先生
長身のひょろりとした男性が
手ぬぐいで額の汗をふきふき。
なんて呑気なものだと散らばるチラシを尻目に先程の猫を思い出しながら口を開いた。
「えっと、遅刻。どうしたんですか?」
「いや申し訳ない。
ちょっと駅の方で。はい」
男性、先程麦が時間まで待っていた先生は目を泳がせた。
「風船をとってて」
風船をとる?
あまりに突拍子もない台詞に麦は目を丸くした。
「それはまたどうして…」
「こっちに来る途中にあるじゃないですか、あの綺麗な並木。
近所のちびが木にひっかけちゃったみたいで泣いてたんで」
あ、言い訳ですねこんなの。
と、先生は付け加えて錆びた自転車の足を浮かせて停めた。
未だ坂道に散らばったまんまのチラシ。
できるだけ傷つけないように端から拾い集める。
長身で、風が吹けば飛んでいってしまいそうな先生もしゃがんでしまえば麦と同じくらいである。
「ごくろう、さまです」
結局上司として叱るべきか、褒めるべきか、いい感じに流すべきか考えた末、
一言だけ絞り出すに終わった。
せっせと麦と一緒になってチラシを拾い集める先生の丸眼鏡の縁が、
段々と上から上から照りつけ始める陽の光をきらりと反射する。
麦は気付かぬ間にずるずると下がるワイシャツの袖をまくり直し、僅かに滲む額の汗を拭った。
真冬の厳しい季節は、春の恋しさを思い出させるがいざこの季節がやってきてみれば、
意外と快適とまでは言えなかったりするのだった。
どうやら、この遮蔽物も
暖かな太陽にあてられながらしゃがんでチラシと追いかけっこする一種の修行に苦しめられているのはどうやら麦だけではなかったようで、
先生の爽やかな短髪から見える狭めの額にも汗が光って見えた。
麦は思わずふっと笑った。
大の大人(?)二人で何をやってるのか。
「時間、ちゃんとまもってくださいね」
「は、すみません」
先生は話しかけられると思っていなかったのか、チラシを片手にぱっと麦を見た。
そうして再び下を向いて、もともとの猫背を悪化させた。
あー、でも。
「それは
私じゃ木の上どころか、木の枝一本と掴めませんから」
早口に言って、自虐的に笑った。
なんだこの謎すぎるフォローは。
こういう他人がしなしなしている時は自虐ネタで乗り切るのが良し。
高校時代の恩師が言ってた。
気がする。
「あー、僕は小さな路地に入れませんよ」
「ハイ?」
額をハンカチで拭って、
「近道できません」
あ、はい。それはそうだけど。
麦の頭の中は真っ白。
「…だから、塾長さんにも塾長さんにしか出来ないことがあるはずです。
身長が高くて得することなんて、冷蔵庫の上にものをおけることぐらいですよ」
「…冷蔵庫の上?」
「はい。そんなものです」
いや、そこじゃなくて。
麦はオウム返し、そんなものかぁ、と言って
どうしてか満足そうな顔。
もう汗は
「これで全部ですね」
浦先生が丁寧にチラシを紙袋に入れた。
そしてスーツをはらう麦にどうぞと渡す。
少なくとも、十枚ほどは逃げ出すことに成功したのだろう。
紙袋の重みが、妙に減った気がした。
あの逃げ出した広告たちは今後どう過ごすのだろうか。
せめて
烏が巣に紙を使うのは珍しいですよ。
なんとなしに呟いた独り言を拾われた。
変わった人だ。
再度思った。
□
「はい、これで最後です」
ガシャリとポストの口が鳴くのと同時に浦先生が言った。
目の前には、私たちの塾が何個も入りそうな大きな団地。
疲れてくたくたの紙袋を見てみれば、残り僅かな広告が。
あとは塾の中にでも置いておけばいい。
多めに刷っておいて損は無いのである。
道にぶちまけて多少損はしたが。
この団地は部屋が縦に並ぶ所ごとの一番下に、その部屋それぞれのポストがまとまって置いてある。
気づけば夕方。
ややオレンジの日差しへと二人で足を踏み出した。
大きく息を吸い込んでみれば、若干土の匂いがするどこか懐かしいような香りがした。
「塾長さんは、なんで塾長さんになったんですか」
塾へ戻る道、からからと音を立てながら錆びた赤い自転車を引く浦先生が唐突に言った。
なんでだろう。
ふむと小さく唸った。
今ふりかえってみれば、もっと他の職にも着くことが出来た。
それなりな高校、大学を卒業した訳だし、地元の知人はみんな幸せそうだ。
ひとえに幸せといっても人それぞれ別の形があるから一概には言えないが。
それでも麦がここまで来たのは何か強く突き上げる衝動があったからか。
「人の人生を見るのが好きなんです」
なるほど。
猫背の浦先生が
「…呆れてます?」
「いや、感心してるんですよ」
起伏があまりない返事。
浦先生らしいな。
麦は思った。
「…これからよろしくお願いします。」
麦の仕事仲間、長身でやや
「ハイ、こちらこそ…」
坂道は登ってしまえば、下りは楽だ。
隠しきれない笑顔。
お互い顔は合わせなかった。
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