503
天井や壁は外と同じく境目が曖昧な白色で統一されている。
部屋の外と違う点が在るとすれば、若干の生活感を感じさせる蓄音機、観葉植物、それとデスクに牛革張りのリクライニングチェアーがある事だろうか。
その椅子に背中を預けながらこちらに目線を送っている、一人の男。
「来客なんて久しぶりだ。 しかも、若い青年ともなれば初めてだな」
そう言って、手にしていた書物をぱたりと閉じてデスクの上に置いた男は、唇の端をクイッと持ち上げ、ニヒルに笑って見せた。
その男の顔を見た季人は、それが初対面ではあるものの、どこかで会った事があるような気がした。
皺も白髪も増えていたが、確かに見覚えがある。 それは、ウィルの部屋で見たサウンドメディカルの資料に記載された顔写真。
間違いなく、目の前にいるのはサウンドメディカルの元社長その人だった。
「フランク・レイノルズ」と、季人は確信そのままに口にする。
「これは驚いた。 どこかで会ったことがあったかな。 物覚えはいい方だと思うが、流石に年には勝てんといったところか」
まだまだ高齢には見えないフランクは笑いながら頭をかく。
しかし、季人の心中はそれどころではなかった。
「驚いたのはこっちだ。 あんた、世間じゃもう死んだことになってたんだけどな」
それが今目の前にいるってんだから、テンション上がりますよ……とまでは口にしなかった。
戦時中などは死んだはずの人間に出会うなんてよくある事だったのかもしれないが、そういうのに慣れてない季人の気分は高揚していた。
季人は決して人見知りではない。 一般常識程度の言葉遣いは心得ているし、目上の人間に対しても多少は……気持ちばかり敬意を払う。 しかし、それが常識から外れた人間であれば、季人にとってはもはや大統領どころか、妖怪の類を相手にしているようなものだ。 死んだはずの人間など、まさにそれだ。
故に、リスペクトを通り越して興奮のあまり素の自分で対応してしまう。
「ああ、だろうともさ。 あの男はそういう男さ」
後半の言葉は季人にではなく、自分の中で一人ごちるようだった。
「それは、那須の事か」
「ほう……」
どこか感嘆するような、珍しいものを見るかのような目でフランクは季人を見た。
「どうやら、先程から聞くに、ウチの事情に詳しいようだね。 まぁ、こんな最果ての地に来るくらいだ。 余程の物好きなんだろうが」
「物好きってところは的を得てる。 それよりも、あんたはどうしてこんなところに? 棺桶にしては、随分と過ごしやすそうじゃないか。 殺風景と言えばそれまでだけど」
「死体と違って、寝ているだけといういうわけにもいかなくてね。 というより、死なれたら困るのさ」
「死んだら困る……? 会社としては、死んでくれた方がよかったんじゃないのか?」
那須は会社を自分のものとする為にフランク氏を暗殺するという一計を案じたのではなかったのかと、季人は思ったままを口にする。
「はっはっは。 言いにくいことをズバッというね君は。 まぁ、もちろんそうだろう。 結果的に今、私は死んでいるらしいじゃないか。 おそらく、そう遠くない未来、本当にこの世から消されるだろうがね」
「消される……殺されるってのか」
会社はフランクを必要としてこの場所に留めているわけではないのか?
だったら何のために……。
その答えはあまり深く考えずとも、当然の帰結とばかりに季人の頭に浮かんだ。
前代表を軟禁しておく理由など、そう多くはない。
システム・セイレーンのデータのサルベージが目的であるなら、既にプログラムのほとんどが解析されているから、理由には該当しないだろう。
だが、現在のサウンドメディカルを考えれば、理由は一つ。
サウンドメディカルが内包している、現在進行形の問題に対しての対処策。 単純にしてもっとも強固な解答が。
「そうか……どうしてセレンが会社に協力的なのか、ようやく分かったぜ。 おかしいと思ってたんだ。 自分の父親が暗殺まがいに消された会社に、いつまでも身を寄せているのは何でなんだろうってな」
セレンは間違いなく馬鹿ではない。 それは初めて邂逅した時にも感じたし、そのしゃべり方に教養を感じた。 少なくとも、物事の推移を見定めるくらいの事は出来る頭はある。
そんな彼女が、父親の身に起こった事に無関心であるはずがない。 誰よりも身近にいたのだから、薄々感づいてはいたはずなんだ。
しかし、彼女は那須の下に居続けた。
となれば、答えは――。
「……人質か」
フランクは視線を落とし、悲しげに微笑んでから首を縦に振った。
「あの子は私でも信じられないくらい純真で優しい子に育った。 会社は私という単純ながらも強固な楔を娘に打ち込んだのだろう」
楔……。 それは確かにセレンに打ちこまれただろう。 結果、那須は上手い事セレンを使って研究を続けているのか。
親を盾に取られて那須に……サウンドメディカルに協力していると。
「……」
だが、それならそれで分らない事がある。
もしそうだとしたら、あの音楽ホールでの一件はどういう事なのか? 失踪者を一同に集めて、何がしたかったのか?
あの場のセレンの言動は、企業のというより、個人の意思が表面に強く出ていた様に感じた。 感情的な部分も見え隠れしていた。
セレンには独断による行動の権利が与えられているのか?
いやいや、と季人はその考えを否定する。
そんなはずはない。 ここにセレンの父親がいるのが答えだ。
おかしな行動をとれば、父親に害が及ぶ。
矛盾を整理しきれない季人はひとまずその考えを脇にどけ、ふと思いついた疑問を口にした。
「逃げだそうとは思わなかったのか? 助けを求めるとか、告発しようとかは?」
「ん? もちろん何度も考えたさ。 実行にも移した事もある。 五回目に足の健を切られるまでは続けたよ」
よく見れば、服の袖、裾から見える手足には、包帯が痛々しくまかれていた。
逃げ出そうとした結果、肉体的な自由を奪われたって事か……。
「中々、エグイことするんだな」
「聞き分けがない場合、仕置きをするのに年齢は関係ないみたいでね。 まったく、年寄りはもう少し労わってほしいものだ」
「まぁ、その点は同意できるな。 けど、そんなに歳って程じゃないだろ」
季人は当たり障りなくさらりと話題を流したが、そこには想像を絶する過去があった事だろう。
きっとここに閉じ込められた理由はセレンに対する抑止の為だけじゃない。 封じられたシステムの提供を迫られ、手酷い拷問すら受けたはずだ。
しかし、今のサウンドメディカルを見た限り、それに耐えきったということなのだろう。
相当な胆力の持ち主だ。
「はっはっは。 ところで、君は娘とどういった関係なのかな?」
「関係?」
「こんな境遇にあっても、一人娘の交友関係はどうしても気になるのさ。 ほら、あの子かわいいから」
笑顔で自分の娘の事を話すフランクの表情は、軟禁されて悲観に暮れる科学者の顔ではなく、一人娘を思う父親のそれだった。
「う~ん、興味はある」と、季人は思ったことを正直に口にした。
「実父を前にして、その曖昧で不誠実な言葉を吐くとは、随分と肝の据わった男だ」
「これでも誠実に答えたんだぜ。 ウソ偽りなく」
これも本当の事。 興味の対象としては最上の異性である事は間違いない。
「ほう……そう来たか。 で、君から見て、あの子はどうだね?」
「どうって……俺だって一度会ったっきりだからなぁ。 不思議ちゃんってイメージが第一で、あとは……優しそうには見えたかな。 まぁ、俺には優しくなかったけど。 あと、可愛いってより綺麗系だと思うぞ」
「おお、そうか。 やはり、親の目線以外からの話を聞くのは新鮮だな。 いや、可愛くて優しくて純真だということは私も十分理解している。 それとフルートだけでなく、歌も上手で、いや、楽器であれば大抵の物は――」
口早に娘自慢を展開するフランクを、季人は両手で落ち着けというジェスチャーを送る。 ほおっておけば語り終えるころには夜が明けてしまうのは間違いない。
「あ~分った分った。 スペックの高い御嬢さんだってのは十分理解したよ。 もうどこに出しても恥ずかしくない娘って奴だな」
「あぁ、いや、家事に関しては一度もやらせたことがないからなぁ……。 今はどうなっているかは知らないが。 そこさえ何とかなれば……」と、呟くように後半は一人思案の海に思考は漕ぎ出していた。
「……そうっすか」
季人は徐々にフランクの対応に辟易し始めていた。 初めの頃にあったテンションの高揚は、今では完全にフラットになっている。
現在の季人の印象は、大発明を成し遂げた死んだはずの偉人としてではなく、ただの子煩悩などこにでもいる普通の親父だった。
「他には何かないのかね? 久しく娘と会っていないから気になるんだ」
だからというわけでもないが、一向に進展しない展開に痺れを切らした季人は、早々に確信へと近づく為の勝負カードを切った。
「そうだなぁ。 ハーメルンの笛吹よろしく、フルートを使って人を誘拐していたのが印象的だったぞ」
その言葉に、フランクは一度大きく目を見開き、その後背もたれに背中を預けながらゆっくりと息を吐いた。 どこか、一つ事をやり遂げたような男の顔で。
「そうか。 なら、うまくいったんだな」と、そんな事を口にした。
「うまく……いった? あんた……知ってたのか? セレンがやった事を」
「もちろんだ。 私が提案した計画だからな」
「……は!?」
この部屋に来てからの記憶を全てふっとばしかねない程の新事実に驚愕する季人の目は、これ以上ないほど見開かれていた。
「提案? ていう事は、失踪事件の裏で糸を引いてたのは那須厚貴じゃなくて、あんただったのか。 さすがにこれは、予想外の黒幕だったぜ」
全てはサウンドメディカルの仕業だと思っていた。 だがしかし、真相は斜め上から隕石の如く降ってきた。 死んだはずのサウンドメディカル元社長が企てたなんて夢にも思わない真実が。
「こんな手では、そうたいした糸繰りは出来んがね」
手をひらひらと目の前で動かすフランクだが、季人はそんなパフォーマンスよりも、その先にある動機が知りたかった。
「一体何がしたいんだ? 娘に誘拐までさせて、一体何がしたい? 自慢の娘にさせるような事じゃないだろ」
あれだけセレンの事を気にかけ、幸せそうに語る男のする事とは、到底思えない。
「何がしたい……か」
フランクはデスクの隣に備え付けられていた棚から茶器を取り出し、季人前に差し出す。 「安物だがね」と言ってポットからカップに注がれた琥珀色の紅茶は、ずいぶん時間を置いたものなのか、完全に香りが飛んでしまっていた。
「私は、贖罪がしたい」
フランクは自分の分も紅茶を入れ、一度口に含ませ、舌と唇を湿らせてから口を開いた。
「これまでに私達が作り出してきた物によって、犠牲になった人達に、心の底から」
カチリ、とカップを置いたソーサーの音が無機質な部屋に響いた。
完全に理解の範疇を超えたフランクの言に開いた口が塞がらない。 呆れているわけではなく、もう何を言っているのか分らない。 置いてけぼり感からくる脱力の結果だった。
考えがまったく追いつかない季人は、一息つく為にぬるい紅茶を一口飲む。
「……贖罪の為の誘拐だと? 誘拐がどう贖罪につながるっていうんだ?」
「誘拐というのは正確ではない。 あの子は……セレンは、誘拐されそうだった人々を一時的に保護したにすぎない」
「保護?」
「そうだ。 那須が社長となってから、これまでに多くの人々が誘拐されてきた。 音の波、音楽、歌というシステムによって操られ、自らが足を動かし、サウンドメディカルに誘導されて……。 最近メディアで公開された人数なんて氷山の一角だ」
その事実に、季人は息を飲む。
「……マジかよ。 冗談だろ? 氷山の一角って……だったら海面下でどれだけの人が誘拐されたっていうんだよ」
「知らない方がいい。 ただ、十人や二十人ではない」
次々と明かされていく事実に、季人は息を飲むしかない。
「……節操がないな。 ていうか、もう少しばれない様に気を配るってことができないのかよ」
「いやいや、ばれなかったじゃないか。 最後から数えて七人目までは」
それは、メディアに公表された最初から数えて最後に失踪した人が公表されるまでの人数だ。 御伽は含まれていない。
何よりも、それまでは一切発覚することなく、人を掻っ攫い続けた事に季人は驚愕する。
「人を誘導できるかの試験的な部分から始まり、集めた人々が催眠状態に導入される統計を図り、システムがどの程度まで人をコントロール出来るかを調べ、最後にどこまで人として壊れないかを実験したようだ」
淡々と語るフランクの表情は能面を張り付けたかのように変化はない。 ただ、それがあるがままの事実だと、その口から紡いでいく。
「……」
季人自身、ある程度サウンドメディカルのしていた事に予想はつけていた。 黙って聞き入っているのは、それが少し思っていたものよりも非人道的な物だったからだ。
フランクの語る最後の部分、人として壊れないかの実験というのはどういったものなのか。 少なくとも、その処置を施された被験者が無事だとは到底思えない。
「だから、私とセレンで町中に張られた誘導ルーチンに歪を作ったんだ。 いや、私は立案しただけで、ほとんど娘がやってくれたんだがね」
「……セレンが?」
季人の確認の問いに、フランクは頷く。
「まぁしかし、企業に怪しまれない程度の工作と言ってもたかが知れているがね。 本来なら必要もない駅構内スピーカーの取り換え作業。 私には、それに介入するのが限界だった」
それが都庁前駅の事を言ってるのだと季人は直ぐに分かった。
ウィルの言っていた、定期点検の際に取り付けられたサウンドメディカルのスピーカー。 催眠誘導の為のキーアイテムだとは分っていたが、設置された時には既にプログラムを書き換えていたということなのだろうか。
「けど、どうやって? あんたはここから動けないんだろう?」
季人の問いに、フランクはデスクの上に置いてあった親指くらいの大きさをした端末をつまみ上げる。 察するに、この電波の届きにくい地の底でも通信可能な小型の通信機といったところか。
「高枝から蹴落とされ、今となっては隔離されてこんな鳥かごに放り込まれたが、まだ現役時代から付き合いのある仲間は何人か社に残っていてね。 那須ではなく、私に着いてきてくれた頼もしい仲間だ。 ただ、二日前に彼らとも連絡は付かなくなったが……」
「……」
それはつまり、連絡を取れない状況に、その頼もしい仲間が陥ったということだ。 その後の結末を楽観的に想像する事は、季人には出来なかった。
「まぁそれはいい。 その新たに設置したスピーカーは催眠状態に陥ってる人間の意識にさらに深く潜り込み、上書きする形で再度催眠誘導をかける。 その為のプログラムを施したんだ」
「そんな事が出来るのか?」
流石はプログラムの根本を作った男。 現場を離れたとはいえ、その性質を十分理解しているからこそ、取れる手段も承知しているということか。
「ああ。 催眠中の意識はシステムの効果によって、常時リラックスしている。 だから自分の行動に疑問を抱くことはない。 そこに、特別な波長を介入させることで、その行動を中断させ、リラックスしていた意識に突発的な緊張作り、ブランクを発生させてその隙間に催眠効果を上書きするんだ」
説明される仕組みをじっと聞いていた季人は、その手法に覚えがあった。
「成程な。 俺のサイトでもオカルトの項目で扱ったことがある。 催眠術導入方のパターン・インタラプションてやつに似ているな。 まぁ、自分で試した限りじゃさっぱりだったが」
フランクは季人の解答に首を縦に振り、肯定を示す。
普段あまり考えなく行っている日常的行動。 例えるなら、挨拶やタバコ、鍵の開け閉めから食事に至るまで、そういったものを途中で中断することによって意識に空白をつくり、その部分に催眠術を適用する方法。 中断法ともいう、ポピュラーではないが方法の一つとして知られている催眠術導入法だ。
季人自身、催眠術にかかってみたいという願望から色々な方法を試したが、どれも満足のいく成果は上がらなかった。 その時に行ったうちの一つが、中断法……パターンインタラプションだった。
「それで、本来であれば誘導状態の検証と同時に研究施設へと誘導される筈だった人々を、別のルートへと誘導したんだ。 サウンドメディカルが目をつけていない、安全な場所にね」
その最後の言葉は、今まで聞くばかりだった季人にとってようやく合点がいくものだった。
「それがあの音楽ホールだったのか」
季人の質問に、フランクは少し驚いた表情を見せる。 音楽ホールに人を集めたという事は、セレンとフランク以外、連絡が取れなくなる前に協力していたフランクの元同僚しか知らない事だ。 例外があるとすれば――。
「……そうか。 君が報告にあった、音楽ホールに訪れた青年だったのか。 どこまでも縁があるな、私達は」
「男に言われても嬉しくないセリフだなそれは。 というか、よくそんな良物件がポンと見つかったな。 賃貸情報誌にでも載ってたのか?」
「はは、まさか。 もちろん同僚に密かに協力してもらい、下調べを行った結果だ。 ただ、誘導した者たちの健康状態の経過を見て、長期的な待機は無理だという事も時を置かずして把握できた。 思った以上に催眠状態にあった者たちの衰弱が激しかったんだ。 だから危険な兆候にある者だけは再び駅へと返した」
それが、失踪者発見の最初のニュースになったのか。
警察の捜査からによる成果ではなく、フランクたちによる意図的な解放だったと……。
「だいたい、何だって失踪事件をなぞるような真似を? そのまま家に帰すように催眠をかける事は出来なかったのか?」
季人の疑問に、フランクは意味ありげな笑顔を返す。
「私たちの一番の目的は当然、自覚なく実験の被験者とされていた者たちの安全確保。 まぁこれは、かなり手遅れだったと言わざるを得ない。 たったの八人しか救えなかったのだからね」
それでも、八人は救う事が出来たのだ。 その内の一人は、御伽という事になるのだから、季人がどうこう言うつもりはない。 むしろ感謝しているくらいだ。
「そして、もう一つの目的は、サウンドメディカルの所業を警察やマスコミ以外の人間に気付いてもらう為だった。 しかし、こちらは大っぴらに動いたら何が起こるかわからない。 今となっては軍とでさえ取引をする企業だ。 どんな癒着がどこにあるか分らなかったからね」
警察に知らせることも、状況をネットに流すこともできない。
もし那須の息が掛かったものに情報が知れた場合、関係者の身は人知れず葬り去られる事になる。
フランクに加担した人間だけじゃなく、職員にまで口封じの手が伸びる可能性があるのだ。 フランクはそれを懸念していた。
ただ、残念ながら社内の協力者には既に手が伸びていたようだが……。
「それでも、諦めるつもりはなった。 きっと誰かが気づいてくれると信じて行ったことだ」
「だったら、音楽ホールの時にでも俺に言ってくれればよかったんだ。 そうすれば……」と、口ごもりながら言う季人。
「そりゃ君の事は警察にもマスコミにも見えなかっただろうが、何者なのかはあの娘も早々に判断はできないだろう」
フランクの言う事はもっともである。
「……まぁ、その通りだ。 かちあうにしてもタイミングが良すぎたしな」
季人があの場に行ったのは、御伽の足跡を辿ったからだ。 あの時あの場にセレンが偶然居るなんていう事があるだろうか?
「催眠は定期的に掛け直す必要があるんだ。 セレンはその為に、深夜の音楽ホールに出向き、その都度催眠状態の更新を行っていたんだ。 深夜に出会ったのは君の言う通り、偶然に過ぎないんだよ」
「そりゃ運命を感じちゃうな。 で、最終的には集めた人達をどう使う予定だったんだ? 安全確保の為だけに集めたわけじゃないんだろ?」
もしそうだったなら、早々に人目の付く所に誘導していたはずだ。 だが、そうはしなかった。
そして、駅前に開放する事に意味があるという。
「……あぁ。 その通りだ。 安全確保などと言いながら、私とセレンは彼らを利用する為に集めたと言ってもいい」と、フランクは肯定を口にする。
「……」
それを季人は沈黙を続けることで、先を促す。
「簡潔に言えば、彼らは情報という芽を湛えた種子だ」
「種子?」
「サウンドメディカルは今となっては世に名も広まりつつある企業へと成長したが、この会社の発展はセレン無くしてあり得ない。 そして、セレンの力は唯一の物だからこそ価値がある。 今の会社は、その力の複製を目的とし、能力のデジタル化こそが、全てと言っても過言ではない。 しかし、その力に価値や意味が無くなってしまったら……。 それは、サウンドメディカルの死と言えるだろう」
セレンの力が無価値となる。 フランクの言っている事は確かに、それ自体が商品の価値としているサウンドメディカルにとって大打撃どころの話じゃない。 唯一とも言える社の生命線をぶった切られるようなものだ。 社の独自技術で成り立っている様な会社はその秘密が全てなのだから。
「意図的に情報を漏えいさせるっていうわけか」
「そうだ。 あるトリガーを切っ掛けに機密を流すように、集められた人々には潜在的な催眠術をかけておいた。 後催眠の一種だ」
後催眠……。 催眠状態からの覚醒後、定められたタイミングで特定の行動をするように暗示をかけておく事。 多種ある催眠術の一つだ。
「各々機密のリーク方法は様々だが、それはシステム・セイレーンを利用した暗示である以上、ほぼ間違いなく発現する。 社の人間なら足がつくが、何の関わりもないところから突発的に情報が漏れるのは止めようがない」
「なるほど。 そして一度広まってしまえば個人を特定しようが、もう後の祭りってわけか」
そして、おそらくは独占的な技術を失ったサウンドメディカルはゆっくりと壊死していくだろう。
「で、その後催眠が発現する為のトリガーっていうのは?」
「もちろん、セレンの音楽を聴くことさ」
フランクは愉快そうに笑った。 それにつられるように季人の口からも苦笑が漏れる。
研究材料にされそうだった者がもう一度その失踪条件の発現動機であるセレンの音楽を聴いた時が、サウンドメディカルの最後。 中々皮肉の利いた仕掛けだ。
「漏えい手段も、アナログなら郵便や公衆電話からのマスメディアや医療関連会社、厚生省への直接提供。 デジタルなら密かに契約積みの私のアカウントを使ったあらゆるSNS、動画サイトを利用した情報公開と、色々用意してある」
そこまで聞いて、季人はようやくあの時セレンが言っていたことの意味を理解した。
確かに、季人があの場に行こうとも行かずとも、フランクとセレンの目的は達成していた事だろう。
「けどよ、そんな事をして今の社長が黙っているとは思えないけどな。 あんたがうまく動いていたとしても、深夜にうろつくセレンの行動が怪しまれていないとも限らないだろう?」
「もちろんだ。 あれはあれで以外と頭が回る男だからね。 すでに、娘のやったことにも気づいているはずだ」
「……おいおい、大丈夫なのか?」
社の内情、もとい、最上級機密が露見するような事態になってら、セレンもフランクも無事でいられる保証などないのではないだろうか。
というよりも、現在の状況は無事でいられる保証を失ったというべきか。
そして、それはフランクの解答でよりハッキリしたものとなる。
「いや、もうだめだろう」
季人が思っていた通りの、だが、まるで他人事のようにフランクは鼻で笑った。
「しかし、それもいいと思った。 このままズルズルと生き続けて娘の足かせになるよりはよほどいい。 もう、あの子の悲しい顔を見続けるのは……な」
「全部、承知の上か」
フランクの行動は、セレンを解き放つには余りある物だ。 結果、これ以上の軟禁はセレンの楔として生かしておく以上にリスクが高いと判断するだろう。 その結果、自分が殺されるとしても。
「私がいなくなれば、少なくともあの子がこれ以上ここで実験に付き合う必要もなくなる。 本来であればもっと自由に歌う事も演奏することも出来たはずの子なんだ。 私には言わないが、きっと今でさえ本人も望んでいるはずだ。 だから私は、出来ることなら今からでもその望みを叶えてやりたい。 何より、セレンの能力は感情が効力を左右する。 このままではいずれ、摩耗した感情に引きずられるように、その力さえ失われるだろう。 あの力は神様と、妻があの子に与えてくれたものだ。 それが消失してしまう事は、私には耐えられない」
虚空を見つめながら言うフランクの横顔は、そこにはいない愛娘へと向けられた柔らかい笑みを浮かべていた。
「だが、これから先セレンの立場はかなりきつくなるんじゃないか? 娘の暗躍だって、咎められる対象だろう? みすみす会社が許すとは思わないぞ」
「君の言う通り、恐らく那須は許さないだろう。 しかし、そんな事はあの子も十分解っているんだ。 それでも、これ以上犯罪の片棒を担ぐのはごめんなんだよ。 私も、あの子もね」
神と妻からの贈り物。 そうフランクが話すセレンの力。
確かにレイノルズ親子にとって、その力から生まれたシステムが延々と悪行の手段に使われるのは耐えられないだろう。
「今頃セレンは打ち合わせ通り、姿を眩ませているはずだ」
「……そうか。 危うい立場ってのは変わらないが、直ぐにどうこうってわけじゃなさそうだな」
それを聞いて、季人の胸の内に渦巻いていた杞憂は晴れた。
「ああ。 上手く身を隠している事だろう」
「ふぅ……。 ようやく前向きな話が聞けたぜ」
「はっはっは。 まったくだよ」
ただ、空気は期待したほど和むことはなかった。
誰か、この家族に、もっと気付いてやれる人がいれば、こんな事にはならなかったのかもしれない。 だが、彼ら二人には頼れる者があまりに少なく、小さな世界に身を置く二人にとっては、とれる方法が少なすぎた。
「……だが、よかった」
突然フランクが口にした意味を、季人は直ぐに把握できなかった。
「ん、何がだ?」
「最後に、君のような青年に会えて。 自分の一生は他人の目に触れることなく潰えるものと思っていたからね」
最後……。 その言葉が意味するところを、季人はあまり深くは考えないようにした。
だが、遠くないうちにフランクとは二度と会う事は出来ないだろうという事は理解できてしまった。
「俺は別に……何もしてないだろ。 ただあんたの話を聞いていただけだ。 吉報でも土産に持って来れればよかったんだけどな。 ここにあんたがいることすら俺は知らなかったから、そこんところは勘弁してくれ」
おどける様にして悲観的な方向に舵を切りそうだった思考を振り払う季人だったが、それが声色に出ていたかどうかは自分でも分らなかった。
「はは。 いいんだ。 思うに君は、ここにセレンがいるかもしれないと思って、こんな所に来たんだろ? だが、実際にいたのは未来のない死んだはずの男だったわけだ。 むしろ、こちらこそ申し訳ない」
「いや、そこで謝られても困るって。 運命的な出会いには違いなかったけど、それほど落胆もしてないぜ。 死んでるはずの人間っていう時点でそそられるものがあったからな」
二人は示し合わせたように笑いあった。 他愛もない言葉の応酬だったが、二人にとってはそれで十分だった。 訪れるはずの無い若い男の来客、そして死んだはずのサウンドメディカルの元社長。 その出会いだけで、互いは愉快な気分になれた。
二度目は無いと互いに察しているから、なおさらに……。
「まったく、本当に面白い男だ君は。 今までここで過ごしてきて、こんな事は一度として無かった。 おかげで、君とこうしてお茶を飲み、話をすることが出来た。 副次的なものではあるが、少なくとも、今回行動に移した価値はあったというものだ」
満ち足りた表情で、後悔など微塵も感じさせないフランク。 心の底からそう思っているからこそ出来る笑顔だろう。
「……はは、そうか」
そして、そんな笑顔を崩さないフランクの表情と言葉に、季人は呆れながらも感心した。
この期に及んでこんな表情が出来るなんて、間違いなく大物だと。
ただそれは、今後の未来を悟っているからなのかもしれないが……。
季人とフランクの間に、一呼吸分の無言の時間が訪れる。
「……」
「……」
それは、空気を換えるのに十分な雰囲気と、別れの時を感じさせた。
「さぁ、もう行きなさい。 じきに、ここにも人が集まってくる。 あと十分位だろう。 色々と工夫を凝らしてここまで来たのだろうが、この部屋の管理体制はまた別格だ。 この部屋に入室があった時、恐らく那須へ何らかの報告が上がっているはず」
「……っ。 ウィル!?」
どうして、今まで気が付かなかったのか、相棒の声が完全に途絶えている事に。
スマートフォンを取り出して確認した季人の目が確認できたのは、圏外を示すアイコンだった。
息を飲んだ。 季人の全身が一瞬寒気に覆われた。
一体いつからジャミングがされていてのか?
だが、それ以上に問題なのは、これからここに来るという奴らは、一体何が目的だというのか?
……答えなどそう多くはない。 侵入者を撃退、もしくは捕縛するか。 もしそれだけであるのなら、まだ季人の気持ちは軽い方だった。 何せ、自分だけの被害で事が収まるのだから。
しかし、現状を那須がどう受け取るのかは悲しいくらいに明白だ。
「もしかして、あんたが何かしたと思われているのか……」
厳重な管理体制が敷かれている所に、外部からの侵入があったのだから、十中八九そうだろう。
まさしく、目も当てられないとはこの事だ。
自分の単なる興味本位という浅慮のせいで、一人の人間を窮地に……死地に追い込もうとしているなんて、冗談では済まされない。
しかし、そんな季人の考えを、フランクは失笑と共に鼻息で吹き飛ばした。
「気にすることはない。 と言っても慰めにはならんだろうが、本当に気に病む必要はないんだ。 最初はこの階に誰かが来たことに気付いた時、ああ、意外に早かったなと思った。 早々に計画が露見したんだとね。 だから、こちらから潔く扉のロックを外した時、すでに覚悟を決めていたんだよ。 ところが、顔をのぞかせたのは見た事も無い青年だった。 まったく、まさかこの境遇で拍子抜けを味わう事になるとは思わなかった」
「……あの分厚い扉が開いたのは、そういう事だったのか」
死を受け入れるために扉のロックを解除し、その覚悟が、フランクと季人をめぐり合わせた。
この邂逅は、フランクが手繰り寄せたパンドラの底にあった希望と言っても、決して過言ではない。
「だからこの程度、早いか遅いかの違いだ。 明日になるか、明後日になるか……もしくは数時間後か。 その程度なんだ」
「……」
言葉もない。 思いやりからのものなのか、本気で言ってくれているのか、季人自身には分らなかった。
だが、その言葉のおかげで、季人の心持は多少軽くなった。 安堵するまでには至らなかったが……。
「こんな退屈なところが、君の終わりじゃないだろう? 行きなさい」
再度季人に促すフランク。 しかし、季人はそれに対して行動するのではなく、会話の最中からずっと思っていたことを口にした。
「なぁ、一緒に来るか? 別に、これ以上この部屋に居る必要はないんだろう?」
ここにいれば間違いなくフランクは殺される。 今ならまだ間に合うかもしれない。
幾度となく脱走が阻まれたとしても、自分とウィルがいる今ならばと思っての問いかけ。
だが、それに対してフランクはまるで初めから回答を準備していたかのように首を横に振った。
「そうしたいのは山々なんだがね。 五回目の脱走を試みた時、体に発信機が埋め込まれてしまった。 この部屋を出たら自動的に作動して、地球の裏側に居ても、見つかってしまう。 外科的に取り出すのも、今直ぐには無理だ」
「……そう、か」
何もかも、時間が圧倒的に足りない。
選択肢はたくさんあるはずなのに、それを実行に移すだけの猶予がない。
こんな事態、予想は出来なかった。 だが、もとより自分一人の事だけで手一杯なんだ。
自分はスーパーヒーローでも、何か特別な力があるわけでもない。 いくら優秀なサポートがあろうと、自分の出来る限界値は十分に理解している。
――だからフランクを救うことは叶わない。 それが現実だ。
しかしそれで、自身のやり場の無い、言いようの無い悔しさが消え去るという事も無い。
「何か、俺に出来る事はあるか?」
季人は自覚して言ったわけでは無い。 本人ですら恐らく否定するだろう。 しかしそれはきっと、贖罪を求める為、口にしたのかもしれない。
「生真面目な男だな、君は。 だがそうだね、甘えさせてもらえるなら、一つだけ」
「……何だ?」
何の気なしを装って聞いた季人だったが、何となく、フランクが口にする事は分っていた。
それ以外、考えようがなかった。
そして、フランクの言葉は――。
――「娘の事を、頼むよ」
季人の思った通り、娘を案じた父親の願いだった。
「……分かった」
この状況下で、その返答以外を口にする術を季人は持っていなかった。
本心であれ、偽りであれ、その言葉によって目の前の男を救うことが出来るのならば、これ以外の言葉はあり得ない。
特別な決心も覚悟も無いままでの返答ではあった。
だが、無駄に悩んだり、葛藤するようなことはなく、自然に口を突いて出たのは確かだった。
「まぁ、それ位かな。 やりたいことはやりきったし、特別な願望はこれ以上ないよ。 それに、読みかけの小説がね、後もう少しで終わるんだ。 出来ることなら、静かに読みたい。 幸いにもここは防音に関しては文句はないし、お気に入りのレコードもある。 人生を終わらせるには、私にとってそれほど悪いところじゃない。 贅沢な方だと、心の底から思うよ」
そんな事を、まるでおもちゃを自慢する子供のような目で言うのだから、この人も大概だ。
「いいねぇ。 俺もそんなことを一度でいいから言ってみたいぜ」
自分の死に場所を選べる。 それは、人によっては、この上なく幸福な事なのだろうから。
「まだまだ。 せめて自分の子供が出来てから考えてみなさい」
「分ったよ。 ……それじゃあな」
これ以上長居することは許されないし、状況が許さない。
しかし、季人のそれは、また近いうちに会いにでも来るかのような別れの台詞。
「ああ。 さようなら」
季人が部屋を後にするその間際、聞いたことのある音楽が静かに流れ始めた。
笑顔で送り出すフランクは、これから訪れる自分の未来に、何一つ絶望してはいなかった。
この邂逅は今生における一夜の夢であったかのように、まるで初めからこの部屋には一人きりだったかのように、エンディングまでもう間もなくの小説、シェークスピアの戯曲が原作であるハムレットを再び読み始める。
終焉まで、あと何ページかと思いを馳せながら。
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