居場所
戦ノ白夜
居場所
常に水中にいるかのように周囲の世界は遠く、息苦しかった。
音のない世界に、彼女の居場所はなかった。
◇
太陽の下であれば燦然と煌めく白金の髪も、今日は輝かない。朧月のように淡い銀色だった。
窓の外を見遣る、澄んだ南の海のような瞳もどこか物憂げである。
静かに本のページを繰り、架空の物語に思いを馳せる少女。安寧は、しかし突如として破られた。
無遠慮なドアの開閉音、足音──尤も、彼女には聞こえていなかったが。
騒々しい気配に振り向けば、二人の姉がいた。
「どうなさい……」
「何? 声が小さくて聞こえやしないわよ。そんなことより早く荷物を纏めなさい。明日には迎えが来るんですからね」
「え? あの、今何と……」
狼狽える彼女を他所に、もう一人の姉は耳元でうんざりしたように繰り返す。
「さっさと準備しなさいって言ってんのよ。明日にはもう出ていくんでしょ」
漸く彼女は、姉たちが何と言っていたのか理解した。と同時に困惑の色を浮かべる。
「そうなの、ですか?」
「はあ? また聞いてなかったの? あんたは明日インフェリスの領主に嫁ぐのよ」
驚く間も与えず、口を挟む姉。
「急いだ方がいいわよ」
甲高い声で笑い、嵐のように二人は去っていった──彼女に深い衝撃を残して。
呆然と座っている彼女、ルーナ・アウローラは来る日の前日に、自身の婚約を知らされたのである。
事実上の厄介払いであった。
◇
支度の忙しさに目を回してベッドに倒れ込むも、すぐに夜明けは来た。インフェリスとは、領主とは、上手く暮らしてゆけるのか──と、突然すぎる話に途方に暮れる間にも、霞む旭日は曇天を駆け上がる。
幼い頃から、耳が悪かった。完全に聞こえない訳ではないが、耳元で、ある程度の声量で話してもらわないと分からない。何度も聞き返すことが多く、次第に疎まれるようになった。当然喋ることにも自信はない。自分の声がどのように聞こえるのか分からないので心配になり、結局か細い声でしか喋れないのだ。不安は大きかった。
だが、虐げられるだけの家に心残りはない。あるとすれば、持って行けない本たちのことくらいだろうか。
数刻後、黒塗りの馬車が庭に停まり、大して多くもない荷物が積み込まれていた。
「迎えよ。行きなさい!」
半ば叱りつけられ、歩き出そうとした、その時──
男が一人降りてきた。
そしてルーナは立ち尽くしてしまった。
黒いマントに覆われた長身、目深に被ったフード、その下から覗くのは何と仮面。
これも真っ黒に塗られ、顔を全て隠している。手袋も嵌めており、肌が一切見えなかった。
お話に出てきた吸血鬼かしら、と思ったルーナである。それか魔導師か、はたまた死神か──いずれにせよ領主の遣いらしい身なりではない。身につけている衣は平民でも手に入りそうな質素さだ。
「ほら、早く!」
異様な男の容貌に眉を顰めた姉に押し殺した声でせっつかれ、突き飛ばされるようにしてよろめきながら前に出る。と思うと、身体がふわりと掬い上げられた。
仮面がすぐ近くにあった。
暗い穴の奥から、微かな煌めきが彼女の方を見た。思わず身体が強張った。
黒衣の男は何も口にすることなく、ただアウローラ家の面々に黙礼して、彼女を馬車に乗せた。
ルーナにとって、あまりにも唐突で淡白な出発であった。
◇
ガタガタと馬車が跳ねる。
今、眼前に座っている男は一体誰なのであろう? ルーナは戸惑いと緊張に固まり、わざとらしく窓の外を眺めていた。
そんな様を見、彼は徐に懐から羊皮紙を取り出し、何やら走り書きした。
(寒くないか)
そう書いて、差し出してきたのである。ルーナはペンを取らず、ただ頷いた。羊皮紙は高価だ。
(身体の調子はどうだ)
再び差し出されるペンを取ることを躊躇い、ルーナは恐る恐る、口を開いた。
「……今日は、普段より楽です」
いつもより少しだけ大きな声が出た。
「何だ、喋れるのか」
男は呟く。その音を僅かに拾い、ルーナは耳元に手を当てた。
「聞こえるのか?」
男が身を乗り出し、彼女の耳元に口を寄せる。
「はい。そこで、お話しして、いただければ……」
「そうか。聞こえないのではなく、聞こえにくいだけなのだな」
仮面のせいだろうか、多少くぐもってはいるが、その声は耳が痛むほど大きすぎもせず、聞き取れぬほど小さくもない。心地よい、低く重く、深い声だった。
「聞こえなかったら遠慮なく言え」
「……すみません」
「謝ることはない、其方は何も悪くないのだからな。……具合が悪くなったらすぐに言え」
「はい……ありがとう、ございます」
会話が成立している。そのことにルーナは驚きと一種の感動を覚えた。
胸の内に広がっていく温もりを抱き締め、馬車に揺られる。それきり男は喋らなかったが、沈黙は以前とは違い、苦痛ではなかった。優しさと少しの勇気で、閉ざされた世界は変わるのだと知った。
◇
それから数日、男は己のことを一言も語らず、少なくとも彼女の前では一度も仮面を外さず、フードさえ脱がなかった。
彼の名、異装の
しかし、じきに明かされる。
◇
霧が濃くなり、淡い光がぼんやりと稜線を縁取っている。
「この山の奥だ、インフェリスは」
男はルーナの隣に座っていた。
「少々物寂しいかもしれぬが、悪くはない場所だ。面倒な人間が来ない」
山影は霞みながらも厳然と立ち塞がり、招かれざる者を拒むかに思われた。なるほどこの奥に街があるとは些か考えにくい。
「麓に幾つか洞窟があってな。そこから入る」
やがて馬車は、山麓に口を開けた暗闇の中に消えていった。
洞窟は思いの外広く、平坦だった。
「……あの、インフェリスとは……どのような場所なのですか」
そう尋ねてみる。暗闇が少し怖くて、何か話していたかった。
空気がふっと揺らぐ。
「……世の弾かれ者が流れ着く街だ」
若干の間の後に応えるその声は、沈みこそすれ温かく、哀傷こそあれ慈愛に満ちる。ルーナの戸惑いを感じ取ったのか、彼は静かに言葉を継いだ。
「目の見えぬ者、耳の聞こえぬ者、手足のない者、身体の弱い者、身寄りのない者……どこへ行っても厄介扱いされる者たちを、ここに集めている。健常者も多少はいるがな。痛みを分かり合える者たちだけが住んでいる街だ」
インフェリス。
そう、そこは虐げられる者たちのための、安息の地なのだ。
人知れず山間に横たわる、外界と切り離された都市なのである。
「其方を連れてくることが目的であって、婚約は口実だ。伴侶は好きに見つけるといい」
「えっ、では、領主様は……」
「俺だ。人は俺をイグニスと呼ぶ」
何と、彼は使いではなかったのだ。
光が見える。徐々に明るさと色が溢れてくる。やがて馬車は洞窟を抜けた。
光が溢れたそのとき、隣ですっと腕が上がった。
イグニスが仮面に手をかけていた。
ゆっくりと仮面を外し、彼はフードを脱ぐ。
中から現れたのは、彫りが深く引き締まった、けれどもどこか穏やかで柔和な顔だった。
頬に傷痕があり、頭には毛髪が一本もない。顔をずっと隠しているのは、素性を知られたくない事情でもあるのだろうか。
だが、彼がルーナの方を向いたとき、その理由は明白となった。
顔の左半面を覆う赤黒い火傷の痕、明らかに義眼である左目、そして欠けた左耳。
はっと息を呑んだ。
「焼かれたのだ、奴隷だった頃に……だから、俺に嫁げとは、言わない」
微かに口許を綻ばせ、イグニスは言った。
ルーナは咄嗟に言葉が出ず、ただ瞼を震わせることしかできなかった。
◇
「またそこにいるのか」
ひとまずイグニスの邸で暮らし始めてから、数ヶ月経った頃である。闇も深くなる頃、露台に出て月を眺めるのがルーナの日課となっていた。
清冽な光が照らし出す街は、ひっそりと夜の安寧に沈んでいる。揺蕩う霧が仄かに白い。
「もう慣れたか、ここでの暮らしには」
イグニスは常に屈みこみ、ルーナの耳元に顔を寄せて喋る。必ずルーナの左側に立つのは、なるべく火傷を見せぬようにという配慮だろう。
「そろそろ邸を出るか?」
暫くはイグニスの元で暮らし、それから街に家を建てるなり、共に過ごす者を見つけるなりすればいい、と連れて来られた日に言われていた。
(街、に……)
インフェリスは良いところだった。優しい街だ。この街でなら、暮らしてゆける。しかし──。
「……ここにいては、いけませんか」
その声は、いつかのように虚空に溶けてしまう。拒絶を恐れて。
「ここに、か?」
だがイグニスには届く。
「構わぬさ。俺に出来る手助けは、する──俺の顔がこんなでも良ければ、だが」
夜風に晒された顔。無残に焼け崩れた半面。左右の圧倒的な非対称性に、抱かずにはいられぬ違和感。
それでもイグニスは笑うのだ。義眼さえ、穏やかに温かく。
「はい……いいんです、お顔を隠して下さらなくても」
「そうか、容れてくれるか」
降り注ぐ光は柔らかく、玲瓏たる銀盤は遥か高み、寄り添う二人の影を描き出した。
──手足がないなら、持っている者が代わりに手足となってやればよい。目が見えぬなら、見える者が世界を描き出してやればよい。意味のない生などないのだ。人は完全無欠ではありえぬ。ここにいる者たちは、欠けたものが少しばかり珍しかったに過ぎない。生まれ持った不平等は、誰のせいでもない。
玉は磨かざれば石、月は太陽あってこそ輝ける。人間もまた然り、他者と助け合い、初めて幸福を掴める。
俺はそう信じる。誰もが互いの道を照らし合える、虐げられる者たちの希望の地。俺はここを、そんな街にしたかった。
ここが其方の居場所となれるのなら、俺にとっても喜ばしいことだ。
傷の舐め合いと笑う者など、放っておけばいい。痛みを知る者だけが優しさを知っているのだ。
静かに語るイグニスの隣で、細い肩は震える。
「イグニス、様。ありがとうございます……私、この街も、イグニス様も、大好きです」
頬を伝い、散ってゆく雫は月光を受け、宵闇に煌めいた。
それは初めての、温かい涙だった。
居場所 戦ノ白夜 @Ikusano-Byakuya
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