102
明くる日の早朝、季人は職場とは名ばかりの仕事部屋であるウィルの家へと赴く前に、朝食を摂ることは無い。
起き抜けでそれほど食欲が湧かないという事もあるが、それとは別に、もはや習慣となっている行事があるからだ。
端的に言ってしまえば、それは食卓を囲むことだ。
一人暮らしの季人にとってその習慣を行うには当然だが自宅では不可能だ。 かと言って、ウィルと共にジャンクフードを食べるという朝から胃がもたれそうな選択肢はあり得ない。 例え朝専用メニューだとしてもだ。
「……は~」
息を吐けば、それは白い煙となって立ち消えていく。
澄んだ朝の空気を感じながら人気の少ない道を歩いていると、次第にその毎朝の習慣を行うべき場所が見えてくる。
「ふぁ~……」
目印となる赤い鳥居と共に見えてきたのは、そんな習慣の約束を取り付けた張本人である人物……。
大口を開けて寒くなり始めた空に向かって白い息を吐き、女性が本来懸念すべき恥ずかしい姿を堂々とさらしている黒髪ショートの少女。
「おい
高校の制服姿で竹箒を片手に境内の掃除をしている
「今日は一人なのか?」
目を毛糸位にまで細めて振り向いた少女は、如何にも寝起きですといった様相で挨拶を返す。
「おはよう、季人」
「……おはよう。 お前、目が死んでるぞ。 草薙家の御当主はどうした?」
「父さんなら今朝早くに出かけちゃってもういないわよ。 確か、ボランティアに参加してくるとか言ってた気がするけど」
相変わらず忙しい人だと季人は思う。
御伽の父親であり、草薙神社の御当主である
幼い頃からこの神社を遊び場としている者達にとっては親身でもあり厳しくもあることから、おじさんと言うよりも先生という印象が強く、殊更季人に対しては踏み込んで世話を焼きたがる傾向がある。
その世話焼き精神は境内の中だけには留まらず、気が付けば鳥居の外にまで手を広げているのだから、自然と頭が下がる思いだと季人は目をつむる。
「そうか、それじゃあ先に入ってるから、早く掃除終わらせろよ」
「うん、ちょっと待って」
一つ息をついて草薙家の玄関へと向かおうとしたところに、世界を狙えるほど素早い御伽の左手が季人の袖を掴んだ。
「どうした?」
「そこは、俺も手伝う、とかでしょ?」
「……?」
「いやいやいや、逆にこっちがきょとんとしたいわよ」
季人は朝からあまり働かない頭を懸命に働かせて、御伽の真意を探ろうとする。
手伝う、とは、まさかこの境内の掃除を手伝えと言っているのか? この寒空の下、まだ半分以上ありそうな清掃圏を? 加えて、イベントなんて起きそうにもない、何の面白味もなさそうな事をこの俺が……?
その答えにたどり着いた時、季人は御伽の肩にポンと手を乗せた。
「お前、まだ寝ぼけてるのか」
「は?」
確かに、普段なら父親と二人で掃除しているのだから、一人でやってる分、いつもよりペースが落ちるのは当然だろう。 そもそも、御当主の起床が鳥のさえずりよりも遙かに早く、先に掃除を始めていてるのだから、御伽が一人でいつも通り起床して掃除を始めたとしたら、こうなるのは自明の理だ。
しかし、それで自分が掃除を手伝うことの理由にはならないと、季人は半ば大真面目に考えていた。
「まぁ、そんな時もあるか……。 俺のことなら気にするな。 適当にくつろいでるからよ」
例えこれから朝食を馳走になろうとも、それだけはまず口にする。 思っているだけでは伝わらない。 思いは口にしてこそ相手に届くのだから。
「大体、俺の性分なんてよく分かってるだろ。 いや、仮に境内を掃除したその先に、胸躍る出来事が待っているっていうのなら、話は別だけどな。 付喪神がお礼に姿を現すとかなら喜んで手を貸すんだけど」
「……」
御伽は季人の袖をつかんだまま、もう片方で手にしていた箒から手を離す。 支えを失った箒はまるでその場から避難するように地面へとその身を伏した。 まるでこの後の狂気を見通すかのように、そして、やけにその動きがスローに見えたのは恐らく気のせいだろう。
「お茶請けの場所なら把握してるから、安心して掃除に励んでくれ。 あ、学校に遅刻しない程度に切り上げた方がいいぞ。 流石に俺も朝食抜きで仕事は御免だ」
季人は堂々と、遠慮など一切なく御伽を正面から見据えて言い切った。 傍から見れば男が廃れ落ちている典型とも取れるだろう。
ただ、言われた方の御伽はその眼元が俯いた前髪に隠れ、はっきりと表情が読み取れない。
「ええ、そうするわ。 それとね、季人」
「ん?」
御伽の体が陽炎のようにぶれた。 少なくとも季人にはそう見えた。
「お茶受けの前に前菜をどうぞ」
そして、それがボクサー特有のステップインだと気付いた時には既に遅かった。
「腹に溜まる前菜だったな……冗談の返礼にしてはマジで痛ぇ」
「冗談じゃなかったくせによく言う。 冗談の目じゃなかったわよ」
その後、並んで草薙家の母屋に入った二人。
畳の上に腰を下ろし、「そういうお前はヒットマンの目をしていたぜ」と小声で呟き、腹部を擦りながら芸術的なフォームで放たれたリバーブローに対しての賞賛を惜しみなく送った。
「いや、早朝だったからか、俺も少しぼけてた。 お前のその手の速さをうっかり忘れていたからな。 二つの意味で」
「フルコースじゃないだけまだマシでしょ」
学生服の上からエプロンを着け、得意げな顔をしたままリビングのテーブルに朝食を並べていく御伽。 それとは対照的な、ウンザリとした表情の季人。
「……オードブルの頃には地面を舐めてそうだ」
あの後、結局二人がかりでも境内の清掃は終わらないと判断した御伽は、「終わるかぁーーー!!」とその場にいない父親に対して恨み節を口にしつつ、早々に箒を放り投げて朝食の準備に取りかかった。
「相変わらず、このニュースキャスターは面白みに欠けるな。 占いの時くらい面白い事の一つでも言わねえのか」
暇を持て余した季人が点けたテレビでは、無表情のキャスターが淡々と華やかなボードに書かれた十二星座に対して解説している。
真顔で抑揚も無く、「おうし座の今日のラッキーカラーは赤」などと話すところなどは逆にシュールで笑いがこみあげてくるが……。
「ただでさえ、普通はやらない今日の運勢なんてコーナーをやってるのに、国営ニュースチャンネルがジョークなんて言い出したら、この国もお終いよ」
そうだろうか。 もしかしたら時代も移り変わり、国営放送の時代が終わりそうだから民法の物まねみたいな事をしているのではないだろうか。
そんなどうでも良い事を考えつつ季人は御伽に視線を送る。
「なら、さっさと民法に変えてくれ」
「朝なんだからこれくらい静かなチャンネルでちょうどいいでしょ」
「……ですか」
渋々季人が了承を示したところで、食卓に本日の朝食が並べ終わり、御伽がエプロンをはずして季人の正面に座った。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
こうして、季人は日課となった草薙家での朝食をいつも通り頂く。
この習慣が始まった当初は、朝早く起きるのがとてつもなく億劫で、何度仮病なり急用なりで休もうとしたか数えきれない。 だが、それを敢行すると後日、道真氏がどういうわけか休んだ理由の真偽を問いただしてくるのだ。
本当の事を説明しても追及が終わるまでに二時間は拘束される。 そんな面倒な事は御免こうむるが故に、毎日顔を出しているのだ。
しかしそれも、回数をこなしていれば慣れる。 お陰様で季人は規則正しい生活習慣を送るようになった。
夜更かしをしようものなら、翌日の朝食に遅れる可能性が出てくる。 そんな恐ろしい事態は絶対に避けなくてはならない。
例え徹夜明けだとしても、強迫観念が無理やり体を動かし、気付けば鳥居を潜っている程度には既に洗脳されている。
そのおかげかどうかは定かではないが、生活リズムにひどい乱れはない。
それに、御伽の朝食は普通に美味い。 家庭の味と言うのか、とても落ち着いて味わえるものばかりだ。 これで一般水準を大きく下回る味だったなら断る理由になったのだが……。
「今日も日本の朝食らしいラインナップだな。 ……?」
白米に味噌汁。 焼き魚にお新香。 このゴールデンラインナップだけで日本人に生まれてよかったと思う。 見ているだけで食欲が湧いてくる。
だがしかし、おかずに箸を伸ばそうと瞬間に、季人は自分の目を疑った。
「おい、御伽これ……俺の陣営だけ卵焼きが入っているんだが?」
よく見る定番の色と形をした玉子焼き。 御伽の事だ、きっとさり気なく出汁巻的な存在へと昇華している事は想像に難くない。
朝食と言えどそのクオリティーに手を抜かないのは実に素晴らしい事だ。 尊敬に値する。
だが、今この瞬間においては話が違う。
――季人は卵料理が苦手なのだ。
テレビばかり見て気がつかなかったその現実に、もはや抗議とかではなく、年甲斐もなく縋るような目で御伽に訴える。
「入れてんのよ」
黙々と箸を動かす御伽から簡素な答えが跳ね返る。
「なん、だと……」
このやり取り、今日で何度目の問答だろうか……。 卵はいらないと、もう何十回と言っている気がするが。
「よりにもよって、卵料理の代表格。 目玉焼きに次ぐ定番代表卵料理じゃないか」
「アレルギーでもないんでしょ。 子供みたいなこと言ってないで、早く食べなさいよ」
もくもくと朝食を口に運んでいく御伽。
作ってもらっている手前、それ以上の言葉を紡ぐことが出来ない季人。
苦悶の表情を浮かべながらも、手に持った箸を超鈍重に動かし、食いしばっていた歯をこじ開け、色、形共に完璧な黄金長方形を口の中に放り込む。
嫌いな物は早々に食べる性分なのだ。
「出されれば何だかんだ言いつつも食べれらる物なんて、本当に嫌いってわけじゃないのよ。 だったら、今からでも徐々に食べられるようになった方がいいじゃない」
もっともなご意見だ。 非の打ち所が無いほどに。
しかし、正論は時に暴論だとどっかの誰かが言ったような気がするし、当事者にとってはまさに耳の痛いご意見だった。
「大体、昔は食べられたのに、今は無理とか……。 理由をさっさと教えてくれれば、私だって鬼じゃないんだから考慮するわよ」
そりゃ神主の娘が鬼のわけはないが、仏ではないのもその通りである。
しかし、これ以上目の前の少女に弱みを握られるわけにはいかない。
卵料理が食えなくなった理由が、深夜に見たディスカバリーな番組でやっていた孵化しかけのアヒルの卵、通称バロットを食べる光景が脳裏に焼き付いているからなどと、口が裂けてもいえない。
「あ、そうだ。 一応、まぁ、お前に限って万に一つもないだろうが、いや、空から雪……いや、槍……神槍が降ってきても絶対にありえないだろうが……」
何か思いついたと思ったら、しどろもどろに言いあぐねいている季人。
ただ、何となく馬鹿にされているような気がした御伽は、ゆっくりと箸を置き、右手を握りこむ。
「……デザート、いる?」
「ま、待て! ほら、最近ニュースでやってるだろ、失踪事件。 だから、あんまり夜遅く出歩くなって言いたかったんだよ」
ウィルからも言われていた御伽への注意勧告。
それを言うためだけにスマッシュを頂くわけにはいかないと思い、口早に告げる季人。
「ああ、そんな事? 大丈夫よ。 少なくとも、門限が厳しいこの家に限ってはあり得ないわね」
だから言ったんだ……と、ここには居ないウィルに心の中で溜息まじりに訴える季人。
「だよな。 要らん忠告だと思ったんだけど、一応な」
意識付けくらいにはなっただろうと、再び箸を動かす季人。
「まぁ、気持ちだけもらっておくわ。 ありがと」
御伽も続いて箸を持ち、数瞬だがこころなしか嬉しそうにしておかずに手を伸ばす。
なぜ機嫌がよくなったのか季人にはよく分らなかったが、ひとまず、食後のデザートを頂かないことに胸を撫で下ろしたのは確かだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます