優しい逃げ場所

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優しい逃げ場所

 家出少女の朝は早い。

 まだ覚醒しきらない頭のまま枕元の時計を見れば、目覚ましも鳴っていない時間だ。

 カチャカチャと食器のぶつかる音がして、昨日洗っていなかった分を洗ってくれているのだろうということが容易に想像できた。そのうち包丁の音とか湯の沸く音とか、そんなありふれた日常の音がしてくるに違いない。

 朝には滅法弱くて目覚ましの音が鳴っただけで不機嫌になるはずなのに、人のいる生活音にこんなに早く起こされてもどこか穏やかな気分でいられるのはどこか不思議な気分だった。

 仕方なく手を伸ばして、三十分後に鳴るはずの目覚まし時計のスイッチを切った。そこで一息吐く。やっぱり眠い。けどこの音は俺のための音だから、起きよう。そう思ったときのことだ。

「いっ……」

 小さな声がここまで届く。嫌な想像をしてしまい慌てて布団を跳ねあげた。包丁が滑って指から血を流している姿を、少し涙目になっている姿を考えしまう。

「大丈夫!?」

 ワンルームのキッチンには、制服の少女がいる。包丁を握っていて、ネギを切っている途中のようだった。丸い目をこちらへ向けて、驚いたような表情をした。

「お、早い」

「切ってない?」

「何ともないよ。ちょっと包丁が滑っただけ。焦ったー」

「それなら良かった……」

 はにかむように笑い、俺は安堵してふっと息を吐く。

 家出少女はこうして俺のために朝ごはんを作ってくれる。家に置いてくれているから食事代の代わりにと家事を手伝っていて、正直なところかなり助かっていた。一人暮らしだと料理をするハードルが上がってしまい、朝が弱いことも相俟って朝ごはんを抜きがちだった。ここ数ヶ月に関して、彼女のおかげで俺の栄養状態は大変良くなっている。

 鍋にはネギ入りのみそ汁、フライパンには豚肉が胃を刺激する音を立てて焼かれていた。おそらくしょうが焼きだろう。

「ごめんね、起こした?」

「いや、大丈夫。元々起きてたから」

「シャワー浴びてきたら?寝癖がヤバいよ」

「まじか。入ってくる……」

 確かになんだか前髪が雑なオールバックになるような跳ね方をしている気がする。言われた通り、シャワーを浴びてくることにする。

 頭を流して、スーツに着替え、リビングに行くと丁度朝食の準備が出来ていた。清々しい充実した朝を噛み締めながら、少女の待つ食卓に座った。

 美味しそうな匂いに腹が鳴りそうだ。「いただきます」と声を合わせて言って、みそ汁を腹ぺこの胃に流し込んだ。

「おばさんに連絡入れるけどいいよな?」

「うん、それはいいよ。まぁ仕方無いでしょう」

 カレンダーを見つつ、前回連絡したのは丁度一週間前だった筈と確認する。

 家出少女は俺の従姉妹だった。梅雨明け頃に突然やってきて「匿って!」と言われたときには大変頭を抱えたが、俺が中立に立つことでなんとかうちにいることを許してもらっている。

 高校三年生の彼女は親と進路についてぶつかり、どうしようもなくてうちに逃げてきたのだった。

「お母さんとお父さんのことは好きだし、言っていることも分かるし、私のことを考えてるのは嬉しいんだけど、それでも納得できないよ」

 家出少女にはやりたいことがある。

「私はね、絵が描きたいんだ」

 はっきりとしっかりと、そうすることを確信した声音で彼女は言った。

「親の言うように公務員とか大企業とかに勤めるのも、そりゃあ程々に幸せな生活を送れるとは思うよ? けどそれは、私にとっての幸せじゃない。私にはきっと幸せと思えない。たぶん、絶対に、後悔する」

 彼女は自分の進路をはっきりと見据えている。そこに伴う責任も、おそらく自覚している。世間的にまだ子どもではあるだろうが、精神的に自立しているという点において彼女はその辺の大人より大人らしい。

「中一のときに描いた絵覚えてる?賞を取った絵」

「覚えてる。あれ、お兄ちゃんすごくきにいってたよね」

「そう、俺はあの絵が好きだった。朝と夜が同じキャンバスにあって、鳥が悠然と飛んでいる綺麗な絵だった。俺には絵が描けないけど、絵自体は好きだから余計にすごいと思える。やりたいと思うなら、俺は応援したい。難しい道だとは思うけど、そこも理解して言ってるんでしょう?」

「もちろん!」

「俺だけはずっと応援している。絶対に応援する」

嬉しそうに頷く。反面、少し表情が翳っている。

「不安?」

「不安だよ」

 しょうが焼きを口に入れ、ゆっくりと噛んで言う。

「逃げてるから余計に負い目があるよ。本当は向き合った方がいいことも分かってるけど……」

「向き合ったでしょう?ちゃんと、君は絵が描きたいと意志を伝えた。それを鼻で嗤ったのは向こうの方だ。向き合わなかったのは、君の親の方だ」

 初めてうちに来たときに、さすがにうちに置いては置けないと思い彼女の家まで行って話し合いをしようとしたのだ。しかし話し合いをする以前に否定された。

「逃げてるんじゃないでしょう。ちゃんとやりたいことのために、受験のために画塾も行き始めたしここでも練習している。ちゃんと進んでいるから、逃げてない。━━逃げてないよ」

 念を押すように言う。俺には何も出来ないけれど、不安を取り払うくらいはしてあげたい。

「画塾代を出してくれたのは本当にありがとう……!」

「そのくらいは全然いいよ。俺は大人ですから。飲み代に使うよりよっぽど有意義」

「ねぇ、お母さんに電話するとき嘘を吐いているでしょう?」

「当たり前じゃん。嘘吐いてるよ」

 くすりと笑う。俺は共犯のようなものなのだ。

「俺はしがない公務員。おばさんからしてみれば俺が理想の進路で、君にも同じように歩んで欲しいから、俺が『君を説得する』と言えば安定した道を勧めていると思うだろうね。残念ながらそんなことする気はない。裏切るようで悪いけどね」

 お互いに笑い合い、この関係を確認する。バレたときはそのときはそのとき、俺も彼女と同じように腹はくくっている。

 はぁ、と彼女はわざとらしくため息を吐く。

「美大に落ちたらどうしよう」

「来年も受けよう」

「美大に行けても才能無くて就職もできなくて何にもなれなかったらどうしよう」

「何かになれるまでやってみたらいいんじゃない? そんなことを言うのは無責任かな」

「ううん、頑張ろうって思えるから大丈夫。けど、それでもダメなら……?」

 上目使いで窺うように聞いてくる。

「うちで家政婦でもやる? 今も結構助かってるし」

「それはあり。けど……うーん、そうなるのか」

 少し考えながら右上を向くと、そこには時計がある。はっと気付いたような顔をするから同じ方向を見れば、七時三十分くらいだった。

「そろそろ行かなきゃ。今日も画塾あるからちょっと遅くなるー」

「了解、夜ごはんは俺が作るから安心して行っておいで」

 学生カバンを取って玄関へ向かう彼女を送るため、俺も後ろを付いていく。ローファーを履き、鏡で姿を確認して、プリーツスカートを緩やかに広げながらくるりとこちらを振り向いた。

「出来ることなら、絵を描きながらずっとこうしていたいなーなんて」

「逃げ場の俺が安息地になっちゃダメでしょうよ」

「そういう意味じゃ無いんだけどなー」

「ん?」

「なんでもない。いってきまーす!」

 揺れるスカートと髪の残像を残しながら、少女は学校へと向かった。

 さて、今のは一体どういう意味であろうか?

 努めて深く考えないようにしながら、俺も仕事に行く準備をすることにした。

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