人間への感情

 魔王城近郊の天気は、いつもいいとは言えない。雨などが降っていないときもあるが、晴天は絶対に存在しなかった。

 この城に纏わりついている、瘴気が悪さをしているのだろう。魔王に晴れ晴れとした空は似合わないとも皮肉を言っているのか、城付近では快晴の日を見たことがなかった。

 今日の空もそれと同じで、薄暗く曇っている。遠くに見えるアベスカの空は、青々と澄み渡っていた。


 そんな魔王城廊下にて、エキドナは静かに外を見つめていた。

 その後ろをゴブリンやエルフ、戦闘に出ない代わりに雑用を任されている他の魔族達が通り過ぎていく。

 戦争が近づいている今、魔王城内は大忙しだ。


 エキドナも同じく忙しいと思われたが、主に戦闘に参加するメンバーとして仕事は与えられなかった。

 勇者がやってくる時期が曖昧である以上、その襲撃時に仕事を行っていては対応が遅れてしまうとの判断だった。

 だからエキドナは、久々の暇を持て余していた。普段から忙しい毎日を送ってきていたことから、彼女はこういった空き時間の消費方法がいまいち分かっていない。

 ゴブリン達の仕事を手伝おうと手を出したら、「主戦力のエキドナ様は、緊急時に備えて仕事をしないでください!」と、逆にゴブリンに怒られてしまったほどである。


 結局、時間の潰し方もよくわからないまま、エキドナは場内をぶらついていたのだ。


「はあ……」


 エキドナは小さくため息を吐いた。

 誰もそれに気をとめることなどない。各々の仕事が忙しいと、バタバタと駆け回るだけだ。

 エキドナもエキドナで、気に留めてほしかったわけではない。しかしここ一時間、もっといえば役割が決まってからずっと。彼女はため息ばかりだ。


「……あぁ、始まるのですよね……」


 ――エキドナは、戦闘に対していい感情を持ち合わせていなかった。

 アリスから命令された以上、断れるはずがないのは当然。だがそれでも、彼女は誰かを傷つけることは、極力避けて通りたかった。

 ましてや、人を殺すなど言語道断。


 これは、彼女がアリスとともに襲撃に出てから自覚をした感情。

 元々の彼女の〝設定〟は、中立だ。人に対しても、その他下級種族に対してもこれと言った感情を持ち合わせない。

 エンプティやパラケルススなど、人間種に対する当たりの強い幹部もいれば、ルーシーなどのように分け隔てなく接することの出来る幹部もいる。

 エキドナはそのどちらでもない存在だった。

 しかし、この世界に来てその設定が変わっていった。彼女は、人間を傷つけたくないと思うようになったのだ。防御をメインに創造された幹部とはいえ、人間に比べればその力の差は歴然。

 彼女が腕を振れば人は容易に死んでしまう。それがどうにも虚しくて、悲しいのだ。

 無駄な殺生などしたくもなく、傷つけたくもない。けれど、アリスの命令に逆らいたくない。尊敬する己の主。

 そんな葛藤のなか、エキドナはいたのだ。

 これから先に起こる出来事を想像しながら、エキドナはまたため息をつく。


「あー! いたいた、エキドナ~!」


 そんなところに、明るい叫び声が響いた。廊下じゅうに響く少女の大きな声。エキドナとは正反対とも言える性格の少女。

 軽やかな足取りで駆け寄ってくるのは、幹部きっての魔術師。ルーシー・フェルだった。


「あ……ルーシー様……」

「エキドナが用事あるだろーから、アリス様に探せって言われたし。なーに、話って?」

「あっ、そうでした……その、お願いしたいことがございまして……」


 エキドナはルーシーに頼み事があった。実際にやってもらうことは、もっと先なのだが――事前に連絡していたほうが、ルーシーの都合がつきやすいだろう、とのアリスの助言だった。


「へー、なになに?」

「今回の戦いで、わたくしは敵対する相手を殺しません……」

「――あ?」


 エキドナがそう言うと、廊下一体におぞましいほどの空気が走る。ルーシーから漏れ出した魔力が、ビリビリとその空間を振動させているのだ。

 傍を通っていた魔族達は、死の恐怖を覚えた。立っていられずに尻もちをつき、弱いサキュバスに至っては気絶してしまっている。

 その場にいる誰もが、戦争を前にして死ぬのだなと覚悟を決めていた。

 温厚で他人思いのルーシーからは考えられないほど、恐ろしい雰囲気だった。エキドナの理由次第では、そのまま攻撃に入りそうなほど、その場は凍りついている。


「どゆこと? 理由によっては、アリス様とその計画に対する、裏切りと捉えるケド」

「こちらは……アリス様にご了承を得ている内容です、内容です……」


 幹部であるエキドナが、ルーシーの殺気に怖気付くことはなかった。

 性格こそ弱々しいものの、彼女は幹部でトップクラスを誇る防御型。アリス相手ならばまだしも、ルーシー相手であれば引けを取らない。

 完全な勝利を手にするのは難しいかもしれないが、完敗はありえないだろう。

 それにまだ〝理性的〟なルーシーは、突然攻撃してきたりもしない。


 エキドナがアリスの名前を出せば、ルーシーの怒りは徐々に引いていった。アリスの名前程度で信用に足るのか、と問われればそうである。

 絶対なる主であるアリス。彼女の名前を悪用することなど、幹部としては言語道断。名前を持ち出した以上、それは事実でなくてはならない。

 だからルーシーはエキドナを信用した。

 アリスが許可を出したことであれば、何であろうと否定はしない。――もちろん、それはアリスの安全を考えられる範囲で、だ。


「なぁんだ。最初からそう言ってよ。で、あーしは何すればいーわけ?」

「対象との隷属契約を結びたいので、魔術を……その……」


 理解したルーシーは、もういつもの彼女に戻っていた。エキドナにしてほしいことを聞いて、己の予定と照らし合わせる。

 エキドナもエキドナで、自分から発言することやお願いすることが苦手な彼女。尻すぼみになりながらも、必死に頼み事を呟く。


「おけおけ! 終わり次第連絡もらえる系?」

「はい……」

「りょーかいっしょ! それまでに契約内容決めといてほしーし」

「承知致しました、承知致しました……」


 簡単な打ち合わせが終了すると、ルーシーはさっさと帰っていってしまった。

 エキドナは風のように素早くいなくなってしまうルーシーを見送り、一人でため息をつく。心のなかで、先程のルーシーを思い出していた。


 確かに彼女の言う通り、エキドナの心変わり――考えは、アリスに背くような思想でもある。成長と取るべきか、劣化と取るべきか。それはエキドナにも分からない。

 しかしアリスは許可を出した。それが事実。


(いいえ、あの御方はとても優しいわ……。きっと慈悲ね。あの方の言う、〝我が子〟への……)


 エキドナはそっと、己の白い頬へ手を添えた。

 アリスの言う、我が子。その言葉がどれだけ嬉しいことか。エキドナは慈悲深きアリスが創造主ははであることを、誇りに思っていた。

 エンプティは彼女に恋をして愛していたが、エキドナはそうではない。もっとも彼女の中には、別に好いている存在がいるということもあるのだが、これはまた別の話だ。

 もちろん、敬愛しているという意味では、アリスを愛している。まだまだサポートが必要な不完全な〝神〟であれど、エキドナを作ってくれたことには変わりない。

 しかしエキドナの中にあるのは、家族であり母だ。


「……お母様、なんて、なんて……。ふふふっ……」


 エキドナはそう呟いて、一人で微笑む。

 アリスの前で言えば、きっと彼女も喜ぶ言葉だろう。しかしエキドナが言うことはない。消極的な彼女にとって、甘えるということは酷く難しいことだ。

 だからこの場のように、誰もいない場面で独りごちるのみだ。


(アリス様はわたくしの無理なお願いを聞いてくださった……。これ以上ご迷惑はかけられない、かけられない……。全力で、あの御方に尽くしましょう……)

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