とりあえず、チェックアウトしてからかな、ルナと川崎さんを連れ戻すのは」

「そうね。まったく、彼女、エキセントリックなのは見た目だけかと思ってたけど」

「会長、適当なところで、ルナ先輩のケータイに連絡してみては」

「あーあ、ナゴヤ観光したかったのになー」


 チャイムと同時にエレベーターの扉が開く。フロント階から降りてきた利用客の中に、あゆみは見知った顔を見つけた


「新町さん!」

「あ、涼川さん、おはよう」


 あゆみに気づいた純子が小走りで駆け寄ったその時、サングラスにスーツの男たちがあゆみと純子たちを目がけ、勢いよく走ってきた。あゆみは眼を見開く。


 ……これが、川崎さんの言っていた「奴ら」なの……?


 身体は突然のことに、ピクリとも動こうとしなかった。


5

 志乃ぶはルナの手首をつかんだまま、駅から遠ざかる方向へ走り続けた。途中、道行く人にぶつかりそうになりながら、さらに段差や点字ブロックにつまづきそうになりながらも、志乃ぶは走り続けた。


「ちょっと、もう、この辺でいいんじゃない?」

「あ……そう……ね……」


 普段から身体を動かしていない志乃ぶにとって、五分以上も走り続けるというのは、相当にヘビーな試練だった。立ち止まり、ルナから手を放し、膝に両手をついて、肩を上下させながら息を整える。


「で、しーちゃん、何から逃げてたの?」


 ルナが、まだ呼吸の荒い志乃ぶに問いかける。


「気づかなかったの?」

「何に?」

「あなたを追ってる《奴ら》よ」

「そんな人いた?」

「いたわよ! サングラスかけてスーツ着て、黒塗りの高級車から《ぬっ》と出てきたわよ、《ぬっ》と!」

「サングラス……スーツ……ああ……それは」


 開いたルナの口を、志乃ぶが右の手のひらでふさぐ。


「言わなくていいわ、ルナ。あなたが私みたいな庶民じゃない、普通の民衆じゃないことは前からわかってるから」

「んーんーんーー」


 口をふさがれたままルナが何事か言う。志乃ぶの発言を否定しているようだが、何を言っているのかはわからない。


「だから、私なんかには……。でも、だからこそ」

「しーちゃん……」


 力の抜けた志乃ぶの手を、ルナは払いのける。


「なんか、どこまでが誤解なんだかわからないけどね、しーちゃん、私は」


 言いかけたところで、電子音が鳴り響く。ルナのショルダーバッグから聞こえてくる電子音に志乃ぶは激しく驚き、足がもつれて転びそうになる。


「会長……?」


 ルナはバッグからスマートフォンを取り出し、画面上のグリーンのボタンに触れた。」


「もしもし? はい、……ごめんなさい。なんだかわからないんですが……はい、えっ? ……そんな、本当ですか? わかりました、すぐ行きます。たぶんしーちゃんも一緒だと思いますけど」

「電話でしーちゃんって言わないで!」

「はい、どちらへいけばいいですか? ……クリオ・ベルノ? なんですかそれ……ライブハウス……ですか」

「そこって……!」


 転びそうになって立ち上がった志乃ぶが、また転びそうになる。


「わかりました。じゃあ、今から行きます」


 ルナは通話を終え、スマートフォンをしまう。バッグを肩にかけなおして、駅へ戻る方向へ歩き始める。


「ルナ、どこへ」

「え? あゆみちゃんや会長が待ってるから。もう逃亡者ごっこは終わりにしましょう」

「ごっこじやないわよ! それにどこへ行けっていわれたの? まさか本当に、《クリオ・ベルノ》じゃないわよね?」

「え? そうだけど、何か?」


 あっけらかんと言うルナを見据えながら、志乃ぶは両膝を地面についた。


「《クリオ・ベルノ》って、私が行こうとしてたところよ」

「え? 行こうとしてたって、しーちゃん、さっきの電話の前から、《クリオ・ベルノ》って場所知ってたの?」

「そうよ! だって、行こうとしてた《チッカ・デル・ソル》のライブって、そこでやるんだもん!」


6 

 碁盤の目のように縦横が直角に交わる路地を駅に向かうと、新幹線の高架が見えてくる。その下をくぐる細い道を抜けると、斜めに傾いたような建物が見えてきた。


「うわっ、ルナ、いいの? もうすぐそこまで来ちゃったけど」

「え? だって会長もあゆみちゃんも待ってるんだもん、早く行かなきゃ」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」


 小走りで、ルナは目的地である《クリオ・ベルノ》に向かう。


「どう考えたってワナじゃないのよ……ルナ、どうするの?」


 志乃ぶは迷いながらも、離れていくルナの背中を追って走り出した。

 正面入口の辺りには、開場まで二時間以上あるというのに人だかりができつつあった。ルナはそちらには向かわずに、関係者用の裏口へと歩を進めていく。


「え、ルナ、ホントに、どこいくの?」

「会長が、こっちから入れっていうから」

「そんなこと言ったって、うわっ!」


 志乃ぶの視界に、サングラスにスーツの男ふたりが現れた。関係者用入り口の辺りに待機していたのだろう。その姿は、まるで物陰の暗がりそのものが立ち上がったかのようだった。だが、ルナは臆する様子もない。

 立ち止まってしまった志乃ぶに聞かれないよう、ルナは男たちに耳打ちする。男たちは深く一礼したのち、また影に戻るかのように姿を消した。


「行きましょう、しーちゃん」

「うぇっ? あ、うん」


 呼び方へのリアクションも忘れて、志乃ぶはルナに続いて建物に入った。

 照明が抑えられた通路は狭く、足音がやけに響く。進んでいく先の突き当りに、うっすら光が漏れているドアがあった。近づくにつれて、慣れ親しんだ声も聞こえてくる。迷うことなく、ルナはそのドアノブに手をかけて一気に解き放った。


「ごめんなさい!」


 部屋に入ると同時にルナは深く頭を下げた。

 志乃ぶは部屋を見回す。まぎれもない、ライブハウスの楽屋。アーティストのブログで見ることはあるが、立ち入ったのは初めてだ。そこに、見知った顔のあゆみや奏がいることに、志乃ぶは強烈な違和感を覚えた。だがそれだけではなく初めて見る顔もいくつかあって、どうしてよいかわからずに志乃ぶは立ち尽くしていた。


「わ、私は別に、ルナが、あやしい奴らに狙われてて、心配だったから逃げようって言っただけで」

「しーちゃん」

「う……あ、ごめんなさい」


 しぶしぶながら頭を下げた志乃ぶの背中に声がかかる。


「ま、誰だってそんなことはあるさ、いいんじゃない」


 声の主は純子だった。志乃ぶは顔を上げた。そして驚きで声を失う。


「ルナ、あなた達が勝ったチームの、《V.A.R.》って……そっか、選手権のサイトに載ってたわ……うかつだった」

「しーちゃん、新町さんのこと知ってるの?」

「何て失礼な! だって、《ハッピーストライプ》の《ジャンヌ》さんでしょ?」

「わ、ありがとう」

「でも、なんで……? ちょっと、何が起こってるんだかわかんなくなっちゃった。今日はここで《チッカ・デル・ソル》のライブなんじゃ?」

「そうだよ。それは合ってる」


 たくみの言葉にたまおが続く。


「で、そのゲストってことで呼ばれてたのが、話題のネット限定バンド《ハッピーストライプ》」

「川崎さんが、ルナ先輩を狙ってきたって勘違いした人たちは、《ジャンヌ》を迎えにきたスタッフさんだったんだよ」

「えっ……?!」


 志乃ぶは膝から力を失い、その場に崩れ落ちた。床材の感触が膝に冷たい。


「まあ、スーツにサングラスって、私もちょっとびっくりしたけどね。でも《すーぱーあゆみんミニ四チーム》のみんなも時間があったら楽屋に案内していいか聞いたらオッケーだったからさ、許してあげて」

「そう……」


 床に手をついて、志乃ぶは身体を起こす。それ以上の力は残っていない。


「ルナ、みんな、それに《ハッピーストライプ》の皆さん、ごめんなさい……。私は表の列に並んでくるわ……」


 部屋を出ようと一歩踏み出した志乃ぶの手首を、純子はとっさに掴んだ。


「あなた、ミニ四駆やるんでしょ?」

「え?」

「わかるよ。そのバッグ。マシンが入ってるの、わかる」

「そ、それは、そうだけど、でも」

「平気だよ。《すーぱーあゆみんミニ四チーム》と戦ったチューナー同士、仲良くするのも悪くない」


 志乃ぶは純子に向き直った。


「ありがとう、でも……」


 口ごもる志乃ぶの脇をすり抜けて、ライブハウスのスタッフが楽屋に入ってきた。


「《ハッピーストライプ》の皆さん、《チッカ》さんがステージで最後に合わせたいってことなんで、お願いします」

「あ、はーい」


 純子以外のメンバーが即座に立ち上がる。まだリハーサルの最中だという事に、志乃ぶは今更ながら気が付いた。


「よし、じゃあ行ってくるね! あ、みんなの分、関係者席をあけてくれるって言う話だから、涼川さんたち、それと川崎さんだっけ、本番のステージもみんな楽しんでってよ」


 純子の思いがけない一言に、たまおとたくみを中心に驚きの声が上がった。ルナはその中で、ぼんやりとして熱いものが、自分の胸の中で揺れているのを感じていた。仕組まれたことと分かっていても、理解できない理不尽さがある。

 笑顔にあふれる部屋の中で、ルナはひとり表情をかたくしていた。


7

 三時間に迫る公演は、あゆみ達にとっては正に未知の体験だった。

 巨大なスピーカーから放たれる音の圧力にもまれて、全身が筋肉痛にも似た疲労感につつまれていた。その中で、あらゆる楽器に負けることなく中心で歌声をあげつづけた女性、《チッカ・デル・ソル》の存在感は、確かに、志乃ぶがヨコハマからかけつける価値があるものだと、あゆみはようやく理解した。


「黙って帰っちゃうのも失礼だから、新町さんにはお礼を言っておきましょう」


 奏に促され、一行は人波に逆らいバックステージへと向かう。

 中盤、ゲストとして《ハッピーストライプ》が呼ばれ、《チッカ・デル・ソル》とジョイントしてのパフォーマンスを行った。MCの中で純子は、ミニ四駆選手権の話題、予選第二ラウンドの話題に触れた。

 まだ一勝一敗、決勝進出をあきらめたわけではないという内容だったが、《すーぱーあゆみんミニ四チーム》をリスペクトする言葉には、あゆみも動揺して自分で大きな拍手をしてしまった。


「失礼します」


 ノックに続いて、ドアを開ける。生徒会長としての自覚からか、動揺と興奮が収まらないあゆみを差し置いて、奏が率先して前に立つ。


「お疲れ様、新町さん」

「あ、お疲れ様。みんな、ありがとう」


 純子たち《ハッピーストライプ》は、揃いの黒いTシャツに、汗を染み込ませたままだった。上気した肌が、パフォーマンスの激しさを伝えてくる。


「ホント、ジャンヌさん、配信だけじゃなくて、ライブも、すっごい!」

「思いがけず、感動」


 たくみとたまおが、純子たちに握手を求める。


「いや、こっちの方こそお礼を言いたいよ。昨日、ふたりのデクロスといいバトルができたからさ、今日もいいパフォーマンスができたんだと思う」

「いやいやそんな……」

「ホントだよ。なんて言うんだろ、こういうの? 青春? やだね、似合わないね」


 純子を中心に笑いがあふれる。

 その時不意に、楽屋のドアが開け放たれた。


「ブラーボ! ブラーボ! 素晴らしいね!」


 全員の視線の先に、その人物はいた。

 一気に静まり返った空間の真ん中に、堂々と歩いてくる。長く伸びた髪は、極彩色に染まっていて、客席から見ていた以上に光り輝いていた。


「《チッカ》さん、お疲れ様です!」


 純子が慌てて頭を下げた。他の《ハッピーストライプ》メンバーも続いたので、反射的にあゆみ、奏、そしてたくみとたまおもお辞儀をしてしまう。

 志乃ぶは突然の出来事に身動きがとれていない。

 そしてルナは、瞳を見開いて《チッカ・デル・ソル》を見つめていた。


「《ジャンヌ》、ありがとうね。バンドだけじゃなくて、ミニ四駆の方も、いい結果が出るといいね。それじゃ」

「ありがとうございます!」


 踵を返して立ち去ろうとする《チッカ》と、ルナの目が合う。


「あなた、いや……お前は」


 《チッカ》が小さくつぶやいた直後。


「姉さん! サリーヌ姉さんよね!」


 声に出さないものの、全員が心の中で驚きの声をあげる。


「え? やっぱり……サレルナ?」

「姉さん……」

「そっか、《ジャンヌ》が負けたって言ってた、《すーぱーあゆみんミニ四チーム》ってのは、なるほど……サレルナたちのチームだったのね。聞いてるわ、お前がミニ四駆はじめたっての」

「うん……それより……」


 《チッカ》に同行してきたスタッフを含めた全員が、息をひそめ、今なにが起こっているのかを見極めようとしていた。

 志乃ぶの思考は停止して、あんぐり口を開けてしまっていた。


「それより……なんでだろ。うすうすそんな気がしていて……ステージを見てはっきりわかってたのに……勝手にいなくなった姉さんに一言いってやろうって思ってたのに……こうやって向き合っちゃうと……ズルいよ……」

「ごめんね、心配かけてたね」


 《チッカ》、いや、マァス=ドオリナ=サリーヌは、ルナの肩を抱き、その胸に引き寄せた。


「ごめん、《ハッピーストライプ》と、ルナのお友達。少しでいいから、この部屋使わせてほしい。この娘と……妹と話があるから」


8

 楽屋を明け渡したものの、中で何が起こっているのかを、全員が知りたがっていた。少女たちはドアの周りに群がり、漏れてくる声に神経を集中させていた。

 志乃ぶは、サリーヌとルナが語る断片的な言葉と、今まで経験してきたことを、脳内でつなぎ合わせる。

 猪俣ルナ、ことマァス=ドオリナ=サレルナは、セルジナ公国の皇女で、継承権は第三位にあたる。

 ルナには姉がふたりいるが、何れも皇室を飛び出してしまい、皇位を継ぐつもりはないと言われる。

 その二人の姉のうち一人が、《チッカ・デル・ソル》としてアイドル活動を行っているサリーヌ。ふたりが会うのは五年ぶり。それは逆算すると、志乃ぶの小学校にルナが転校してきた時期と重なる。

 そしてセルジナ公国の重要人物であるルナに万一の事が起こるのを未然に防ぐため、何人ものSPが日本に送り込まれており、志乃ぶが不審者と勘違いしたのも、そのメンバーであった。


「はあぁ……」


 余りに大きなスケールの話に、志乃ぶは足元が崩れるような感覚を覚えた。

 結局、ルナはもともと住む世界が違う人間だったのだ。そこに対抗意識を燃やしたところで、意味はなかったのだ。

 そんな思考の行き止まりにぶつかったところで、楽屋のドアが開いた。


「みんな、入ってくれる?」


 ルナが、申し訳なさそうに言った。

 うながされるままに、外で待っていた少女たちは部屋に入った。中心には、先刻まであふれんばかりにエネルギーを発していたサリーヌが、静かに立っていた。志乃ぶは、ずっと憧れていた女性のはずなのに、これまで見てきたのとは違う、《気品》とでも呼ぶべきものがサリーヌの内側から発散されているのを感じた。それは、ルナからたびたび感じるものと同じ感触だった。


「みんな、なんかおかしなことに巻き込んじゃって、ごめんなさい」


 全員が部屋に入ってから、ルナが頭を下げた。瞳の周りは赤く色づいていたが、涙は流れていない。


「詳しいことは……あんまり言えないんだけど、姉さん、いや、《チッカ・デル・ソル》のことはこれからも応援してほしいし、私も、今まで通り変わらないつもりだから、だから……」


 言葉に詰まる。小さく息をついてから、サリーヌが言葉を継いだ。


「私からも。みんな、ありがとう。お人形みたいだったサレルナが、こうして、たくましく育ったのも、みんなのようなアツい仲間と出会ったからだと思う。本当にありがとう」


 サリーヌが深く頭を下げる。虹のように、鮮やかな髪が流れた。


「それと、ミニ四駆がサレルナを強くしたのかな。私も、《ハッピーストライプ》とステージをやらせてもらう事になってから、少し調べてみてたんだけど……そう、もともとここに来たのは、《ジャンヌ》にこれを見てもらおうと思ったからだよ」


 サリーヌは、鏡台に置いてあったメイク道具のケースを開けた。プラスチックが軽くぶつかる音は、部屋にいる誰もが聞きなれたものだった。


「姉さん、これ……」


 ルナが両手を口元に当てて、声にならない驚きをかみしめる。


「ミニ四駆、かっこいいでしょ。フェスタジョーヌLっていうんだって」

「うん、知ってる」


 リヤウイングを取り払い、ロードゴイングカーに近いスタイルになったフェスタジョーヌ。そのボディは半透明のイエローに彩られ、ホワイトのシャーシがうっすら表面に浮かんでいた。


「こういうクルマが好きなのは、ルナの方がママンに似たのかもね」

「もう、やめてよ、恥ずかしいから」


 ルナが顔を赤らめた。今まで見たことのない表情に、志乃ぶは頬をゆるめた。

 自分がそうであるように、ルナもまた、「よそ行き」のキャラクターをつくっていたのだと、志乃ぶは気が付いた。そして、それを意識せずに自然に話せる相手が家族であり、故郷から遠く離れた日本で、不意に家族に会ってしまったら、冷静でいられるはずもない。志乃ぶは大きな温かい気持ちと、ほんの少しの悔しさを胸の中で感じていた。


「あと、ルナをここまで連れてきてくれた彼女は?」

「しーちゃん」

「え、あ、私ですか?」


 感慨にふけっているところに声を掛けられ、志乃ぶは声を裏返させながらサリーヌの前に進んだ。


「あなたの勇気に、そしてルナを守ってくれようとしたことに、感謝するわ。頼りない妹だけど、あなたが構わなければ、これからも仲良くしてあげて」

「頼りないだなんて、そんな、あの、私は、いや、別に好きとかじゃなくて、あの」


 しどろもどろの志乃ぶの肩に手を伸ばし、サリーヌはそっとハグした。志乃ぶは全身の血液が固まってしまったかのように動かなくなり、そのままもといた場所へ倒れ込むように戻っていった。


「あんまり引き留めても悪いから、こんなところかな」

「あの!」


 立ち去ろうとするサリーヌに、あゆみが声を張り上げた。


「あなたは?」

「あたしは、猪俣さん、あいや、ルナさんにお世話になってるミニ四駆チーム、《すーぱーあゆみんミニ四チーム》キャプテンの涼川あゆみです!」

「涼川……あゆみ……」


 サリーヌが怪訝そうな表情を浮かべるが、あゆみは構わず言葉を続ける。


「今日のステージ、本当に、迫力ありました! あたしたちの何十倍もパワーがあって、本当に感動しました! でも、あたしたちもルナさんと、《チッカ・デル・ソル》さんに負けないように、ミニ四駆日本一を目指して頑張ります!」

「涼川……ああ!」


 力を込めた決意の言葉の先に、感動の場面を想像していたあゆみは、思ってもいない反応に困惑する。


「あなた、ひょっとして、涼川みのるさんの娘さん?」

「え?」

「そう、さっきのミニ四駆と、ママンのことを考えてたら、思い出したのよ。まだルナがウチにいたとき、こういうカッコいいクルマ、スポーツカーというかスーパーカー? の紹介をしにきた日本人がいたって。そう、その人が涼川みのるさんよ」

「父は、確かに、ヤムラで働いてますけど……」

「そうそう。で、結局、紹介してくれたクルマって開発中に問題があったとかで、販売中止になっちゃったのよね」

「販売中止?」

「わざわざ、偉そうな人が沢山きて、ママンに謝ってたのを思い出したわ」

「販売中止、って何なんです? あたし、そんなのパパから全然聞いたことないです」

「あら、そう? 私もこっそり聞いてただけだからよくはわからないけど。でも、訪ねてきた人が《涼川》さんってのは覚えてた、っていうか今思い出したんだけど」

「パパが……スーパーカーを……それに、中止?」


 硬直した空気に、サリーヌも次の言葉を探していた。その時、開け放たれたドアからスーツ姿の男性が入ってきて告げた。


「《チッカ》さん、もう、お時間です」

「あら。じゃあ……サレルナ、元気でね!」

「うん、姉さん、いえ、《チッカ・デル・ソル》も!」


 ひとつ、キラッと音が聞こえそうなウインクを残して、サリーヌは部屋を出ていった。あたたかな空気に包まれた部屋の中で、あゆみだけは固い顔で、手のひらのイヤな汗を握りしめていた。


「父さん……スポーツカー……開発中止……」


 ……お父様は、お元気? ……


 ふと、その言葉を投げかけた少女の姿が浮かび上がる。レースを前にして、唐突に父親の話題をふってきた不自然さに、今更ながらあゆみは気づく。


「瀬名さん……。何を知ってるの? あたしの知らない、パパの何を知ってるの……?」


 第五話「月と太陽と」 終

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