92.アルフリードの視点 その3
穏やかな木漏れ日が注いでいる、皇帝陛下の執務室。
その中に響く音色は、この場所の代わりの主人であるジョナスン殿下の膝の上に置かれた持ち運び式のピアノからだった。
『その空いている署名欄に君と相手の名前を記入して、私が皇家の印を押せば、婚姻許可証を発行できる』
鍵盤に視線を落とすことなく、そういった意味を指を動かして紡いだ殿下の机には、2年前に陛下に提出した、僕とエミリアの婚約証が置かれていた。
陛下と父上が倒れられ、エリーナ姫も国へ帰り、帝国の命運を担う終わることのない、苦しく重い仕事の数々に、時間の感覚も分からなくなるほど、僕も殿下も忙殺されていた。
それに加えて、ユラリス王子が傷だらけで現れてからは、ソフィアナも、あの時みたいになってしまうんじゃないかと思って心配だったけれど、もう大丈夫そうだな。
エルラルゴが死んでしまうなんて……いまだに僕だって信じられないけど。
本当だったら、今日あったことや、これからの事、他愛ない事を語り合って、もっと一緒に君と過ごしていたい。
ソフィアナの横で佇んでいる君だけをずっと見つめていたいけれど、皇城内の誰もが忙しくして働いているのに、そんな事をしたら、他の事に手がつけられなくなってしまう。
だから、あえて君が視界に入らないように振る舞ってしまっていた。
……本当に、ごめん。
それでも、エミリア。
君の事が頭の片隅から離れた事は一度もなかったよ。
やっと、やっと、長かった2年間が終わりを迎えるんだ。
数日後に訪れる君の16歳の誕生日を迎えて、この書類にサインさえすれば、僕たちは晴れて結婚できる。
婚約証を受け取り、夜になって自宅邸へと戻った。
「父上は変わりないかい?」
「はい、坊っちゃま。静かに眠られています」
容体が安定した父上は、皇城から屋敷に運ばれていた。
ゴリックからの報告を受けて、眠っている父上の寝室へ入った。
その枕元のサイドテーブルの引き出しを開けようとすると、水差しに生けられた数本の花が飾られているのに、目が入った。
「エミリアが来たのかい?」
部屋の出口のところで静かに立っているゴリックに尋ねた。
「はい。夕方ごろ、本館で残っていた最後の一室のリフォームが完成したのを確認しに、いらっしゃいました」
そうか、忙しくて邸宅内のことには全然目が向けられていなかったけれど、エミリアは気にかけてくれていたんだな。
僕が一方的に君を好きになって、君にも僕を好きになってもらいたくて、帝都中を案内したり、フローリアを君にプレゼントしたり、勝手に色んなことをしていたつもりだった。
だけど、始めの頃から君はうちのリフォーム計画に一生懸命だった。
それに、ここに生けてある母上の祖国の花の世話も、自ら進んでやってくれたり、父上には母上の愛用していた香水まで作って渡してくれた。
今でも、はっきりと鮮明に思い出せる。
君を初めて、この目で見た時のことを。
揺るぎない、意思を込めた瞳。
僕の心を射抜いた瞳。
時々、君が一生懸命やっている事を見ていると、あの瞬間の強い意思を感じる事がある。
女騎士になりたいと言っていたのもそうだけど、君は何か理由があって、隠されていたエスニョーラ邸から、外の世界へやって来た訳じゃないよね。
この2年間で、ついにその事を語ることはなかった。
それだけが僕の中で唯一、君に対して引っ掛かっていることだけど……もうこれ以上待つことなんて出来ない。
「父上、お借りしますよ」
サイドテーブルの引き出しを開けると、その中にはヘイゼル家に代々伝わる小さな箱が2つあった。
1つは、当主とその夫人が身に着ける一対の指輪が入っている。
その隣りにある、次期当主とその夫人が身に着ける指輪の入った方を取り出して、引き出しを閉めた。
エミリアとの婚約が決まった日に、
『2年たったらこの指輪を渡すから、それまで待っていなさい』
そう言って、他の男に取られるんじゃないかと焦っていた僕をなだめるように、父上が見せてくれたものだ。
君がこの指輪をその白くて細い指にはめて、この想いを受け取ってくれたら……
きっと僕はすぐにでも、君を自分のものにしてしまうだろう。
君は女騎士になるために武芸を極めたり、帝国人としての知識も備え持ったり、この2年間で成長したけど、変わったのはそこだけじゃない。
少し背が伸びたし、角度によって仕草や表情が大人びて見えるようになった。
そんな大人っぽい君をもっと見たくて、そのキレイな首筋が
ソフィアナの誕生日にそれを身につけた君は、やっぱり想像していた以上に美しかった。
それに君からは、あの花の香水の香りが漂っていた。
時折、屋敷の中で母上が通った形跡のあった場所でしていた香り。
それはいつしか、君の香りになっていた。
時間制限がなければ拒まれるのも構わずに、何度も口づけして、そんな君のことをずっと堪能していたかった。
それに、ステアの所へ行った帰りに、宿屋でベッドに一緒に入ろうと言われた時。あの時は危なかった。
キスを我慢することはもう出来なくなっていたけど、その先はせめて結婚するまでは抑えていようと思っていた。
それなのに、君を抱きしめた途端、雨に濡れて震えていたのも忘れて、体中が熱くなった。
それでも、君を温める、ただそれだけに集中して何とかギリギリ一夜を乗り越える事ができたけれど……あれをもう一度やれと言われたら、次はどうなってしまう事か。
そんな苦しい我慢を強いられるのも、あと数日で終わる。
君が僕の正式な妻になってしまえば、君は僕のものだ。
そして、僕は君に全てを捧げる。この命だって君のためだったら惜しくない。
エミリアの誕生日の日の夜。
帝都のレストランを予約した。
特別な日に使われるような、1日1組しか予約できない、帝都の中でも最高級の部類に入るレストランだ。
最近は、ソフィアナの手伝いで書類などを各部署に届けているとかで、廊下を軽やかに駆けているエミリアを捕まえて、そのことを伝えた。
彼女はその日が来たら結婚できるようになると分かっているはずだから、恥じらっていたのかもしれない。
僕からの視線を避けるように、下を向いて答えた。
「分かった。いつもみたいに、私はアルフリードより先に皇城から帰って着替えてから行こうと思うけど、あなたはお仕事の時間が勿体無いから迎えに来なくて大丈夫だからね。時間になったら、お店で待ち合わせしましょう」
やっぱり特別な日だから、その日は何とかして早めに仕事を切り上げようと思ったけれど、エミリアの配慮に甘んじて、そうさせてもらう事にした。
そして、当日。
ライトアップされた花のなった木や植栽が広がる、レストランの中庭。
食欲のない君とそこで向かい合って食事をした後。
僕が差し出した指輪と婚約証を見て君は、こう言ったんだ。
「私はあなたとは結婚できない。婚約を破棄させて下さい」
その揺るぎない瞳は、初めて会った時にソフィアナに向けようとしていた、あの瞳だった。
この2年間、僕を惹きつけて離すことのなかった、その瞳。
ずっと僕に向けて欲しいと願っていた、その瞳を初めて向けながら君は……僕のものになることを拒絶した。
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