エバのイチジク
サクヤ
ハジマリ
私は
周囲から綺麗だ可愛いだのと言われているけれど、全く嬉しくない。外面しか見てない評価に意味はないと感じるからだ。
だけどまぁ、優等生を演じた方が何かと都合がいいのも確か。今では社交辞令もうまくなったし、外面に張り付ける笑顔も完璧。
勉強だってきちんと予習をしていれば上位になるのもそう難しくない。ようは娯楽の数を減らせばいいだけのこと。
そんな私の髪はその人生を表すかのように真っすぐで、そして何ものにも染まらない真っ黒な色をしている。
両親は「たまには友達をうちに呼びなさい」などと小言を言ってくる。別に友達がいないわけじゃない、ぼっちになればそれはそれで学生生活に支障をきたすので、最低限度の友達はいる。ただ、遊んだことがないだけだ。
学校帰りに遊んだりせず、真っすぐ家に帰る。これを繰り返しているうちに誘われなくなっただけ……。
そんな私の唯一の娯楽は”盗み聞き”だろうか。誰かが玄関から帰って来た音、両親と兄である優斗が進路について相談する話など、生活音から日常会話までとにかく人がいるという感覚が私の心に潤いをもたらしてくれる。
────ガチャ。
ほら、今もこうやって兄が帰ってくる音が聞こえてくる。これだけで充分に幸せだ。
『うあああああああああああああっ!!! くそ、くそくそっ!』
あれ? いつもとは違う音色だ。なんというか……緊急性を感じる。両親は仕事で家にいないし、流石に無視はできないか。
私は玄関に向かった。そこで目にしたのは、蹲って地面を殴りつける兄の姿だった。いつもは穏やかな兄がこんな状態になるのは初めてのことだった。
かなり荒れている。なんとかしないと! そう考えた私は兄の背後に回って声をかけようとしたが、何を言えばいいかわからなくなった。
それもそうか、小さい頃はよく遊んだりもしたけど、大きくなるにつれて少しずつ疎遠になっていく。
当然ながら兄との会話の経験値は絶望的に足りてなく、何をどう言えば事態を収められるのかがわからない。
ただ、一つだけ思い当たることがある。それは少し前に行った職業体験でのこと。私は幼稚園での職業体験を選択し、泣きじゃくる園児に困惑していた。
その時に先生から「こういう時はそっと肩を抱いて何があったのか聞くのが一番よ?」とアドバイスをもらった。
先生のおかげで似たような状況を何度も切り抜けて、無事に職業体験を全うすることができたのを覚えている。
よし、これでいこう!
私は兄の肩を抱いて声をかけようとする────。
「兄さん、何があったのですか?」
「瀬奈……瀬奈あああああああ!」
「えっ、ちょ、きゃあっ!」
兄さんが正面から抱き付いてきた。私の服はすぐに涙で滲んでくる。歳の近い男性と密着して抱き合うのは初めて。硬い筋肉、女の子とは違う男子の匂い。その反面、歳不相応に泣き続ける実の兄。
彼は私という外面ではなく、私という存在を求めている。それを自覚した瞬間、心臓が僅かに高鳴ったのを感じた。
ふと、玄関にある姿見が目に入った。姿見に映っている私は優しい笑顔で兄の背中を抱き締めている。キツイ抱擁の影響なのか、それとも他に理由があるのか……私の顔は少しだけ赤かった。
理由はわからないが、その表情は本物だった。いつものような張り付けた笑顔じゃなくて、慈しむような慈愛に満ちた微笑みだった……。
兄さんは泣き疲れて眠ってしまったで、気合でソファまで運んで毛布をかけた。
「……はぁ」と一息ついて自室のベッドに倒れ込む。自分は冷たい人間、そう評価していただけに先の行動はあまりにも想定外だった。
☆☆☆
次の日の夕方。私の中で何かが変わっていた。自分ではわからないけど、周囲の人がしきりにこう口にする「あれ? なんか今日違うね」と。
その勢いそのままでこう言われた。
『瀬奈ちゃん、今日駅前行かない?』
誘われなくなって約二年……その言葉を聞いた私は何故か嬉しくなってしまって、思わずその誘いを受けてしまった。
本当なら家に帰って受験対策の勉強をするところだけど、たまには良いかと思ってしまったのだ。
ぼっちにならないためにある程度の流行は知っていたつもりだけど、想像と実体験は大きく違った。アパレルに入ってどんな服が良くてどの服が次の流行りか、喫茶店に入ってマリトッツォなる物を食べてみたり……寄り道とは思っていた以上に充足感のある行為だった。
友達と別れて帰宅の途につこうとしたとき、ある男性が目についてしまった。
買ったばかりでまだ馴染んでいないスーツ姿の男性……私より一つ上の優斗兄さんだった。
兄さんはぼーっと何かを見ている。その視線の先にはピンクに彩られたネオン街への道があって、とある男女が丁度ホテルに入っていくところだった。
男性の方は少しチャラいけどかなりのイケメンで、女性の方は面識があった。前に兄さんの彼女としてうちに一度だけ挨拶にきた女性。
その時の印象を思い返すに、当時の彼女は少し地味系の大人しい女性という感じだったけど、今の彼女は明らかに大学デビューしたてのちょっと無理してる感じの女性だった。
兄さんは彼女がホテルに入るのを確認すると、肩を落として歩き出す。俺の彼女に手を出すな! そんなタイプの人じゃないから、恐らくは事実を確認したかったのだろう。
となれば、昨日の段階ではまだ”かもしれない”だったけど、今日でそれが確信に変わった感じみたい。
なんでだろう、兄さんが悲しいと私も胸が苦しい。それと同時にあの人への憎悪が沸き上がってくる。
兄さんの数メートル後ろを歩きながら家に向かう。声をかけようとして、止める……さっきからその繰り返しだ。兄さんはまだ私の存在に気付いていない、それほど気落ちしているのが窺える。
そうこうしているうちに家に着いてしまった。
洗面所から水の流れる音が聞こえてくる。まさかと思って少し中を覗いたら兄さんが上半身裸で顔を洗っていた。思い切ったことしてなくて良かったと胸を撫で下ろしつつ、兄さんから目を離せない。
筋骨隆々ってわけじゃないけど、男らしい身体つきに思わず見惚れてしまう。
水に濡れた髪がとても色っぽい……。
そんな覗き行為も兄さんと目が合うことで終わりを迎えた。バッと飛び退いてリビングに逃げ込む。洗面所のドアが開き、兄さんが追いかけてきた。
「帰ってきてたのか」
「え、ええ……さっき、ね」
「そうか……ところで、ドアの隙間から見てたけど、変質者とでも思ったか?」
「そうです。みんな私より帰るの遅いからちょっと警戒しちゃったのです。そ、それに鍵もかけずに裸で顔を洗うなんて……充分に変質者だと思うけど?」
「はは、それは悪かったな。ちょっと色々あってさ、気が回らなかったんだ」
兄さんとこんなに長く会話をしたのはいつぶりだろうか。おはようとか、ごはんとか、そう言った必要最低限の会話しかしてこなかったから、これ以上何を話せばいいか分からない。
「じゃあ、俺もう部屋に戻るわ」
兄さんが作り笑いを浮かべて二階に上がろうとする。私は思わず「待って!」と兄さんを引き留めてしまった。ほっとけなかった。とにかく何かしなくちゃと出した答えがマッサージだった。
「社会人になって色々忙しいと聞きます。少しだけ、マッサージでもどうですか?」
「えっ、あ……うん、いいけど」
兄さんは驚きつつも承諾してくれた。
両親の仕事は世界経済の影響をもろに受ける仕事、それ故に給料は大きく激減し、私の進学が危うくなってしまった。そんな状況を打開するべく、兄さんは自身の夢を諦めて就職の道を選んだ。
ある意味において、私は彼の人生を喰ってしまったようなもの。だからこそ、私がこうやって兄さんに何かをするのは正しいことだと言える。
ソファに座る兄さんの後ろに立って肩を揉む。
「どうですか?」
「あんま気持ちよくないなぁ」
「……」
ドラマや漫画みたいにうまくはいかないらしい。その後もムキになって続けていると、兄さんが私の手に自身の手を重ねてきた。
「瀬奈、もういいって」
「ごめんなさい……上手くできなくて」
「いいって、お前も受験で大変だろ? リフレッシュに俺が何かしてやりたいくらいだよ。ほら……昨日の礼もあるからさ」
兄さんが昨日の事を思い出しながら提案してきた。
今日、同級生と遊んで楽しかったことを思い出す。兄さんとの事で私の中で何かが変わったとしたら、近くにいればもっと変われるのではないかと思えてきた私は────。
「では……教えて欲しいことがありまして」
「教えるって、えらく抽象的だな」
「例えば、ゲームとか。あ、映画を観るのもいいですね」
今まで避けていたことを教わろうと思った。勿論、勉強を疎かにするつもりはない。多少点数が落ちたところで私の志望校は充分に合格圏内だし、全く問題ない。
この日から、兄さんと私のサブカル体験講座が始まった。
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