90.揺るぎない決意の決め手
ユラリスさんが目覚めるまでの間、皇女様は顔を青白くさせて、見ている私もとってもツラい状態だった。
だけれど、彼女がいないと何も進まない仕事が山積みで、皇女様は王子様のことが気がかりで大丈夫じゃないのに、大丈夫だと言い切って、執務室でお仕事に励まれていた。
私はというと、側近としてお父様やお兄様が執務室を出入りしたり、他の役職に就いている貴族家の人々が報告や相談に訪れるのを、皇女様が机の前で座っている少し後ろで休めのポーズをして、見ているしかできなかった。
そして時折、皇太子様からの用事で現れるアルフリード。
彼は私の予想以上に、これまで見てきた皇女様に対する態度とは一変してしまっていた。
彼女が少しでも、疲れたような表情をすれば、眉根を寄せて不安でいっぱいそうな顔を向け、深いタメ息を吐いていれば、“休んだ方がいい、この件は後回しにしよう”などと言って、彼女の仕草一つで対応がいっぱいいっぱいになっている、そんな有様だった。
まず、この部屋に入ってくると皇女様のご様子のチェックをして、用事が済んでドアへ戻ろうとする時に初めて、
「エミリア、ソフィアナの事を頼んだよ」
そう言って、私の事をついでのようにチラリと見て、ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべる。
だけど……その他の頬や目元なんかは、筋肉が固まってしまっているような、ひきつった緊張した表情だ。
そんな彼を見て、やっぱり私より何よりも、皇女様の方が大事なんだな……と痛感せずにはいられなかった。
私の方に近寄ることもなく、顔や頬に触れることもなく、忙しそうにサッと
「うん、任せて!」
と、そんな気持ちが悟られないように、元気よく返事をした。
そして、ユラリスさんが目覚めた報告を受けた時、ナディクスとの今後の外交にも支障が出るので、彼から話を聞くのを最優先させるため、皇女様は彼の部屋に向かうことになった。
それには、皇太子様にアルフリード、側近として情報共有が必要なエスニョーラ家の父子、そして女騎士の私も同行した。
部屋の前で護衛していたアンバーさんに扉を開いてもらって中に入ると、ユラリスさんは上半身だけ起こしてベッドに横になっており、その背中を脇でイスに座っているリリーナ姫が腕で支えていた。
皇女様と皇太子様だけ、お部屋の椅子に座ってもらった状態で、私たちはユラリスさんの話を聞くことになった。
「お父様の容体が快方に向かい、公務に完全復帰したのは1週間ほど前でした」
包帯だらけの腕を、足に掛けられた白い毛布の上に乗せて、ユラリスさんは
王子様の手紙にも同じことが書いてあった。
「僕とお兄様は、帝国に向かう準備を始めていました。そして、いよいよ出発すると、アイツらが現れたのです」
アイツら? 私以外の人たちも、怪訝そうな顔になってユラリスさんを見つめた。
「全身黒ずくめの鎧に兜をかぶった3、4人の騎士が僕たちの馬車を襲ったのです」
ユラリスさんは、思い出すのも恐ろしいといった表情で、薄い緑色をした大きな瞳を、さらに見開いていた。
黒い騎士……もしかして、私とアルフリードが前に、馬牧場からフローリアを引き取りに行った日に寄った、元リューセリンヌのお城に入っていくのを見た、黒い騎士たち……?
ヤエリゼ君からの報告では、キャルン国で解雇された騎士たちがその正体じゃないか、って話をしていたはず!
王子様の手紙でも、ナディクスの国王様に盛られた毒の主成分であるイモの原産国、キャルンが刺客として怪しいって言ってた。
ここでもキャルン国がらみが出てくるなんて……
「その黒い騎士たちは、何を要求しているのか分かりませんでしたが、護衛をしていたナディクスの騎士たちをなぎ倒して、僕とお兄様を馬車から引きずり降ろそうとしたんです。
お兄様は、取り囲んでいる黒い騎士たちの間から隙間を見つけて、僕の手を引っ張って、逃げました。
そして、城を取り囲む森の中を2人で逃げ惑っていたのですが、ついに黒い騎士たちに追いつかれそうになって……」
そこで、ユラリスさんはガタガタと震え出して、両手で頭を抱えこんだ。
「お兄様は僕を茂みに隠して、おとりになって黒い騎士たちの前に踊り出たんです!
そのまま、騎士に追われながら逃げて行ったのですが……その方角は崖になっていて、僕の目からハッキリとお兄様の体が下へ落ちて行くのが見えたのです……」
ユラリスさんは、大きな神秘的な瞳から涙をこぼした。
そんな彼の様子を見て、皇女様は眉をひそめて、ご自身の親指の爪を噛んでいる。
「そんな……落ちただけなら、まだ命が無いと決めつけるのは
両手を横につけて、スッとした姿勢で皇女様の脇に立っているアルフリードが、ユラリスさんに疑問をぶつけた。
すると、後ろの方に控えていたアンバーさんが進み出た。
「ナディクスの城は、切り立った山の上に建っています。山を下りる道から外れてしまえば四方を崖に囲まれている訳ですから、もしそこから落ちたのであれば……2,000メートルは下の谷間に真っ逆さまでしょう」
に、2,000メートル……!?
ナディクス国って、そんな辺境の地にあったの? そういう環境だから、荷物が1ヶ月に1度しかやり取りができないし、閉鎖的ってイメージだったの?
アンバーさんが、もう救いようがない説明をした後、ユラリスさんはさらに話を続けた。
「僕も、お兄様が落ちて行ってしまったなんて信じられませんから、すぐにその方へ向かいました。だけど、その崖の端まで行って、下を覗き込んだ時には……お兄様を追っていた黒い鎧の騎士たちが浮かんでいる雲を突き抜けて、下へ下へと小さくなっていくのが見えました」
ユラリスさんは下を向いて、私が王子様からの手紙の便箋を濡らしてしまったように、白い毛布にポタポタと涙を落としている。
「そして……彼らのさらに下の方には、確かに白く、たなびく服をまとった人が落ちていくのが見えたのです。あれは、絶対に、僕のお兄様、としか……」
そこでユラリスさんは、言葉を続けることができなくなって、グスッグスッと止まることのない涙を何度も何度も
「くうっ……うう……」
そんなユラリスさんを見て、ナディクス国の騎士であるアンバーさんも涙を流している。
皇女様は、黙ったままでいるけど、そのお顔はこれまで以上に蒼白で、お化粧もままならない状態だったから、口紅も塗っていない唇は紫色のようになっていて、ブルブルと震えている。
「それで、ユラリス。その傷は、その黒い騎士っていうのにやられたの!? わたくし、許しませんわ!」
いつもだったらご自身のためにしかキレてる所は見たことがなかったのに、リリーナ姫はユラリスさんのために
確かに……ユラリスさんはなんで傷だらけなのか。
しかも、そんな状態で帝国までの長い道のりを1人でやって来たというのだろうか? こんなにか弱そうな王子様なのに……
「その後、また城へ戻ったらあの騎士たちに何をされるか分からないので、山を
ユラリスさんは、そこで一旦、話を切って、自身の手のひらを布団の上でギュッと握った。
「僕を助けてくれた人がいたんです。その方は、4年前に亡くなったはずの人……僕の、お祖父様でした」
ユラリスさんは、そこで初めて顔を上げて、天井を仰ぐように見つめた。
……へえぇ??
私と同じように、その場にいる人々は全員、顔を“??”といった表情にしている。
だって、ユラリスさん、そしてエルラルゴ王子様のお祖父様といえば、前のナディクスの国王様。
4年前に、本当だったら皇女様をお嫁さんにするのに迎えに来ていたエルラルゴ王子様が、喪に服すために祖国へ1人戻ることになった、毒を盛られて亡くなった国王様だ。
「お祖父様の話では、仕込まれた毒というのが、どうやら仮死状態を引き起こすものだったらしいのです。
うーん……そんな事あるのかな、と思ってしまうけど、ユラリスさんが1人きりでナディクスから帝国まで来るのも不自然だから、案内してくれた人がいてもおかしくはない。
すると、突然、ポロロンロンと綺麗な音色が鳴り出した。
なんだろうとキョロキョロしていると、それは皇女様のお誕生日プレゼントだったのに、コミュニケーションツールとして活用されている鍵盤キーボードを、皇太子様が鳴らしている音だった。
「ユラリス殿、皇太子殿下は、ぜひ前国王様にお目通りしたいと申していますが、今はどちらにいらっしゃるのでしょう」
私にはさっぱり、さっきのメロディの意味が分からなかったけど、すぐさまアルフリードが通訳を始めた。
「お祖父様は、僕をここまで送り届けた後、どこかへ消えてしまわれました……僕も引き止めたかったのですが、この怪我で思うように動くこともままならず……」
ユラリスさんからのお話はここまでだった。
ナディクス国の王子様たちを襲った、キャルン国の元騎士だと思われる黒い騎士集団。
亡くなったはずだった、ナディクス国の前国王様の出現。
周辺でも色々な動きを見せ始めたけど、私にとって何より重要なのは……エルラルゴ王子様だ。
アルフリードは、顔色も悪くカタカタと微かに震えている皇女様を、とても切なげな、不安げな表情で見つめている。
原作には登場することのなかったエルラルゴ王子様。
その原作が始まる21歳の皇女様が亡くなる馬車事故のシーンまで、早くてもあと1年。
あの存在感の強い王子様が死んでしまうなんて、陛下の部屋でユラリスさんが倒れた時に初めて聞いた時は、まだ本当だとは信じ切れていなかった。
だけど、2,000メートルの崖から飛び降りた所も、下に落ちていく姿もユラリスさんが見ていることが判明したのだ……もう原作通りの展開が進み始めていると、受け入れて納得するしかない……
もう立ち止まっているヒマはないんだ。
約1ヶ月後に迫った、結婚の約束をしている私の8月の誕生日までに、アルフリードと婚約破棄して、新しい後ろ盾を見つける。
それも全ては……私の大好きなアルフリードのため。
その揺るぎない決意を、私は今、ここで固めた。
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